■■ Japan On the Globe(1189)■■ 国際派日本人養成講座 ■■
国柄探訪: 「三方よし」が経済発展を導く
「三方よし」で各地に進出した近江商人が、江戸時代の全国経済を築いた。
■転送歓迎■ R02.11.01 ■ 39,873 Copies ■ 7,215,206Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/
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■■■ 国民文化講座 ~ 渡辺利夫先生の講演会 ~
日時: 令和2年11月22日(日)午後2時開会~午後4時40分閉会
場所: 千代田区立日比谷図書文化館大ホール(日比谷公園内)
講師: ■渡辺利夫先生(拓殖大学学事顧問)
演題: 「血脈、天皇そして日本」
参加費: 1,500円(学生500円)
定員: 100名(大ホールの定員207名の2分の1)
主催: 公益社団法人国民文化研究会
詳細・申込み: http://www.kokubunken.or.jp/kouza/
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■1.大飢饉の中での普請
江戸後期の天保の大飢饉(1833 -1839] )の最中、琵琶湖東岸、現在の彦根市に隣接する豊郷(とよさと)町で住宅の改築と寺院仏堂の修理工事を始めた商人がいました。今で言えば、コロナ禍で企業倒産と失業者も増える中で、家を改築するようなものです。
起工を知った彦根藩は飢饉に苦しむ人々を無視した傍若無人の振舞いとして、役人を派遣して咎めようとしました。しかし、役人が現地に行ってみると、工事の従事者には賃金を与え、家族にまで雑炊を振る舞っていたのです。
飢饉で人々が困っている時に、単に施しをするのではなく、仕事を作ってその対価として工賃を支払うというやり方には、相手の立場への思いやりが籠もっていました。工事をしたのは、地元の近江商人・7代目藤野四郎兵衛。派遣された役人は四郎兵衛の義挙を嘆賞し、地元民もこの一時を「藤野の飢饉普請」と呼んで、後世まで語り伝えました。[末永, 1025]
■2.「サクラやカエデ?」
こうした義挙は、近江商人の歴史には事欠きません。現在の東近江市に寛政元(1789)年に生まれた塚本定右衛門定悦は、19歳で商売を志し、わずかな資本で小町紅(こまちべに、稀少な紅で作る伝統的な口紅)を仕入れ、東北地方にまで売り回りました。
やがて呉服や綿製品も扱うようになり、「紅屋」と名付けた店を開いて成功しました。安政5(1858)年の大飢饉では、今まで貯めた財産を惜しげもなく使って、村人を救いました。
その長男が定次(さだつぐ)でした。時々、勝海舟のもとに出入りしており、海舟の座談には次のように書かれています。
__________
江州(JOG注: 近江)の塚本定次という男は、実にめずらしい人物だ。数万の財産を持っておりながら、自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも粗末な着物を着ていて、ちょっと見たところはただの田舎親父としか思えない。[童門、256]
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ある時、定次がまたやってきて、自分の所在地で荒れたままになっている所がかなりあって、何か近辺の住民のためになるように使いたい、いっそのことサクラやカエデを植えたら、と思うがどうか、と聞きます。「サクラやカエデ?」と海舟が聞き返すと、定次はこう答えました。
__________
近所に住む人びとは貧しくて、働くのに精一杯でなかなか京都のモミジや吉野山のサクラを見にいくような暇がありません。ですからいっそのこと、吉野山に咲いているサクラや京都の美しいモミジの苗木を荒れ地に植えて、近所の人びとが季節になれば花見をしたり、モミジ狩りができるような場をつくったらいかがかと思いまして、ご相談に上がりました。[童門, 273]
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海舟は「面白い考えだな、ぜひ実行しなさい」と賛成しました。
■3.中江藤樹が遺したまごころ
近江商人たちの地元を大切にする気風は、中江藤樹(なかえ・とうじゅ)が源流となっているようです。藤樹は江戸時代初期の学者で、伊予大洲藩(いよおおず、愛媛県)に仕えていましたが、学問を出世の道具と考える気風に反発して35歳にして脱藩し、生まれ故郷、琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町)に帰ってきて、母親に孝養を尽くしました。
藤樹は母親を思う人間生来の「まごころ」が広がれば、家族で助け合い、地域も支え合う、と考えて、馬方や漁師などに教え始めたのです。その教えは琵琶湖の静かな波のように、ひたひたと周辺に広がり、藤樹の家で溝に鯉を飼い、盆栽を置いても誰も盗まない、という話が近隣でも評判になりました。
それを聞いて、中江の塾で学問をしたいという人々が増えていき、馬方や漁師、農民から、商人、武士と身分を超えて、ともに人としての生きる道を学ぶようになっていきました。藤樹はわずか41歳で亡くなりましたが、死後、「近江聖人」と呼ばれるようになったのです。[JOG(324)]
藤樹の徳風が根付いた土地に生まれ育った商人たちが、成功した後に財産を地元の人々にために使おうとするのは、同じまごころでしょう。
■4.「商(あきな)いはホトケの代行だ」
近江商人たちが大切にしたのは、地元だけではありません。なかには、わざわざ遠い地域の道路修理に金を出した人物もいました。まわりから、「あんな遠い所の道路修理になぜ金を出すのだ?」と聞かれると、こう答えました。
__________
遠い近いは関係ない。近江国を通る道の中で、悪い道路があれば直せる人間が直すことによって、人びとの往来が活発になる。それがひいてはわれわれの商売にも利益をもたらすのだ。[童門,291]
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江戸時代初期の鈴木正三(しょうさん)は「商(あきな)いはホトケの代行だ」と言いました。正三は徳川の旗本でしたが、42歳にして武士の身分を捨て、禅僧として出家した人です。その頃から士農工商の身分制が定着し始めましたが、「何(いずれ)の事業もみな仏行なり」と教えていました。
士農工商の最下位に置かれた商人に対しても、「ホトケの代行」と言っていたのは、山奥に住む人々にも必要な商品をお届けするのは、その人々にとって、まさに仏様にも相当する救いの手だ、という意味でしょう。道路を直して、そういう人々のところにも商人が行きやすくするのも、仏様をお助けする善行です。[童門, 219]
そして「ホトケの代行」なら、当然、暴利をむさぼったり、悪い品物を騙して売りつけたりしてはいけません。
■5.天秤棒の行商で覚える「売り手よし」
江戸時代から近江には、畳表、蚊帳、売薬、麻布、木綿などを作る地場産業があり、初期の近江商人は、天秤棒を担いでこれらの商品を売り歩きました。
現在の東近江市出身で、綿や麻の織物の問屋として成功した丁子屋(ちょうじや)小林吟右衛門という近江商人がいました。初代吟右衛門は、寛政10(1798)年、22歳にして行商を始め、織物や小間物を近隣の村々へ売り歩きました。この吟右衛門が78歳で亡くなる寸前に、次のような発言をしたことが記録されています。
__________
天秤棒をかついでまわるような小商人は、世間の人々の好意や助力で毎日の生活が成り立っているのである。だから、相手の立場を考えて振舞うという実意がなければ、他人は力添えをしてくれることはない。
どんな場合でも他人に不義理をしないように、損失をかけないようにということを第一に心がけながら、自分は骨を折って働きとおすことを少しも厭わないならば、人々はその心持と働く姿をみて自然に心を動かされるであろう。そのような好印象を与えることができれば、商売はうまくいき、資産もいつとはなしに増えるものである。[末永,839]
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天秤棒の行商は、買い手よしを体で覚える機会でした。
■6.盛岡まで進出して喜ばれた「世間よし」
近江商人は行商の範囲を広げ、やがて関東や東北にまで足を伸ばしていきます。
琵琶湖西岸の高島で商売を始めた村井新七は、盛岡(岩手県)にまで進出しました。そこでは藩も商人たちも現金の持ち合わせが少ないので、藩政府は他国の商人が商品を売りつけて、正貨が流出することを嫌がっていました。そこで新七が考えたのが、持ち込んだ商品を売った代金で、土地の名産品を買い付け、それをまた近畿に持ち帰って売る、という交易です。
特に東北地方は、木綿、茶、みかん、ローソクなどの生活必需品が不足しており、それらを持ち込むことで地元民に喜ばれる。またその代金で地元の名産品を買って他国に売ってくれるのですから、藩政府も「近江商人の商法は、なかなかいい」と歓迎しました。
新七はさらに「南部の地に根を生やさなければだめだ」と考え、行商だけではなく、地元に店を構えました。そして仲間の近江商人たちも次々に呼び寄せました。近江商人たちは、よそ者が新しい地に根を下ろすには、地元の人間以上に徳義を大切にしなければならない、と良い意味での「他国者意識」を持って働いたのです。
矢尾喜兵衛は琵琶湖東岸から20キロほど東南の山間部に入った蒲生郡に、正徳元(1711)年に生まれました。長じて同郷の矢野新右衛門の下で奉公に入り、やがて武蔵国(埼玉県)秩父郡の出店の支配人となり、寛延2(1749)年、39歳で同地での独立を認められました。本家と資本を出し合って、大宮郷で酒造業も始めました。
その4代目は、奉公人に対して「遠国渡世の身分は地の商人と違ひ、身持また格別に正しく有るべきこと」と心得を教え諭しています。自分達のような他所からやってきた商売人は、地元の商人衆よりも格別に身持ちを正しくしなければならない、というのです。
進出して100年も経っているのに、「他国者意識」を持ち続けていました。そして飢饉の際には貧民に米銭を施し、また自腹を切って米の安売りを続けたのです。
その徳義が報われる時がやってきました。明治17(1884)年、松方デフレ不況で、養蚕・製糸を副業にしていた農民たちが借金に苦しみ、数千人が蜂起して、大宮郷の郡役所や警察を襲い、高利貸しの家を焼き討ちしたのです。
当時、矢尾家の出店は、大宮郷で最大の商家に成長していましたが、蜂起した農民たちは、矢尾家の日頃の徳義に感謝していて、兵糧の炊き出しを依頼するのみで、通常のように開店営業することを認めました。…
[続きはコチラから]
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■1.大飢饉の中での普請
江戸後期の天保の大飢饉(1833 -1839] )の最中、琵琶湖東岸、現在の彦根市に隣接する豊郷(とよさと)町で住宅の改築と寺院仏堂の修理工事を始めた商人がいました。今で言えば、コロナ禍で企業倒産と失業者も増える中で、家を改築するようなものです。
起工を知った彦根藩は飢饉に苦しむ人々を無視した傍若無人の振舞いとして、役人を派遣して咎めようとしました。しかし、役人が現地に行ってみると、工事の従事者には賃金を与え、家族にまで雑炊を振る舞っていたのです。
飢饉で人々が困っている時に、単に施しをするのではなく、仕事を作ってその対価として工賃を支払うというやり方には、相手の立場への思いやりが籠もっていました。工事をしたのは、地元の近江商人・7代目藤野四郎兵衛。派遣された役人は四郎兵衛の義挙を嘆賞し、地元民もこの一時を「藤野の飢饉普請」と呼んで、後世まで語り伝えました。[末永, 1025]
■2.「サクラやカエデ?」
こうした義挙は、近江商人の歴史には事欠きません。現在の東近江市に寛政元(1789)年に生まれた塚本定右衛門定悦は、19歳で商売を志し、わずかな資本で小町紅(こまちべに、稀少な紅で作る伝統的な口紅)を仕入れ、東北地方にまで売り回りました。
やがて呉服や綿製品も扱うようになり、「紅屋」と名付けた店を開いて成功しました。安政5(1858)年の大飢饉では、今まで貯めた財産を惜しげもなく使って、村人を救いました。
その長男が定次(さだつぐ)でした。時々、勝海舟のもとに出入りしており、海舟の座談には次のように書かれています。
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江州(JOG注: 近江)の塚本定次という男は、実にめずらしい人物だ。数万の財産を持っておりながら、自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも粗末な着物を着ていて、ちょっと見たところはただの田舎親父としか思えない。[童門、256]
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ある時、定次がまたやってきて、自分の所在地で荒れたままになっている所がかなりあって、何か近辺の住民のためになるように使いたい、いっそのことサクラやカエデを植えたら、と思うがどうか、と聞きます。「サクラやカエデ?」と海舟が聞き返すと、定次はこう答えました。
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近所に住む人びとは貧しくて、働くのに精一杯でなかなか京都のモミジや吉野山のサクラを見にいくような暇がありません。ですからいっそのこと、吉野山に咲いているサクラや京都の美しいモミジの苗木を荒れ地に植えて、近所の人びとが季節になれば花見をしたり、モミジ狩りができるような場をつくったらいかがかと思いまして、ご相談に上がりました。[童門, 273]
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海舟は「面白い考えだな、ぜひ実行しなさい」と賛成しました。
■3.中江藤樹が遺したまごころ
近江商人たちの地元を大切にする気風は、中江藤樹(なかえ・とうじゅ)が源流となっているようです。藤樹は江戸時代初期の学者で、伊予大洲藩(いよおおず、愛媛県)に仕えていましたが、学問を出世の道具と考える気風に反発して35歳にして脱藩し、生まれ故郷、琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町)に帰ってきて、母親に孝養を尽くしました。
藤樹は母親を思う人間生来の「まごころ」が広がれば、家族で助け合い、地域も支え合う、と考えて、馬方や漁師などに教え始めたのです。その教えは琵琶湖の静かな波のように、ひたひたと周辺に広がり、藤樹の家で溝に鯉を飼い、盆栽を置いても誰も盗まない、という話が近隣でも評判になりました。
それを聞いて、中江の塾で学問をしたいという人々が増えていき、馬方や漁師、農民から、商人、武士と身分を超えて、ともに人としての生きる道を学ぶようになっていきました。藤樹はわずか41歳で亡くなりましたが、死後、「近江聖人」と呼ばれるようになったのです。[JOG(324)]
藤樹の徳風が根付いた土地に生まれ育った商人たちが、成功した後に財産を地元の人々にために使おうとするのは、同じまごころでしょう。
■4.「商(あきな)いはホトケの代行だ」
近江商人たちが大切にしたのは、地元だけではありません。なかには、わざわざ遠い地域の道路修理に金を出した人物もいました。まわりから、「あんな遠い所の道路修理になぜ金を出すのだ?」と聞かれると、こう答えました。
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遠い近いは関係ない。近江国を通る道の中で、悪い道路があれば直せる人間が直すことによって、人びとの往来が活発になる。それがひいてはわれわれの商売にも利益をもたらすのだ。[童門,291]
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江戸時代初期の鈴木正三(しょうさん)は「商(あきな)いはホトケの代行だ」と言いました。正三は徳川の旗本でしたが、42歳にして武士の身分を捨て、禅僧として出家した人です。その頃から士農工商の身分制が定着し始めましたが、「何(いずれ)の事業もみな仏行なり」と教えていました。
士農工商の最下位に置かれた商人に対しても、「ホトケの代行」と言っていたのは、山奥に住む人々にも必要な商品をお届けするのは、その人々にとって、まさに仏様にも相当する救いの手だ、という意味でしょう。道路を直して、そういう人々のところにも商人が行きやすくするのも、仏様をお助けする善行です。[童門, 219]
そして「ホトケの代行」なら、当然、暴利をむさぼったり、悪い品物を騙して売りつけたりしてはいけません。
■5.天秤棒の行商で覚える「売り手よし」
江戸時代から近江には、畳表、蚊帳、売薬、麻布、木綿などを作る地場産業があり、初期の近江商人は、天秤棒を担いでこれらの商品を売り歩きました。
現在の東近江市出身で、綿や麻の織物の問屋として成功した丁子屋(ちょうじや)小林吟右衛門という近江商人がいました。初代吟右衛門は、寛政10(1798)年、22歳にして行商を始め、織物や小間物を近隣の村々へ売り歩きました。この吟右衛門が78歳で亡くなる寸前に、次のような発言をしたことが記録されています。
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天秤棒をかついでまわるような小商人は、世間の人々の好意や助力で毎日の生活が成り立っているのである。だから、相手の立場を考えて振舞うという実意がなければ、他人は力添えをしてくれることはない。
どんな場合でも他人に不義理をしないように、損失をかけないようにということを第一に心がけながら、自分は骨を折って働きとおすことを少しも厭わないならば、人々はその心持と働く姿をみて自然に心を動かされるであろう。そのような好印象を与えることができれば、商売はうまくいき、資産もいつとはなしに増えるものである。[末永,839]
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天秤棒の行商は、買い手よしを体で覚える機会でした。
■6.盛岡まで進出して喜ばれた「世間よし」
近江商人は行商の範囲を広げ、やがて関東や東北にまで足を伸ばしていきます。
琵琶湖西岸の高島で商売を始めた村井新七は、盛岡(岩手県)にまで進出しました。そこでは藩も商人たちも現金の持ち合わせが少ないので、藩政府は他国の商人が商品を売りつけて、正貨が流出することを嫌がっていました。そこで新七が考えたのが、持ち込んだ商品を売った代金で、土地の名産品を買い付け、それをまた近畿に持ち帰って売る、という交易です。
特に東北地方は、木綿、茶、みかん、ローソクなどの生活必需品が不足しており、それらを持ち込むことで地元民に喜ばれる。またその代金で地元の名産品を買って他国に売ってくれるのですから、藩政府も「近江商人の商法は、なかなかいい」と歓迎しました。
新七はさらに「南部の地に根を生やさなければだめだ」と考え、行商だけではなく、地元に店を構えました。そして仲間の近江商人たちも次々に呼び寄せました。近江商人たちは、よそ者が新しい地に根を下ろすには、地元の人間以上に徳義を大切にしなければならない、と良い意味での「他国者意識」を持って働いたのです。
矢尾喜兵衛は琵琶湖東岸から20キロほど東南の山間部に入った蒲生郡に、正徳元(1711)年に生まれました。長じて同郷の矢野新右衛門の下で奉公に入り、やがて武蔵国(埼玉県)秩父郡の出店の支配人となり、寛延2(1749)年、39歳で同地での独立を認められました。本家と資本を出し合って、大宮郷で酒造業も始めました。
その4代目は、奉公人に対して「遠国渡世の身分は地の商人と違ひ、身持また格別に正しく有るべきこと」と心得を教え諭しています。自分達のような他所からやってきた商売人は、地元の商人衆よりも格別に身持ちを正しくしなければならない、というのです。
進出して100年も経っているのに、「他国者意識」を持ち続けていました。そして飢饉の際には貧民に米銭を施し、また自腹を切って米の安売りを続けたのです。
その徳義が報われる時がやってきました。明治17(1884)年、松方デフレ不況で、養蚕・製糸を副業にしていた農民たちが借金に苦しみ、数千人が蜂起して、大宮郷の郡役所や警察を襲い、高利貸しの家を焼き討ちしたのです。
当時、矢尾家の出店は、大宮郷で最大の商家に成長していましたが、蜂起した農民たちは、矢尾家の日頃の徳義に感謝していて、兵糧の炊き出しを依頼するのみで、通常のように開店営業することを認めました。…
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