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本日は、中国社会主義革命に関する、或る論考を抜粋して紹介したい。

「・・・中国人の反日感情はつくられたものです。毛沢東ですら、反日感情を持っていませんでした。
・・・戦後、多くの日本人が毛沢東に会う度に“謝罪”をしますが、毛は、『皇軍に感謝している』という言葉を連発していた。

1964年7月に日本の社会党幹部が訪中したときも毛は、『国民党(?介石)軍によって敗走させられ、兵力を30万から2万5000まで減らしてしまった苦境下、日本軍が8年間も国民党と戦ってくれたお陰で、皇軍は120万人の軍隊となって起死回生できた。
どうして日本の皇軍に感謝せずにいられようか』とまで言いました。

毛は日本軍が中国に進攻したために国共合作もでき、日本軍と共謀し、絶えず国民党軍の弱体化を図ったことで中国全体を手に入れることができた、という肚の内を幾度か明らかにしました。
ゆえに生きている間、日本に歴史問題を提起したり、抗日戦争勝利を祝ったこともありませんでした。

1931年からの、いわゆる大長征も、共産党を追撃したのは国民党軍でしたが、『北上抗日』と銘打って、『一致団結して日本帝国主義を中国から追い出そう』という宣伝ビラを160万枚以上配布し、多くの中国人がこの宣伝に乗せられました。

しかし、これは偽の抗日で、中共中央は、内部的には『日本軍との正面衝突はさけよ』という命令を紅軍に出していました。
・・その指針に従い、八路軍はおおむね小規模な後方ゲリラ戦を戦い、第1線で国民党軍が日本軍と戦っている間に、背後で勢力の拡張にだけ没入したのです。
・・その中で、彭徳懐だけは1940年8月、日本軍と正面から激突し、日本軍の補給網に大きな損失を与え、『百団大戦』と呼ばれる勝利を収めました。毛は、『そのような目立った戦闘をしてはいけない』と激しく叱責しました。このときの感情的なしこりのためか、彭徳懐は1958年、毛の大躍進運動に反対し、1959年に粛清された後、獄死しました。

毛は甚だしくは日本と共謀さえしました。1939年、毛は潘漢年という中共のスパイを上海の日本諜報機関である岩井公館に侵入させ、外務省の岩井英一に近づけさせました。
岩井は潘漢年から国民党軍に関する軍事情報を得、その代価として15日に1度ずつ、当時としては警察官の5年分の給料に相当する2000香港元を支払いました。岩井は外務省の機密費をあまりにも浪費したという理由で、以後、広州領事館に左遷されます。

このように日本軍が戦争で戦った相手は、?介石政権でした。・・中国共産党は、国共合作を通して国民党から軍服と武器の支給を受けながら、国民党軍の軍事情報を日本の諜報機関に売っていたのでした。このような諜報戦では廖承志なども活躍します。

・・日本との共謀において大活躍をした潘漢年は、1949年に中華人民共和国が誕生すると逮捕されます。その後、彼は長期間にわたる投獄の末、1977年に獄死します。毛の策略をあまりにも知りすぎたため、売国奴にされ、口を封じられたわけです・・」

上記は誰の論考かというと、『反日種族主義との闘争』P335に書かれた韓国人研究家・朴尚厚(ぱくさんふ)氏のものである。

この論考に欠けているのは、レーニンが考案し、スターリンが採用した「敗戦革命」の戦略である。つまりスターリンは日本軍を?介石軍と戦わせ、?介石軍がボロボロになった後に内戦を挑んで社会主義革命を起こすという作戦を立て、それを毛沢東に指導した。
毛沢東はその戦略を見事に実行し、政権を取れたので日本軍に何度も感謝したのである。

私が、靖国神社の英霊に最も感謝し、参拝すべきなのは中国共産党であると言うのは、このことを指す。
いずれにしろ韓国人の論考は、敗戦革命への言及が抜けているだけで、それ以外は適切である。
問題は、日本人の歴史研究家で、どれだけの人物が、この韓国人研究家の水準まで到達しているのか?
先の戦いは軍部が暴走した、あるいは自衛の戦いだったと認識するだけでは、全くダメなのである。

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