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★小誌愛読者26700名!
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)9月11日(水曜日)
通算第6190号
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(速報)
ジョン・ボルトン補佐官、トランプ政権を去る
ホワイトハウスで唯一人の日本理解者が居なくなる
***************************************
トランプ大統領は、10日、突然ジョン・ボルトン補佐官を解雇した。「多くのイッシューで意見の対立があったが、ボルトンからの申し出を熟慮し、政権から去って貰うことにした。かれの貢献度は大きかった」とトランプはツィッターした。
とくにイランを巡る対立が政権内で表面化、ポンペオ国務長官と対立することが多く、板門店における金正恩との会談ではボルトンは同席しなかった。
日本にとっては拉致問題で、日本の立場を大きく理解していた人物だけに、ホワイトハウスでは珍しい知日派が居なくなることに、トランプ政権内部のごたごた、整合性のなさが気になるところである。
まさにワシントン政界で、保守の居場所がなくなった。
批評家のジョージ・ウィルは「CONSERVATIVE HOMELESSNESS」と比喩したように。
◇◎□◇み◎◇◎▽や◇◎▽◇ざ◇◎▽◇き○□◎▽
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1952回】
――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(7)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
△
凍結した糞尿を車内販売用のお茶を沸かす装置で解凍し、外部に垂れ流そうというのだ。「目に染みる」ほどの悪臭に苦闘しただろう徳田は、「(悪臭が)お茶と一緒になつているという所に中國人のニオイや食物にたいする無關心さがあるのだろう。習慣というものはおそろしい」と苦虫を潰す。
悪臭は、極東民族大会に参加すべくモスクワに向かう未来の日本共産党トップを襲う。だが、後には長期に亘って臭い『もっそうメシ』にお世話になることを考えると、徳田の人生は臭いモノと切っても切れなかったということか。
列車が中国と満洲とを限る山海関駅に到着するや、プラットホームで「一連隊ほどの軍隊がずらりとならんでいた」。「まつたくだらしないささげ銃」の兵士に迎えられて列車から降り立ったのは「中肥りの顔のだらりとした男」。満洲の実力者で知られた「黒龍江省督軍張某」だった。
徳田は食堂車での「いやまつたく驚くべき」風景を綴る。
食堂車の半分を占めた一団の中央に「例の將軍がゆうゆうと坐つていて長いキセルで煙草をふかしている。その周りには二十歳から四十歳位の女が五、六人も並んでいる。第一夫人から第五、六夫人までだということだつた。その反對側に彼の幕僚であろう十四、五人が二列三列にだらしない恰好でテーブルを圍んでいる」。「ガチャガチャとマージャンをやつているのだ」。そのうえ「これらの夫人や幕僚のそばには札の束がおいてある」。つまり、そこは「全くのバクチ場だ」った。しかも「外國人の客が食事をしているその隣で公々然とやつているのだ」から、やはり「ここに妙味があるのではないか」。
「その當時の中國の軍閥の首領の生活がこれである」。であればこそ「戰爭のできないのも當然であつた」。しかも「妾連中のドロンとした恰好はすべて阿片飲みの特徴」を表している。かくて徳田は、「結局軍隊はりゃく奪のための、そしてまた戰爭ごつこの示威運動の道具以外には役立たないことが明かではないか」と。
列車を離れた徳田は、子供の時から気になっていた山海関に足を向けた。「どんなに素晴らしい大きな關所だろうか、どんな大きな城と連なつているのだろうかと想像していた」が、実際に目にして「貧弱なので呆れてしまった」。「かくべつ城らしいものはなくて、(中略)山海關の大きな石垣の壁がぶち抜かれてトンネルになつているだけだつた」と落胆の色を隠さない。
じつは徳田だけではないのだが、多くの日本人は中国の「城」を、天守閣を構えて豪壮・華麗な日本の城と勘違いしている。彼らの指す「城」は城壁であって、日本式の城郭ではない。北京城、南京城・・・鳳凰城などなど。中国では都市を「城市」の2文字で表すが、それは「城壁」に囲まれた内部で人が「市(あきない)」をするからである。
ところで改めて徳田は豪壮で長大な万里の長城を作り上げた始皇帝時代の力と共に、「これほど古代の實力のあつた大帝國のすべてが今は世界を通じての最も發達していない國におちていること」、さらには「中國はたいへんなどろ沼の中にいつまでも停滯していたという事實」にも驚嘆する。
長城建設には「ばく大な人間勞働力を無茶苦茶に使つた」。「つまり奴隷制度によつて人間勞働力を驅仕した」。
「その奴隷的な状態がいつまでも農村に停滯して、それを基礎に軍事的彈壓が重ねられていつたためすべての成長が停滯した」。それゆえ「被支配階級に蓄積された力が、つねに革命によつて高進し、しだいしだいに下から上までのしあがつて行く――換言すれば革命が階級の解放をもたらし、つぎつぎに發展して行く」。「私がこの長城をみて人類解放のための革命の必要を一層深く痛感した」。流石にトッキュウだ。《QED》
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知道中国 1953回】
――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(8)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
△
徳田は満鉄で長春に向かう。「汽車の内部は中國の列車よりもずつと小ぎれいにできていた。だが何となはしに日本流の小じんまりしたところがあり、いかにも日本官僚の支配らしいニオイがした」。
長春で投宿した旅館は「全然日本風でこの寒い北滿にどうしてこういう馬鹿げたことをするのか何としても理解することができなかつた」。旅館の構造に象徴されているように、「日本人は氣候や風土に適應して生活をたてることを欲しないように思える」。気候・風土の違いを無視するかのように、何処に行っても「日本風の生活をやるのである。これでは生活に適應性がなく根強く腰をすえることができないのが當然であろう」。かくして「だかう(ら?)早く日本え歸りたくなるのだ」。
ここからは、徳田による在満日本人論である。
「滿州などに行つている者は結局早くもうかる山師になりたがる」。だから「中國人をだますか日本から入つて來る者をだましてかすめ取るかそんなことばかりに血をわかすことにな」り、「全體としてきわめて質の惡い商賣に引きずられて行」き、「中國本土はもちろんのこと滿州でも非常に日本人はきらわれている」。
そこで「同じ植民地であつても、外國帝國主義の植民地よりは日本の植民地の方がはるかに惡政をしき猛烈な排斥が起こるのは無理のないこと」とか。どうやら同じ「帝国主義の植民地」でも優劣があるらしい。
徳田は「滿州でたびたび排日ボイコットが起」る要因の1つに「中國國民政府の勢力が滿州にはびこつて來た」ことが挙げるが、「他の大きな原因」として日本が主とする軽工業と満洲土着資本との激しい対立を指摘する。つまり「全體として鋭く滿州の中國民族と對立することになったから」、「全面的に排日鬪爭が起つたのも無理はない」というのだ。
かくして「日本人が氣候や風土に適應しないでおこなつた惡らつなりやく奪政策は中国國人の反抗をたかめる基本要因の一つであつたろうことを痛感するのであ」った。
長春からハルピンへの旅で乗ったロシア側の列車に「入つてみるととても汚い」。
それというのも「(ロシア)革命後はほとんど修繕もせず放たらかしのままなのだろら(う?)」。
地図を片手に、好奇心に任せてハルピンの街を歩く。
あちこち歩きまわっているうちに街外れの棺桶屋街に出る。「家という家はいろいろな棺おけの製造屋」で、「嚴丈にこしらえた寝棺がもち菓子のようななだらかな曲線をえがいた六尺もあろうかというフタがかぶさつている。そして表面は?色や赤や青やいろいろ色とりどりにぬつてある」。
「材料も丈夫なもので、板もなかなか厚いものを使つている。そしてフタをかぶせたところも密封されるようにできている。ロウを塗つたりして臭氣の發しないような装置もしてある」。
これら棺は「中國人がこの土地に埋めるのではなくて山東や華北の故郷に死體を送るためのもの」である。
「故郷に死體を送る」ビジネスを運棺(または運柩)業といい、中国人の「入土為安(死後は故郷の土に還りたい)」という願望に応じたものだ。「山東や華北の故郷に死體を送る」ということは、ハルピンとその近郊に住む中国人の多くが山東や華北からの出稼ぎということを物語っているのである。
ハルピンはロシア革命後の混乱の渦中にあった。とはいえ「ツァール・ロシアは亡びても明らかにロシア人の勢力下にあった」。
「中國人はまつたく奴隷的な状態におかれていた」。「正規のツァール軍隊は壊滅し」、「ツァール軍隊の將軍連は自分の娘や妻を人肉の市の商品に提供し、彼らが牛太郎をつとめているという話であ」り、「私もその片りんを二、三見た」。ハルピンでは「ツァール・ロシアの殘物共」が最後の足掻きを見せていた。《QED》
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1) 「指の丸印が110番」
今進行中の香港の民主化運動ではメンバーは110番の意味で親指と一差し指で○を作るという。
こうしたシグナル技術は支那で発達していた。それが復活し始めたのではないか。
丁度手元の歴史読本誌の88年3月号を見ていたら、天地会、三合会など、支那の秘密結社の会員のシグナルが出ていた。例えば胸に指三本をあてるなどして所属組織を示すものだ。
また青幇では、会員が旅先で金に困るとテーブルに帽子を上向きに置き合図した。するとこれを見たメンバーはその人物の所属、地位、等を確認して支援したという。これは、乱世の続く支那における互助会であったのだろう。
1949年に支那共産党は政権をとるとこうした秘密組織をすべて摘発し滅ぼした。しかし秘密結社の活動は今でも海外などで続いているという。法輪講もその一つであろう。
共産党の暴政に苦しむ国民は自衛のためには互助組織を作るしか方法がないのだ。実際共産党も秘密結社の一つだった。なおこの本は宮崎正弘先生も「亡命革命組織」中国之春を寄稿されている。
また驚いたのは,あの有田ヨシフ氏がジャーナリストとして、支那事変の日本の講和努力である桐工作の内幕について興味深い記事を書いていたことである。偽の宋子良の正体である。
蒋介石は内心では自分が損する対日戦を止めたかったが,1936.12.12の西安事件でスターリンの指示を受けた共産側に捕らえられ降服していたので止めることが出来なかった。//
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とくにイランを巡る対立が政権内で表面化、ポンペオ国務長官と対立することが多く、板門店における金正恩との会談ではボルトンは同席しなかった。
日本にとっては拉致問題で、日本の立場を大きく理解していた人物だけに、ホワイトハウスでは珍しい知日派が居なくなることに、トランプ政権内部のごたごた、整合性のなさが気になるところである。
まさにワシントン政界で、保守の居場所がなくなった。
批評家のジョージ・ウィルは「CONSERVATIVE HOMELESSNESS」と比喩したように。
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――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(7)
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△
凍結した糞尿を車内販売用のお茶を沸かす装置で解凍し、外部に垂れ流そうというのだ。「目に染みる」ほどの悪臭に苦闘しただろう徳田は、「(悪臭が)お茶と一緒になつているという所に中國人のニオイや食物にたいする無關心さがあるのだろう。習慣というものはおそろしい」と苦虫を潰す。
悪臭は、極東民族大会に参加すべくモスクワに向かう未来の日本共産党トップを襲う。だが、後には長期に亘って臭い『もっそうメシ』にお世話になることを考えると、徳田の人生は臭いモノと切っても切れなかったということか。
列車が中国と満洲とを限る山海関駅に到着するや、プラットホームで「一連隊ほどの軍隊がずらりとならんでいた」。「まつたくだらしないささげ銃」の兵士に迎えられて列車から降り立ったのは「中肥りの顔のだらりとした男」。満洲の実力者で知られた「黒龍江省督軍張某」だった。
徳田は食堂車での「いやまつたく驚くべき」風景を綴る。
食堂車の半分を占めた一団の中央に「例の將軍がゆうゆうと坐つていて長いキセルで煙草をふかしている。その周りには二十歳から四十歳位の女が五、六人も並んでいる。第一夫人から第五、六夫人までだということだつた。その反對側に彼の幕僚であろう十四、五人が二列三列にだらしない恰好でテーブルを圍んでいる」。「ガチャガチャとマージャンをやつているのだ」。そのうえ「これらの夫人や幕僚のそばには札の束がおいてある」。つまり、そこは「全くのバクチ場だ」った。しかも「外國人の客が食事をしているその隣で公々然とやつているのだ」から、やはり「ここに妙味があるのではないか」。
「その當時の中國の軍閥の首領の生活がこれである」。であればこそ「戰爭のできないのも當然であつた」。しかも「妾連中のドロンとした恰好はすべて阿片飲みの特徴」を表している。かくて徳田は、「結局軍隊はりゃく奪のための、そしてまた戰爭ごつこの示威運動の道具以外には役立たないことが明かではないか」と。
列車を離れた徳田は、子供の時から気になっていた山海関に足を向けた。「どんなに素晴らしい大きな關所だろうか、どんな大きな城と連なつているのだろうかと想像していた」が、実際に目にして「貧弱なので呆れてしまった」。「かくべつ城らしいものはなくて、(中略)山海關の大きな石垣の壁がぶち抜かれてトンネルになつているだけだつた」と落胆の色を隠さない。
じつは徳田だけではないのだが、多くの日本人は中国の「城」を、天守閣を構えて豪壮・華麗な日本の城と勘違いしている。彼らの指す「城」は城壁であって、日本式の城郭ではない。北京城、南京城・・・鳳凰城などなど。中国では都市を「城市」の2文字で表すが、それは「城壁」に囲まれた内部で人が「市(あきない)」をするからである。
ところで改めて徳田は豪壮で長大な万里の長城を作り上げた始皇帝時代の力と共に、「これほど古代の實力のあつた大帝國のすべてが今は世界を通じての最も發達していない國におちていること」、さらには「中國はたいへんなどろ沼の中にいつまでも停滯していたという事實」にも驚嘆する。
長城建設には「ばく大な人間勞働力を無茶苦茶に使つた」。「つまり奴隷制度によつて人間勞働力を驅仕した」。
「その奴隷的な状態がいつまでも農村に停滯して、それを基礎に軍事的彈壓が重ねられていつたためすべての成長が停滯した」。それゆえ「被支配階級に蓄積された力が、つねに革命によつて高進し、しだいしだいに下から上までのしあがつて行く――換言すれば革命が階級の解放をもたらし、つぎつぎに發展して行く」。「私がこの長城をみて人類解放のための革命の必要を一層深く痛感した」。流石にトッキュウだ。《QED》
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――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(8)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
△
徳田は満鉄で長春に向かう。「汽車の内部は中國の列車よりもずつと小ぎれいにできていた。だが何となはしに日本流の小じんまりしたところがあり、いかにも日本官僚の支配らしいニオイがした」。
長春で投宿した旅館は「全然日本風でこの寒い北滿にどうしてこういう馬鹿げたことをするのか何としても理解することができなかつた」。旅館の構造に象徴されているように、「日本人は氣候や風土に適應して生活をたてることを欲しないように思える」。気候・風土の違いを無視するかのように、何処に行っても「日本風の生活をやるのである。これでは生活に適應性がなく根強く腰をすえることができないのが當然であろう」。かくして「だかう(ら?)早く日本え歸りたくなるのだ」。
ここからは、徳田による在満日本人論である。
「滿州などに行つている者は結局早くもうかる山師になりたがる」。だから「中國人をだますか日本から入つて來る者をだましてかすめ取るかそんなことばかりに血をわかすことにな」り、「全體としてきわめて質の惡い商賣に引きずられて行」き、「中國本土はもちろんのこと滿州でも非常に日本人はきらわれている」。
そこで「同じ植民地であつても、外國帝國主義の植民地よりは日本の植民地の方がはるかに惡政をしき猛烈な排斥が起こるのは無理のないこと」とか。どうやら同じ「帝国主義の植民地」でも優劣があるらしい。
徳田は「滿州でたびたび排日ボイコットが起」る要因の1つに「中國國民政府の勢力が滿州にはびこつて來た」ことが挙げるが、「他の大きな原因」として日本が主とする軽工業と満洲土着資本との激しい対立を指摘する。つまり「全體として鋭く滿州の中國民族と對立することになったから」、「全面的に排日鬪爭が起つたのも無理はない」というのだ。
かくして「日本人が氣候や風土に適應しないでおこなつた惡らつなりやく奪政策は中国國人の反抗をたかめる基本要因の一つであつたろうことを痛感するのであ」った。
長春からハルピンへの旅で乗ったロシア側の列車に「入つてみるととても汚い」。
それというのも「(ロシア)革命後はほとんど修繕もせず放たらかしのままなのだろら(う?)」。
地図を片手に、好奇心に任せてハルピンの街を歩く。
あちこち歩きまわっているうちに街外れの棺桶屋街に出る。「家という家はいろいろな棺おけの製造屋」で、「嚴丈にこしらえた寝棺がもち菓子のようななだらかな曲線をえがいた六尺もあろうかというフタがかぶさつている。そして表面は?色や赤や青やいろいろ色とりどりにぬつてある」。
「材料も丈夫なもので、板もなかなか厚いものを使つている。そしてフタをかぶせたところも密封されるようにできている。ロウを塗つたりして臭氣の發しないような装置もしてある」。
これら棺は「中國人がこの土地に埋めるのではなくて山東や華北の故郷に死體を送るためのもの」である。
「故郷に死體を送る」ビジネスを運棺(または運柩)業といい、中国人の「入土為安(死後は故郷の土に還りたい)」という願望に応じたものだ。「山東や華北の故郷に死體を送る」ということは、ハルピンとその近郊に住む中国人の多くが山東や華北からの出稼ぎということを物語っているのである。
ハルピンはロシア革命後の混乱の渦中にあった。とはいえ「ツァール・ロシアは亡びても明らかにロシア人の勢力下にあった」。
「中國人はまつたく奴隷的な状態におかれていた」。「正規のツァール軍隊は壊滅し」、「ツァール軍隊の將軍連は自分の娘や妻を人肉の市の商品に提供し、彼らが牛太郎をつとめているという話であ」り、「私もその片りんを二、三見た」。ハルピンでは「ツァール・ロシアの殘物共」が最後の足掻きを見せていた。《QED》
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今進行中の香港の民主化運動ではメンバーは110番の意味で親指と一差し指で○を作るという。
こうしたシグナル技術は支那で発達していた。それが復活し始めたのではないか。
丁度手元の歴史読本誌の88年3月号を見ていたら、天地会、三合会など、支那の秘密結社の会員のシグナルが出ていた。例えば胸に指三本をあてるなどして所属組織を示すものだ。
また青幇では、会員が旅先で金に困るとテーブルに帽子を上向きに置き合図した。するとこれを見たメンバーはその人物の所属、地位、等を確認して支援したという。これは、乱世の続く支那における互助会であったのだろう。
1949年に支那共産党は政権をとるとこうした秘密組織をすべて摘発し滅ぼした。しかし秘密結社の活動は今でも海外などで続いているという。法輪講もその一つであろう。
共産党の暴政に苦しむ国民は自衛のためには互助組織を作るしか方法がないのだ。実際共産党も秘密結社の一つだった。なおこの本は宮崎正弘先生も「亡命革命組織」中国之春を寄稿されている。
また驚いたのは,あの有田ヨシフ氏がジャーナリストとして、支那事変の日本の講和努力である桐工作の内幕について興味深い記事を書いていたことである。偽の宋子良の正体である。
蒋介石は内心では自分が損する対日戦を止めたかったが,1936.12.12の西安事件でスターリンの指示を受けた共産側に捕らえられ降服していたので止めることが出来なかった。//