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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)8月20日(木曜日)
       通巻第6625号  <前日発行>
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 「ハバロフスクの乱」を抱えるプーチンはベラルーシに介入できない
   根っこは同じ、反モスクワ感情が民主化デモを過激化させている
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 ロシアにも野党がある。
 与党「統一ロシア」を率いるプーチンは憲法改正の国民投票を行い、実質的に2036年まで権力のトップに居座るつもりだが、反対票がもっとも多かったのが、シベリアなど極東地区、とくにハバロフスク、そしてウラジオストック地区だった。

 与党に対抗する野党は「自民党」と「ロシア共産党」。前者は「極右」と言われるジリノフスキーが党首。後者は年金、恩給裨益組が多く、ソ連共産党の正式な後継政党をなのるが、哲学博士のジュガーノフが委員長。いまや党員16万人しかおらず、政治的影響力は殆どない。
極東部では、三人の知事が自民党所属である。

 ハバロフスク知事だったセルゲイ・フルガル知事が、7月9日に十五年前の殺人事件に関与した容疑で唐突に逮捕された。そして予定されていたかのように、7月20日にプーチンによって更迭された。知事代行はモスクワから派遣されたミハイル・デグチャイル下院議員である。

 爾来、およそ七週間にわたってデモが続いている。ときにハバロフスク市内は三万人のデモ隊が広場を埋め尽くし、警官隊と衝突した。数人の逮捕者もでている。

 地図を拡げると、ハバロフスクはモスクワより遠く、むしろ中国とはアムール川を挟んだ対岸、日本からは直行便がある。同じロシア語を喋るが、この極東地区は中国、韓国、日本との交易のほうが盛んであり、以前から反モスクワ的な行動をとった。イルクーツク、チタなどは西シベリアで、あまり反モスクワ感情はない。

 さて極東シベリア地区の反プーチンの動きが、ベラルーシと絡むのである。
 モスクワにとって連邦を形成するスラブの三兄弟は、ウクライナ、ベラルーシ、ところが西ウクライナは西側に傾斜しており、ますますベラルーシが重要なのだが、近年はルカシェンコ大統領がモスクワに楯突くことが多く、ロシア・ベラルーシ関係はすきま風が吹いていた。

 東ウクライナへ、事実上のロシア軍派遣と軍事衝突、クリミア半島併呑で、西側から制裁を受けているロシアは、下手にベラルーシに介入すると西側の関係はさらにギクシャクする。
だから口では軍事支援を言いつのりながらも、時間稼ぎに徹し、プーチンは国内の背中にあるハバロフスクの反乱も、時間を掛けて抑え込むという流儀になる。

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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 エジプト大統領の側近が、じつはイスラエルのスパイだった
  最高の機密を掴んで、戦争の準備状況をエルサレムに知らせていた

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ウリ・バル=ヨセフ著、持田鋼一郎訳『モサド最強のスパイ』(ミルトス)
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 事実は小説より奇なり。
エジプト大統領の最側近が、イスラエルのスパイだった。
 嘗てはシリアの参謀総長の親友が、やはりイスラエルのスパイだった。
 世界にはよくある話、FDR政権はおびただしいソ連のスパイがいた。ノモンハン師団長の小松原はソ連のスパイだった。
 日本でも以前は有能な愛国的スパイがいたが、いまは制度的に日本人スパイは存在しない。ところが外国のスパイになっている日本人がかなりいる。平和惚け日本では、これを取り締まる法律がない。だから日本はスパイ天国と言われるのだが、じつはさほどの機密がないから、スパイにとってもつまらないのではないか。
 在日の外国人スパイにしても、殆どの情報はおおやけにされており、政治家は気軽に会えるし、機密、最高機密の区分けもないのでペラペラ喋る。なにしろ日本の政治家には国家安全保障という概念が欠如している。
 冗談は措くとして、さてエジプトの英雄だったナセル大統領の女婿が、じつはイスラエルのスパイだったという世紀の大事件を本書は克明に追及し、年月を掛けて仕上げた現代史の舞台裏を詳述する記念碑的作品である。
 ナセルはアラブの英雄として、いまも高い評価があり、シシ現職大統領もナセルを尊敬している。スエズ戦争など失敗の多い政治家だが、ナショナリズムを鼓吹した。
この物語はナセル死後から本格化する。
 暗号名「エンジェル」。
 1966年、アシュラフ・マルワンはナセルの愛娘で次女のモナと結婚した。大統領側近として世界の社交界に人脈を拡げ、また利権も多く、マルワンは大実業家になった。
 1970年にロンドンでイスラエルのモサドと接触した。ときのエジプト政権はサダト。もちろん、マルワンはサダトに深く食い入り、軍事情報を、それも最高機密情報を掴んだ。エジプトがイスラエルと戦争を準備していた。イスラエルは単なる軍事演習とみていた。
 マルワンはイスラエルのスパイだったが、同時に二重スパイでもあり、その複雑怪奇な、緊張感が連続するサスペンスは本書のお楽しみ。
 しかし「用済みとなってスパイは消される」。
 マルワンは2007年、ロンドンで死んだ。謎の死だった。
 本書の解説を佐藤優氏が書いている。
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 2119回】  
 ――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港1)

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 橘は大正期で切り上げ、次は北一輝の『支那革命外史』に転ずる。これが当初の腹積もりだった。だが武漢国民政府崩壊まで進んで来ると、このまま読み続けるのもアリかと考えるようになった。
それと言うのも、これ以後の中国は国共両党の再編を経て国共激突に移り、やがて満州事変(1931年)、上海事変(1932年)、満洲国建国(1932年)、盧溝橋事件(=支那事変/1937年)と続く激動の中で、再び国共両党が合作し抗日戦争体制へと移る。中国には?介石・国民党(重慶)、毛沢東・共産党(延安)、汪精衛・国民党(南京)に加え、以上の三者のいずれにも与しない政治勢力が生まれては消え、激動は1945年8月15日で終止符を打たれることなく、1949年10月1日まで続くことになる。もっとも、その日を境に中国人に平穏な日々がもたらされたというわけではないが。

 こう見てくると、当初の目論見に従って橘を中途で終わって北一輝に移るより、このまま『元祖チャイナ・ウォッチャー』たる橘の仕事を追い続けるのも一興かと考えるようになった。それというのも橘が見せた紆余曲折・千変万化する中国情勢との格闘を通じて、日本における中国認識の変化を捉えることが出来ると考えたからだ。

 そうと決まったらグズグズしてはいられない。とは言うものの、急いては事を仕損じるとの教えもある。やはり些かの「仕込み」が必要だろう。
なにせ中国・台湾側の研究も進む一方、日本でも最近では『対日協力者の政治構想? 日中戦争とその前後』(関智英 名古屋大学出版会 2019年)など一読驚嘆の研究も現れて来たことだから。

 ここで突然だが、20世紀初頭の孫文と宮崎滔天を始めとする日本側支援者の関係を思い出した。孫文は日本側支援者の動きが短兵急に過ぎ、慎重さを欠いていると批判する。これに対し滔天らは一気呵成こそが最善策と考える。
最善策のみならず次善策、その次善策の次善策。二枚腰から三枚腰、いやn枚腰で清朝打倒と言う最終目的達成に向けて画策する孫文の目には、「焦りはすべてを水泡に帰させてしまう」と映ったに違いない。

 宮崎滔天自らが説くように「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、〔中略〕急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」(「暹羅に於ける支那人」『宮崎滔天全集(第五巻)』(平凡社 昭和52年)ということだ。

 そこで「一気呵成の業」に突き進むのではなく、ここで少しく方向転換し別の角度から「急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ」と「支那人の氣根」を考えて見ることにしたい。じつは「支那人の氣根」のナゾを解くことが、我が長年のテーマでもある。

 ――初めて香港を体験したのは、今から半世紀前の1970(昭和45)年の秋だった。以来、殖民地時代のHong Kong生活を、5年ほどの時間をかけて「急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ」と満喫させてもらった。すべては「香港で学んだ」と言っておこうか。

 当時の香港はイギリス人総督に率いられた政庁の下で、政治的自由に一定の制限はあったものの言論の自由は保障されていたし、なによりも経済はレッセフェールと呼ばれた自由放任体制によって繁栄し、それなりに落着いた日々を送っていた。
多くの人々は中国を嫌って香港に移り住んでいたが、だからといって街中に現在のように激烈な反中・嫌中の雰囲気は感じられなかった。

 香港も昨年来の混乱が物語るように、今や米中激突の戦場と化した。往時を振り返れば、やはり寂しくもあり悲しくもある。一般香港住民にとっては「愁嘆場」と言えるような現在の香港を包むとげとげしく、ささくれ立ち、ざわつき、いたたまれないような雰囲気からすれば、往時の長閑さの片鱗なり求めるのは、ないものねだりというものだろう。

 そこで橘小休止を機に、往時の香港での体験を振り返りながら、現在の香港を考えてみたい。どれほど続くかは未定…

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