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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)5月29日(水曜日)
          通巻第1344号
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蘇る三島由紀夫     
平井陽二

▲三島由紀夫氏の死を思う

「あらゆる天才的な、または新しい人間思想、あるいはただ単になんぴとかの脳裏に生じたあらゆる真面目な人間思想にあってすら、どうしても他人に伝えることのできない何物かが残っているものだ。たとえ何巻もの書物を著わし、自分の思想を三十五年かかって解説したにしろ、所詮は同じことである。頑としてその人の頭蓋骨のもとから出てゆくことを肯んぜず、永久にその人の内に、とどまっているような何物かが、常に残っているものなのである。したがって人は、おそらく自分の思想のうちで最も主要なものかもしれぬものを、空しくなんぴとにも伝えずに死んでゆくのだ」
(ドストエフスキー、神西清訳『白痴』より)

■1.自決後の三島論へのいらだち ■
 三島・森田両氏の壮烈なる割腹自決ほど世人を驚かせたものはない。事件翌日の各紙の社説に始まり、後に続々と続き、週刊誌、月刊誌の論評はまことに虚妄というか空虚というか、どれ一つとして人々を納得させるものはない。これらマスコミは、三島氏の死を説明する様々な説を並べはしたが、事件の指示した根元的命題は故意に軽視または無視して、興味本位の報道に堕して行った。あの事件を通して三島氏が訴えようとしていることを真剣に考えてみようとする人々にとって、これらマスコミの浮薄な論調は、何とも言い難い腹立たしさや、いらだちを覚えさせる。現に私もその一人である。このいらだたしさは日が経つにつれて増しこそすれ、減りそうもない。このいらだちを少しでも鎮めるためには、私のとらえ得た三島像を世に問う以外なさそうである。もちろん、私は三島氏を語るにふさわしい人間ではない。第一に三島氏は私の理解を遙かに超えた存在といってよい。第二に私は三島文学のファンではないし、氏の文学作品はほとんど読んでいない。それでもなお私の三島論を開陳せずにおれないのは、世上に見聞する三島論に強い疑惑といらだちを禁じ得ないからである。
 この小論が三島氏の真意をとらえ得て精確なるものだと自負するつもりは毛頭ない。ただこれを書くことにより私のいらだちが少しでも鎮まり、同時にいささかなりとも三島・森田両氏の鎮魂になればと思って書いた。

■2.信じてもらえない苦悩 ■
 何であれ、人のしてしまった行為を傍人が遡って分析すれば、自動人形のからくりの他に何が得られるだろうか、というのは小林秀雄氏の言葉であるが、マスコミ上に現れる論評はたいていこの類である。率直にその人の置かれた状態に身を置いて思えば、何かが見えてくるはずであるが、そこにはだいたい言葉がない。そういうところまでいったんおりて行って、何とかして言葉を見つけるのが真の批評というものであろう。このことは言うは易くして行うは難いことであるが、出来れば私はこういう姿勢で書いていきたいと思う。

 三島氏の死の真意を探る意味で、狂気説、美学説、文学説、果ては情死説と諸説入り乱れているが、三島氏にとって望ましからざるこれら諸説が乱れ飛ぶ責任の一端は、やはり氏自身にもあるといえるであろう。三島氏自身ある対談(昭和41年)で、次のようなことを口にしている。「私は絶対わかってもらえない。身から出たさびだと思います。やはり僕の行跡がたたってましてね、何をやったって信じてもらえない」…「やはり自分が悪いのだと思います。」

 三島氏にとって好ましからざる諸説の中にも、それぞれいくらかの真実はあるかもしれないが、それらは決して三島氏の核心を突いていないし、少なくとも三島氏の意図したところではない。先の対談での発言は、三島氏が国防を考える上で自衛隊に体験入隊することを決意したり、天皇について公に語り始めた頃のものであるが、何をやっても分かってもらえない、信じてもらえない当時の苦悩(とは言っても氏は苦悩を表に出すような人ではなかった。むしろ「理解されない誇り」と言っているくらいであるが)は、そのまま自決前後の苦悩へと続いているとも言えるのである。

■3.生の原理・死の原理 ■
 世間一般の三島氏誤解の第一は、氏が政治的言語で発言したり、政治(行動)の世界で活動していることを、すべて文学的用語で説明解釈し、文学の世界でとらえようとしていることである。もちろん氏自身にも、この二つの世界の無意識の融合はあったであろうが、意識的には、両者を峻別しようとたえず努めた人であることは明白である。

 三島氏が文学を「生の原理、無倫理の原理、無責任の原理」と規定し、行動(政治)を「死の原理、責任の原理、道徳の原理」(「砂漠の住民への論理的弔辞」)と規定していたことはいろんなところで表明している。文学の世界、芸術の世界というのは簡単に言ってしまえば、結局「ウソで遊んでいる」世界である(野坂昭如氏との対談)。従ってその世界においては、たとえいくら不道徳、無倫理なものであっても認められるし、責任はない。この世界には決して政治が入って来てはならない。この世界に政治が入ると、いずれは言論統制につながるからである。しかし、言論の自由そのものには何らの価値があるわけではない。戦後は言論の自由そのものが価値として政治的に利用されがちであるが、それ自体は価値ではなく、「動物としての最低限の要求」である。それはたとえば、夫婦の会話を聞かれないとか、はばかりをのぞかれないとかと同じような、いちばん低俗な権利で、しかもいちばん必要なものである。これが保障されなければ、文化なり何なり築きようがない。従ってこういうところから防衛意識というものが出てくるはずである。

■4.本音の思想化 ■
 三島氏は、「文武両道」という言葉を好んで使ったが、これは結局、デリケートな文(文化と考えてよい)の世界をよく知っている者が、同時に武(防衛、行動、政治)の世界を知り、それを身に付けておかなければならないということである。文の世界というものは、非常にか弱く、こわれやすいものである。これを守るためには武が必要である。しかし文を解せぬ武の独走は危険であるし、文と武の癒着も文の世界をだめにする。この危険を防ぐためには、文と武の両方の原理をしっかり握っていなければならなぬ。「この二つをくつつけぬために両方持つてゐなければならない」と氏は言っている。これがすなわち氏の言う「文武両道」である。

 では武の世界、行動(政治)の世界とはいかなるものであろうか。それは先に書いたように、責任の原理、道徳の原理によって支配された世界である。芸術、文学の世界は結局「ウソで遊んでいる世界」であったが、政治(行動)なり実人生なりにおいては、「本音を思想化」(野坂氏との対談)していけばよいのである。本音以外にモラルはあり得ない、と氏は言っている。しかし、モラルは究極的には命をかけることを要求する。氏は「文学自体がモラルを喪失させるという危険をいつも感じていた」(「文弱の徒について」)。文学にモラルや生きる目的を見出そうとする人間は、現実生活に何かしら不満を持っている。そして現実生活の不満を現実生活で解決せずに、文学の中に解決策を見つけようとする。文学の中に生きる目的やモラルを求める人間が、文学の毒にあたると、奇妙な優越感にとりつかれる。自分には何のモラルも力もないくせに、人間の世界に対して、ある「笑ふ権利」を持つてゐるのだという不思議な自信のとりこになってしまう。そして「あらゆるものにシニカルな目を向け、あらゆる努力を笑ひ、何事か一生懸命やつている人間のこつけいな点をすぐ探し出し、真心や情熱を嘲笑し、人間を乗り越えるある美しいもの、人間精神の結晶であるやうなある激しい純粋な行為に対する軽蔑の権利をわれ知らずに身につけてしまふ」(「文弱の徒について」)のである。(これはまさしく、生前、死後の三島氏の行動に対する文弱の徒「知識人」の反応である)。かくのごとき「文弱の徒」は、文学の中でだけ許されるような無道徳、無責任、ふしだらを現実生活に持ち込み、人に迷惑をかけて省みない。このような文学の毒を人一倍知っていた三島氏は、「そのうち…自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならないと感じるやうに」なり(「果たし得てゐない約束」サンケイ 昭和45年(1970)7月)、「無責任、無倫理の芸術の世界に満足しない一個の人間精神」(前掲・砂漠の住民への…)として、「責任の体系と道徳の体系とそして死の原理をみづから引き受けようとする政治行動」に「みづから飛び込んで」いったのである。

■5.内面的モラル ■
 このように、文学(芸術)の世界と政治(行動)の世界をはっきり区別しようとしていた三島氏は、当然それぞれの世界で使う言葉の責任範囲もはっきりしていた。すなわち、文学の世界の言葉には「絶対責任はとらない」。自分の小説に他人がどんな影響を受けようと自分には一切責任はない。文学の言葉に責任を持つとすれば、「言葉の味」に関してだけであって、それ以外は一切責任は持たない。
 しかし、一歩文学の世界から出て、政治の世界、行動の世界に入ると、責任は完全にかかってくる、と言明している。だからこの世界で「11月に死ぬぞ」という言葉を使ったら、絶対に死ななければいけない(村上一郎氏との対談・昭和45年(1970)1月「日本読書新聞」)。
 三島氏は、政治の世界、行動の世界における自分の言動の責任ということを、これくらい厳しく自己規制していたのであるが、誰もそれを冗談半分しか受け取らなかったのである。いや、そういう言葉が冗談としてしか聞けないくらい言葉というものが馬鹿にされているのである。「一度言葉を馬鹿にしたら、あと永遠に馬鹿にしなければならない」(前掲・村上一郎氏との対談)。これは、文学者としても行動人としても三島氏の我慢できないところであった。こういう気持ちは、昭和35年(1960)の安保闘争の頃から強まってきたようである。当時の新聞に、「ものを書く人間の現代喫緊の任務は、言葉をそれぞれ本来の古典的歴史的概念へ連れ戻すことだと痛感せずにはゐられない」、というようなことを書いている。「ウソの言葉をそれと知りながら使ふといういふのは、まぎれもないニヒリズムの兆候である」(昭和三十五年(1960)六月 毎日新聞)。

 政治・行動の世界での言動にはすべて責任がかかってくる、という考えは三島氏の内面的モラルであったといってよい。内面的モラルとは、三島氏が晩年によく使った言葉「士道」ということである。士道とは、「内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラルといふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになってしまふ。」(昭和45年(970)7月 サンデー毎日)

■6.反革命宣言 ■
 今まで見てきただけでも判るように、三島氏は政治・行動の世界においては、自分の言動に対する「責任」ということを非常に強調している。他に向かって責任を強調する以上は、そのことを自分の肝に銘じていたであろうことは想像に難くない。三島氏とはそういう人である。氏はこの「責任」のために死んだといっても過言ではない。
 このような三島氏が“これだけはどうあらうと責任を持つ”と言明しているのが、『反革命宣言』である(前掲・村上一郎氏との対談)。政治・行動の世界に属する三島氏の所謂「政治的言辞」で書かれた評論や、対談、討論等での発言は(特に晩年の三、四年のものは)、煎じ詰めれば結局この『反革命宣言』に要約されると断言してよい。これは三島氏のいう所謂「本音の思想化」と考えられる。//