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伊勢雅臣の最新刊『学校が教えない本当の歴史』発売
聖徳太子の名前は知っていても「和の国」の歴史は知らないというすべての日本国民へ。
■■ 転送歓迎 ■■ No.3077 ■■ R02.11.04 ■■ 4,240部■■
■1.教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)
本日、Amazonと全国の書店で、拙著『学校が教えない本当の歴史』が発売開始されます。「聖徳太子の名前は知っていても「和の国」の歴史は知らないというすべての日本国民へ。教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)」という広告文がついています。
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■■■ 伊勢雅臣 最新刊 発売 ■■■
『学校が教えない本当の日本史』、扶桑社、R02、\1,650(税込み)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594086071/japanonthegl0-22/
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「学校が教えない本当の歴史」のごく一部を紹介しましょう。
■2.かくて蝦夷(えみし)は「和の国」に迎え入れられた
ある中学歴史参考書は、「蝦夷の平定」と題して、こう書いています。
__________
東北地方には蝦夷とよばれる人々がいて,牧畜や農耕を営み,朝廷による東北地方の支配に対し抵抗していた。朝廷は,坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方に送り,蝦夷を平定するとともに、胆沢城や志波城を築いて勢力を広げた。
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一方、國學院大學の樋口清之・名誉教授は次のように述べています。
__________
昭和30(1955)年に、この城のあったところを発掘調査したところ、なんと城の中に、みごとな農事試験場が作られていた。
学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だけで押さえつけたような表現で述べられている。
だが、実際はそうではなかった。坂上田村麻呂は将軍だが、戦闘はほとんどしなかった。・・・
そのかわり彼らは、鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・斧(おの)・火打金(かね)などを持っていった。・・・
結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂(ふんやのわたまろ、本書注:38年戦争を最終的に終わらせた武将)にしても、彼らの軍隊は農業開拓の派遣団だったのである。・・・だから軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技術指導の開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、そのために成功した。
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その後も大和朝廷は、投降した蝦夷を数千人の規模で、全国各地に移住させ、口分田を与え、租税を免除し、朝廷からは「望郷の思いを忘れるほどに常に優遇・優待せよ」との命令が出ており、時節毎に饗宴まで行うこともありました。
さらに朝廷は蝦夷たちの武力を活用しました。九州太宰府に防人として送ったり、また警察として群盗や海賊の追捕にも用いたのです。彼らの忠誠心が信じられなければ、武力を持つ軍人や警察官として用いることは危険な政策です。それほどまでに蝦夷が地域社会で処を得て、信頼されるようになっていた、ということでしょう。
こうして蝦夷は大和朝廷の民として、迎え入れられていったのです。
■3.キリシタンの侵略から国を護った信長・秀吉・家康
キリシタンの追放については、ある参考書は次のように書いています。
__________
豊臣秀吉のキリスト教政策…秀吉は,初めはキリスト教の布教を許していたが,長崎がイエズス会に寄進されていることを知ると,キリスト教は国内統一のさまたげになるとして,バテレン追放令を出してキリスト教の宣教師を国外に追放した。
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ポルトガル人が日本人を奴隷として海外に売り飛ばしていた、という史実は、最近知られてきたことで、歴史教科書ではまだあまり記述されていませんが、「衣の下の鎧」をのぞかせています。「学校,病院,孤児院などを建設し,人々を救済した」宣教師が、同時に日本人を奴隷として売っていた、というのは、大きな矛盾です。彼らの真の狙いはどこにあったのでしょうか?
10年以上も日本に留まっていたイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルはスペイン国王あてに、次のような書簡を送っています。
__________
私の考えでは、この(シナの)征服事業を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・
日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、嬉嬉としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
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日本は強すぎるので、直接の植民地化は無理とみたキリシタン宣教師たちは、シナ侵略に日本人キリスト教徒を傭兵として使おうと考えていたのです。こういう企みを阻止したのが、信長-秀吉-家康の対キリシタン冷戦でした。
■4.えた身分差別解消への苦闘
江戸時代の身分差別では、次のような教え方が一般的です。
__________
百姓・町人とは別に,えた・ひにんなどの身分にされた人たちがいて、きびしい差別を受けた。
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しかし、次のような史実は書かれていません。
__________
一.江戸時代以前は、えた身分の人々は、常民にはなしえない「穢(けが)れ」を清める仕事を持ち、皇室や寺社に直属する特権職能集団でした。
二.江戸時代には差別はされつつも、独占的な職業収入によって通常の百姓よりも豊かな生活を送る人々が珍しくありませんでした。
三.江戸時代後半には、えた身分も同じ人間であり、差別するのはおかしいという社会常識が広まっていきました。
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たとえば、第二の点に関しては、次のような史実があります。
・大阪の渡辺村には、西日本各地から年間10万枚もの原皮が集まり、その中で裕福な皮革業者も生まれました。太鼓屋又兵衛は「およそ七○万両程の分限にて、和漢の珍器倉庫に充満し、著侈(しゃし)おおかたならず、美妾も七、八人ありという」と記録されています。
・江戸時代後半は地球が寒冷期を迎えて、享保、天明、天保と大飢饉が続き、人口増も停滞しました。しかし、その間も、えた身分の人口はほぼ順調に増え続けました。その理由としては、農業とともに皮革業その他の職業をもっており、農業一本槍の農民よりも生活は安定していた、と考えられています。
えた身分の人々は社会的な身分差別に苦しめられていましたが、経済的にも徹底的に搾取されていた、という見方は成り立ちません。
第三の点に関しては、以下の史実があります。
・長州の高杉晋作が組織した奇兵隊は、身分制度にとらわれず、農民や町人だけでなく、えた身分も兵隊に取り立てていました。軍隊で活躍することは、世界各地で見られる差別打破の早道です。高杉晋作の師・吉田松陰は、古代日本の理想から、天皇のもと万民は平等という「一君万民」を唱えていました。江戸時代の身分差別制度は、その本来の姿からの一時的な逸脱でした。
明治4年には、新政府は「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共(とも)平民同様トス」との解放令を出しました。それはこの「一君万民」の理想からでした。もとより、差別感情は江戸時代の長きに渡って人の心深くに根付いたものですから、一朝一夕に解消するものではありませんが、差別解消に向けて粘り強く進めるための理想が打ち出されたのです。
■5.沖縄は第二次大戦時の「捨て石」だったのか?
「沖縄は第二次大戦中、捨て石にされた」と教える教科書が、あります。しかし、国内唯一の戦場となり、戦後は長く米軍占領が続いた沖縄を、祖国に呼び戻そうと、懸命の努力が続けられたことは、学校では教えられていません。
沖縄戦末期、海軍沖縄根拠地隊の大田中将は、玉砕の寸前に、海軍次官あて電報を打ちました。そこでは沖縄県民の軍への必死の協力を具体的に述べた後、こう結びました。
「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
戦後、この電文を読んで感激した山中貞則・衆議院議員は佐藤栄作氏が首相となると、米軍占領下の沖縄に行って、「永い間苦労をかけたが、もう少し待ってくれ」と慰めてくれと頼みました。
その言葉を受けた佐藤首相は、沖縄の那覇空港到着時に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」と語り、沖縄復帰に内閣の命運をかけたのです。
山中氏はその後、総務長官として沖縄復帰の陣頭指揮をとり、復帰後は初代の沖縄開発庁長官も兼務して、沖縄の復興に尽くしました。「あらゆる局面で大田中将が言われた『後世格別ノ御高配』に応えているか」と自問自答しながら、仕事を進めました。
昭和天皇は戦後、国民を励ますためにすべての都道府県を巡幸されましたが、占領下の沖縄だけが残っていました。昭和62年、秋の国体でようやく沖縄を訪問される機会が訪れましたが、その直前、病に倒れ、次の無念の御歌を残されました。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
昭和天皇の「たづねて果たさむつとめ」というお言葉は、大田中将の「格別ノ御高配ヲ」という願いに応えているかのようです。
その御遺志を受けて、上皇陛下は皇太子時代も含め、11度も沖縄を訪問されています。陛下は歴代琉球王の琉歌を一冊の大学ノートにびっしり書き写して学ばれてきました。その一首が以下です。
花よおしゆげやん (花を捧げましょう)
人知らぬ魂 (人知れず亡くなっていった多くの人々の魂に対して)
戦ないらぬ世よ (戦争のない世を)
肝(チム)に願て (心から願って)
沖縄の人々の霊に、沖縄の言葉で、鎮魂の歌を捧げられたのです。
■6.「学校で教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)」
本書では、そのほかに次のようなテーマで、学校が教えない日本史を語っています。
・アイヌとの同化・融和・共生の歴史
・島原の乱は、神社仏閣を破壊し、僧侶神官を殺害する立ち帰りキリシタンから信教の自由を護る戦いだった。
・…
[続きはコチラから]
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伊勢雅臣の最新刊『学校が教えない本当の歴史』発売
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■1.教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)
本日、Amazonと全国の書店で、拙著『学校が教えない本当の歴史』が発売開始されます。「聖徳太子の名前は知っていても「和の国」の歴史は知らないというすべての日本国民へ。教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)」という広告文がついています。
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「学校が教えない本当の歴史」のごく一部を紹介しましょう。
■2.かくて蝦夷(えみし)は「和の国」に迎え入れられた
ある中学歴史参考書は、「蝦夷の平定」と題して、こう書いています。
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東北地方には蝦夷とよばれる人々がいて,牧畜や農耕を営み,朝廷による東北地方の支配に対し抵抗していた。朝廷は,坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方に送り,蝦夷を平定するとともに、胆沢城や志波城を築いて勢力を広げた。
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一方、國學院大學の樋口清之・名誉教授は次のように述べています。
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昭和30(1955)年に、この城のあったところを発掘調査したところ、なんと城の中に、みごとな農事試験場が作られていた。
学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だけで押さえつけたような表現で述べられている。
だが、実際はそうではなかった。坂上田村麻呂は将軍だが、戦闘はほとんどしなかった。・・・
そのかわり彼らは、鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・斧(おの)・火打金(かね)などを持っていった。・・・
結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂(ふんやのわたまろ、本書注:38年戦争を最終的に終わらせた武将)にしても、彼らの軍隊は農業開拓の派遣団だったのである。・・・だから軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技術指導の開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、そのために成功した。
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その後も大和朝廷は、投降した蝦夷を数千人の規模で、全国各地に移住させ、口分田を与え、租税を免除し、朝廷からは「望郷の思いを忘れるほどに常に優遇・優待せよ」との命令が出ており、時節毎に饗宴まで行うこともありました。
さらに朝廷は蝦夷たちの武力を活用しました。九州太宰府に防人として送ったり、また警察として群盗や海賊の追捕にも用いたのです。彼らの忠誠心が信じられなければ、武力を持つ軍人や警察官として用いることは危険な政策です。それほどまでに蝦夷が地域社会で処を得て、信頼されるようになっていた、ということでしょう。
こうして蝦夷は大和朝廷の民として、迎え入れられていったのです。
■3.キリシタンの侵略から国を護った信長・秀吉・家康
キリシタンの追放については、ある参考書は次のように書いています。
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豊臣秀吉のキリスト教政策…秀吉は,初めはキリスト教の布教を許していたが,長崎がイエズス会に寄進されていることを知ると,キリスト教は国内統一のさまたげになるとして,バテレン追放令を出してキリスト教の宣教師を国外に追放した。
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ポルトガル人が日本人を奴隷として海外に売り飛ばしていた、という史実は、最近知られてきたことで、歴史教科書ではまだあまり記述されていませんが、「衣の下の鎧」をのぞかせています。「学校,病院,孤児院などを建設し,人々を救済した」宣教師が、同時に日本人を奴隷として売っていた、というのは、大きな矛盾です。彼らの真の狙いはどこにあったのでしょうか?
10年以上も日本に留まっていたイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルはスペイン国王あてに、次のような書簡を送っています。
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私の考えでは、この(シナの)征服事業を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・
日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、嬉嬉としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
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日本は強すぎるので、直接の植民地化は無理とみたキリシタン宣教師たちは、シナ侵略に日本人キリスト教徒を傭兵として使おうと考えていたのです。こういう企みを阻止したのが、信長-秀吉-家康の対キリシタン冷戦でした。
■4.えた身分差別解消への苦闘
江戸時代の身分差別では、次のような教え方が一般的です。
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百姓・町人とは別に,えた・ひにんなどの身分にされた人たちがいて、きびしい差別を受けた。
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しかし、次のような史実は書かれていません。
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一.江戸時代以前は、えた身分の人々は、常民にはなしえない「穢(けが)れ」を清める仕事を持ち、皇室や寺社に直属する特権職能集団でした。
二.江戸時代には差別はされつつも、独占的な職業収入によって通常の百姓よりも豊かな生活を送る人々が珍しくありませんでした。
三.江戸時代後半には、えた身分も同じ人間であり、差別するのはおかしいという社会常識が広まっていきました。
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たとえば、第二の点に関しては、次のような史実があります。
・大阪の渡辺村には、西日本各地から年間10万枚もの原皮が集まり、その中で裕福な皮革業者も生まれました。太鼓屋又兵衛は「およそ七○万両程の分限にて、和漢の珍器倉庫に充満し、著侈(しゃし)おおかたならず、美妾も七、八人ありという」と記録されています。
・江戸時代後半は地球が寒冷期を迎えて、享保、天明、天保と大飢饉が続き、人口増も停滞しました。しかし、その間も、えた身分の人口はほぼ順調に増え続けました。その理由としては、農業とともに皮革業その他の職業をもっており、農業一本槍の農民よりも生活は安定していた、と考えられています。
えた身分の人々は社会的な身分差別に苦しめられていましたが、経済的にも徹底的に搾取されていた、という見方は成り立ちません。
第三の点に関しては、以下の史実があります。
・長州の高杉晋作が組織した奇兵隊は、身分制度にとらわれず、農民や町人だけでなく、えた身分も兵隊に取り立てていました。軍隊で活躍することは、世界各地で見られる差別打破の早道です。高杉晋作の師・吉田松陰は、古代日本の理想から、天皇のもと万民は平等という「一君万民」を唱えていました。江戸時代の身分差別制度は、その本来の姿からの一時的な逸脱でした。
明治4年には、新政府は「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共(とも)平民同様トス」との解放令を出しました。それはこの「一君万民」の理想からでした。もとより、差別感情は江戸時代の長きに渡って人の心深くに根付いたものですから、一朝一夕に解消するものではありませんが、差別解消に向けて粘り強く進めるための理想が打ち出されたのです。
■5.沖縄は第二次大戦時の「捨て石」だったのか?
「沖縄は第二次大戦中、捨て石にされた」と教える教科書が、あります。しかし、国内唯一の戦場となり、戦後は長く米軍占領が続いた沖縄を、祖国に呼び戻そうと、懸命の努力が続けられたことは、学校では教えられていません。
沖縄戦末期、海軍沖縄根拠地隊の大田中将は、玉砕の寸前に、海軍次官あて電報を打ちました。そこでは沖縄県民の軍への必死の協力を具体的に述べた後、こう結びました。
「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
戦後、この電文を読んで感激した山中貞則・衆議院議員は佐藤栄作氏が首相となると、米軍占領下の沖縄に行って、「永い間苦労をかけたが、もう少し待ってくれ」と慰めてくれと頼みました。
その言葉を受けた佐藤首相は、沖縄の那覇空港到着時に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」と語り、沖縄復帰に内閣の命運をかけたのです。
山中氏はその後、総務長官として沖縄復帰の陣頭指揮をとり、復帰後は初代の沖縄開発庁長官も兼務して、沖縄の復興に尽くしました。「あらゆる局面で大田中将が言われた『後世格別ノ御高配』に応えているか」と自問自答しながら、仕事を進めました。
昭和天皇は戦後、国民を励ますためにすべての都道府県を巡幸されましたが、占領下の沖縄だけが残っていました。昭和62年、秋の国体でようやく沖縄を訪問される機会が訪れましたが、その直前、病に倒れ、次の無念の御歌を残されました。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
昭和天皇の「たづねて果たさむつとめ」というお言葉は、大田中将の「格別ノ御高配ヲ」という願いに応えているかのようです。
その御遺志を受けて、上皇陛下は皇太子時代も含め、11度も沖縄を訪問されています。陛下は歴代琉球王の琉歌を一冊の大学ノートにびっしり書き写して学ばれてきました。その一首が以下です。
花よおしゆげやん (花を捧げましょう)
人知らぬ魂 (人知れず亡くなっていった多くの人々の魂に対して)
戦ないらぬ世よ (戦争のない世を)
肝(チム)に願て (心から願って)
沖縄の人々の霊に、沖縄の言葉で、鎮魂の歌を捧げられたのです。
■6.「学校で教えられない歴史を補う副読本(サプリメント)」
本書では、そのほかに次のようなテーマで、学校が教えない日本史を語っています。
・アイヌとの同化・融和・共生の歴史
・島原の乱は、神社仏閣を破壊し、僧侶神官を殺害する立ち帰りキリシタンから信教の自由を護る戦いだった。
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[続きはコチラから]
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