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          メルマガ版「台湾は日本の生命線!」

中国の軍拡目標はアジア太平洋での覇権確立。そしてその第一段階が台湾併呑。
もしこの島が「中国の不沈空母」と化せば日本は。中国膨張主義に目を向けよう。
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わかりやすい台湾の歴史―中共の「古来中国に属する」宣伝はやはりウソ

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2019/10/30/Wed

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本稿は「やまと新聞」(https://www.yamatopress.tokyo/』)で4月26日に掲載された拙文「歴史検証―台湾を中国領土とする『一つの中国』宣伝を打ち砕く」に若干加筆したものである。

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■世界を騙す「台湾は中国領土」という作り話

国際法に照らせば台湾が中国の一部でないことは明らかだが、日本人を含む世界の人々はそれがわからずにいる。台湾侵略を正当化するため、「台湾は中国の領土だ」と強調する中国の「一つの中国」宣伝に、それほど世界が惑わされているということだ。

それでは如何なる宣伝が行われているのか。中国の対台湾工作を管轄する国務院台湾事務弁公室(国台弁)が発した「なぜ“台湾は中国不可分の一部分”というのか」と題する文書にはこのようにある。

「1943年12月、中米英三国政府が発表したカイロ宣言は、『日本は中国から盗み取った土地(東北、台湾、澎湖など)を中国に返還すべし』と規定し、1945年に中米英が調印し、その後ソ連も加わったポツダム宣言は「カイロ宣言の条件は必ず実施されるべし」と規定し、同年8月、日本が降伏し、降伏文書において『ポツダム宣言の諸規定を誠実に履行する』と誓約した。10月25日、中国政府(※当時は中華民国政府)は台湾、澎湖列島を取り戻し、台湾に対する主権行使を回復させた。(中略)1949年10月 1日、中華人民共和国中央人民政府が成立し、中華民国政府に代わり全中国唯一の合法的代表となった」

要するに、もともと中国領土(清国領土)だった台湾は1885年、日本に割譲されたが、大東亜戦争の敗戦により、日本はカイロ宣言の規定に従い、それを中国(中華民国)に返還し、やがて中華民国の継承国である中華人民共和国が台湾の主権を継承し、今日に至っているといっているのであるが、そこにはとんでもない作り話が含まれる。

「(1945年)10月25日、中国政府は台湾、澎湖列島を取り戻し、台湾に対する主権行使を回復させた」というくだりがそれである。

確かにその日、日本領土の台湾を接収した中華民国政府は「台湾、澎湖を取り戻した」と宣言したが、それは何の法的手続きも踏まない一方的な越権行為で、米英など他の連合国はそれを承認しなかった。そもそも戦争に結果に伴う領土の処理とは講和条約を通じて行うべきものであるからだ。そして米英など連合国は1951年、日本との間でサンフランシスコ講和条約を締結し、日本に台湾、澎湖を中華民国、あるいは中華人民共和国に割譲させるのではなく、新たな帰属先未定のまま放棄させたのだった(すでに台湾は中華民国亡命政府の支配下にあったが)。

これが歴史の真相だ。そしてこれを中国政府ももちろん知っている。だからこそ上記の国台弁の文書はこうも強調するである。「台湾は古来中国に属する」と。

「中国は歴史上、最も早く台湾に関して明確に記録を行い、それは1700年前に遡る。中国人が最も早く台湾を開発し、最も早く台湾への有効管理を実施し、台湾社会は終始中華文化の伝統を保持している。元朝の時、中国政府は正式に行政機構を設置して台湾を統治した」と。

領土の範囲を確定するのは国際法であって、歴史ではない。しかし中国政府は「一つの中国」の根拠を国際法ででっち上げるだけでは不安なため、更には歴史的な根拠を振りかざし、世界を騙そうという訳なのだ。

しかし、元来無意味であるはずのこうした歴史の宣伝だが、これが大きな効果を発揮しているのだから侮れない。

そこでここでは中国の主張する「歴史」もまた作り話であることを暴き、「一つの中国」宣伝を完膚なきまでに打ち砕こうと思う。

■中国人民大会堂に掲げられる捏造の歴史

中国の人民大会堂に台湾庁なる会議室があり、そこに飾られる豪勢な石の屏風には「台湾は古来中国の神聖なる領土だ」と題する一文が刻まれている。中国の台湾領有の歴史を綴ったものだ。最近、朝日新聞の記者がそれを撮影しネットで配信していたが、それを見ると、そこには中国公定の、しかも捏造だらけの歴史が書かれていた。

その内容を日本語に訳して四段落に分け、以下でそれぞれを検証したい。

先ず、書き出しはこうだ。

―――台湾は我が国東南沿海の最大の島で、早くから台湾と祖国大陸には文化、経済上、密接な関係があり、早くも223年、三国時代の呉が将軍の衛温と諸葛直に一万人以上の兵士を率いらせて“夷州”に派遣している。“夷州”とは今の中国の台湾省だ。

国台弁の文書が言う「中国は歴史上、最も早く台湾に関して明確に記録を行い、それは1700年前にも遡る」とは、まさにこのあたりの歴史を指している。

『三国志』によれば、確かに呉による「夷州」遠征があり、その夷州を今の台湾だと推定する学者も多いが、しかしたとえそうだとしても、呉が台湾に対し行ったのは遠征だけであり統治ではなかった。従ってこれが「一つの中国」の根拠たり得ないのは明白である。

だから「早くから台湾と祖国大陸には文化、経済上、密接な関係があり」とは書いても、さすがに「政治上、密接な関係があった」とまでは書けなかったようだ。

■元が台湾を領土にしたという根拠なき嘘

次いで12世紀から13世紀にかけての話だ。

―――澎湖は12世紀の南宋の時に福建省晋江県に帰属して中国行政区の一部となり、13世紀中葉には当時の元朝政府が澎湖に巡検司を設けて台湾などの島嶼を管轄し、泉州路の同安県に隷属させた。この時より台湾は正式に中国版図に編入された。明代からはすでに台湾と澎湖は我が国の海防の要地となっている。

台湾海峡に浮かぶ澎湖列島が「南宋の時に福建省晋江県に帰属」し、そして「元朝政府が澎湖に巡検司を設け」たのは記録に残る事実だが、しかし巡検司が「台湾などの島嶼を管轄」し、「この時より台湾は正式に中国版図に編入された」というのは、何の根拠もない作り話である。国台弁の文書に「元朝の時、中国政府は正式に行政機構を設置して台湾を統治した」とあるが、それもこの作り話の反映だろう。

もし中国がそれを事実と言い張るのなら、その証拠となる記録、あるいは遺跡等々の証拠を示すべきであるが、いまだそれは行われていない。

逆に元は台湾を統治していなかったという記録はある。

例えば元が澎湖に巡検査司を設けたのは1281年だが、明朝が編纂した正史『元史』では、台湾は「瑠求」の名で「外夷伝」(外国の記録)に記載されている。そしてそこには、1291年に元軍が「瑠求は未だ曽て帰附せず」と書かれた詔を携え、朝貢を求めに行ったとの記述もある。このように元にとって台湾は、版図外の「外夷」の地であり続けたのだ。

また「明代からはすでに台湾と澎湖は我が国の海防の要地となっている」も誤りだ。たしかに明朝は澎湖に巡検司を置き、倭寇に対処したが、その倭寇は澎湖から明朝の手が及ばない台湾へ逃れている。つまり台湾は明にとっても版図外であり、その海防の拠点になどなっていなかったのである。

■侵略?明朝はオランダの台湾占領を容認した

そして大航海時代を迎えた16世紀以降。

―――16世紀になり西洋の植民主義者が東洋の海上で角逐を始め、日本もまたそこに介入してきた。1557年にはポルトガルが我が国のマカオを盗み取って根拠地とし、その後台湾をマカオの付属地にすると宣言し、台湾の占領を企てた。17世紀には海上覇権はオランダと英国の植民者の手に移り、ポルトガルの台湾侵略の野心は達成されなかった。1624年と1626年に欧州の植民国家、オランダとスペインがそれぞれ我が台湾省の台南と基隆を占領し、それらを中心に侵略活動を拡大した。

台湾史には関係がないが、1557年にポルトガルが「マカオを盗み取った」と書いている。これは不正確だ。なぜなら当時ポルトガルは、マカオを租借していただけだからだ。それはともかく、ポルトガルが「台湾の占領を企てた」だとか、「ポルトガルの台湾侵略の野心は達成されなかった」などと書くが、いったいどんな根拠があっての言説だろうか。最初に台湾を発見した西洋人はポルトガル人とされるが、あの国が東亜で求めたのは日本や明との交易、そして布教であり、台湾への領土欲は持っていなかったというのが通説である。

いずれにせよポルトガルの動向は、台湾の歴史には大した影響を及ぼしてはいない。どうせならそんな無駄な詳述するくらいなら元や明の台湾統治の歴史を詳述すればよさそうのものを、それを敢えてしないのは、そうした事実などなかったからに他ならない。

オランダとスペインが「我が台湾」を「侵略」したというが、「侵略」というのは事実ではない。当時明朝はこれらの国の台湾「侵略」に対し、抗戦はおろか抗議すらしていない。いやむしろ明は1624年、澎湖を占領したオランダ軍に対し、軍を派遣して撤退を要求する一方、澎湖から台湾の移転することには干渉をしなかった(むしろそれを勧めた)。それは台湾が明の版図ではなかったからである。それではじめてオランダは、台湾統治に乗り出したのだった。

オランダ台湾
明はオランダの台湾統治に抗議もしていない。なぜならそこは中華の地ではなかったからだ

■鄭成功一族が建てたのは中国に属さぬ独立国

最後は17世紀半ばから後半にかけての記述だ。

―――中国領土の台湾を初めて奪い取った二つの侵略者は、台湾北部で激烈な争奪戦を展開し、1643年にスペイン人が敗戦して台湾を撤退し、明朝末期の民族の英雄、鄭成功が1661年に大軍を率いて台湾に進入し、現地の人民の協力の下、素早くオランダの侵略者を追い出し、台湾を取り戻した。

「侵略者」というなら無法にも、オランダ統治下の台湾を一方的に攻撃した鄭成功こそ侵略者だ。ここで書かれているのは中国人が讃えてやまない「明鄭復台」(明の鄭成功による台湾奪還)の物語だが、そもそも台湾は明の版図であったことはないので、やはり「復台」ではなく「侵台」(台湾侵略)と呼ぶべきである。

「明末期の英雄、鄭成功」というのもおかしな表現である。なぜなら鄭成功は「反清復明」の英雄、つまり明が滅亡した後、明王室の再興のために戦った「英雄」だからだ。たしかに南明と名乗る亡命政権を奉じてはいたが、やがて清との戦いで敗退し、転じて台湾を占領した1662年には、すでに南明も滅亡していた。したがって鄭成功の台湾占領と明とは、一切の関係すらなかった。

ほどなく鄭成功は死去し、子の鄭経が1664年、台湾で東寧(戦乱の中国とは異なる東の安寧の地の意)を建国。従属を求める清に対し「東寧は遠く海外に在り、(中国の)版図の中に居るに非ず」として拒絶している(「覆満清官員孔元彰函」)。つまり鄭氏政権が台湾で経営したのは中国に帰属しない独立国家だったのである。英国はこれを東寧王国(あるいはフォルモサ王国)と呼び、通商条約を結んだ。

■「台湾は古来中国ではない」と証言する清の皇帝

以上で「台湾は古来中国の神聖なる領土だ」なる一文は終わる。清は1883年の康熙帝の時、この東寧の国を滅ぼし台湾を//