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森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書2015年)

なじみ深い外国について、刮目させられる新知識。年来の疑問が氷解する貴重な体験の本です。これはまさに感謝。

著者は日本のプロテスタント神学者。学生時代から国際基督教大学を拠点に活躍してきました(牧師、副学長)。米国滞在も長く、現地の人々が考えていることについて長く研究する。専門家として研究しているのですからその国が大好きなのですが、その一方で宗教者として疑問に感じる部分もある。それが「キリスト教のアメリカ化」。

通常のキリスト教では、神は唯一絶対で人間の意図など完全に超越している。信心深い人物がたとえ不幸になったとしても、無信仰の連中の方が恵まれた生活を送っていたとしても、それは人間に計り知れない神の意志。それでも信仰を捨てない永遠の探求というのが身上ですね。

しかし、それを改変したのがアメリカ風キリスト教。その中心になるのが「神との新しい契約」でした。いろいろ事情はあったのですが、古くて腐敗したヨーロッパを捨てて理想の信仰世界を建設することを誓ったピューリタンの人々は、どうも神と再契約したようです。それは、人間と神の間の対等の関係。人間が神に向かって信仰や奉仕をするのだから、神の側もそんな人間を成功させ幸せにする義務がある。

「神と人間が対等な契約関係にあるならば、お互いが権利と義務をもつわけである。つまり、人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる、ということになる。その結果、宗教と道徳とが直結し、神の祝福とこの世の成功が直結する。まことにわかりやすい話だが、その分宗教的には薄っぺらで安っぽい。」(24頁)

ヨーロッパの伝統的なキリスト教からすればびっくり仰天ですが、いたって真面目に信じているのがアメリカ人。まさに宗教と道徳、神の祝福とこの世の成功が直結するのがアメリカのキリスト教。現に歴代大統領の一見格調高い演説にもちゃんとアメリカ限定の「契約」が登場いたします。その結果、日本人から見てもヨーロッパ人から見てもかなり特殊なアメリカ人の思考が生まれました。

それがアメリカ発の「反知性主義」。最近、日本でもいろいろなところで登場する「反知性主義」の元祖です。この言葉、マルクス主義左翼が権勢を誇った日本やヨーロッパでは、マルクス主義や左翼思想に反対する思想全般を指す意味で使われることが多いですね。マルクス主義左翼はしばしば自分たちだけが「知性」だと主張してきました。古くからしばしば「知識人の宗教」と呼ばれてきたわけです。

ただし、アメリカでは違う意味でした。それはアメリカ的な意味で神の前に平等な人間の自己主張。そこにはアメリカという国の特殊性がありました。アメリカはヨーロッパやアジアの国々とは違って、古代も中世もなく、近代になっていきなり生まれた国でした。古代や中世は身分制社会で、生まれながらの格差がそのまま身分として固定している。固定した身分社会に暮らす人々は、お互いの分をわきまえて生きていくのが美徳で、宗教もその線に沿っていました。

もちろんキリスト教もそうで、カトリックや東方正教会が典型ですが、プロテスタントでもヨーロッパの主流は身分秩序に肯定的でした。ところがアメリカではそれが不評。誰もが理想の信仰世界を建設しに来たのに、そこに格差があっては困る。そして初期の北アメリカ植民地で何よりも不平等だったのは、お金ではなくて知識でした。

初期にはイギリスから来た牧師などが植民地のエリートとして幅をきかせました。キリスト教についての専門知識があるから、当然理想の信仰世界では偉いに決まっている。典型は、アメリカ東海岸に建国以前から創設された名門大学の卒業生。ハーバード(1636年創設)やイエール(1701年創設)のような大学は、最初は植民地でピューリタンの牧師を養成するための施設でした。本国イギリスから呼び寄せるのが間に合わないからです。

しかし、そんな状態が続いていくと、学があることをひけらかす連中への反感が生まれました。「神の前に平等!」なんていいながら、嘘くさいぞというわけです。しかも、アメリカは広いので、田舎の地域が多い。このため広く旅をして説教をして回る各種の宗教家が影響力を振るいました。ハーバードを出たエリート牧師もいたはずですが、少数派。多くは、学もなく情熱や当人の宗教的確信だけで動いている人々でした。

そんな巡回説教師のイベントは田舎のアメリカ人にとって数少ない娯楽ともなります。毎週習慣として教会に通って学のある牧師のきまじめで退屈な講話を聞いているのですが、時折やってくるのは評判の説教師。芝居がかった演出でその場の人々を釘付けにしてしまう。政治家も有力者も底辺の労働者も同じ場に並んで涙を流す。

ちなみにこれが、アメリカ独特の現象である「メガチャーチ」の起源です。最低3000人から大は数万までの人々を一堂に集めて歌あり音楽ありその他盛りだくさんのアトラクションで魅了する大規模礼拝です。トップクラスの説教師になると風呂野球選手並の収入を得ているとのこと。

ただ、学校を出て資格も取って特定の地域に長年奉仕してきた真面目一本の牧師たちからすれば、突然やって来て人気をさらう無学無資格の巡回説教師の存在は面白くない。当然これに対する風当たりは強くなります。いかがわしい詐欺師まがいだというわけです。ところが批判される側にも返す刀はある。

「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(マタイ11-25)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないのか。」──これが、反知性主義の決めぜりふである。」(85頁)

問題はあくまでもキリスト教の内部限定なので、学問や資格を鼻にかけてきた人々に、「パリサイ人」はきついですね。パリサイ人は聖書最大の悪役です。そもそもキリスト自身が学識や資格をもっていたわけではない。そんなキリストを迫害したのがパリサイ人でした。ここから反知性主義が様々な形で芽生え成長していきます。

ただし、アメリカの反知性主義は決して知性全般を否定する単なる反・知性ではない。むしろ知性は尊ぶのですが、知性が特定の権威や勢力に固定されると攻撃を開始する。つまり、キリスト教をめぐる知識は大切で研究することも大いに結構だが、それが特定の人々を特別扱いする手段になると許せない。いわゆる「エスタブリッシュメント」への嫉妬や敵意だけでは不足で、反知性主義には既得権を持った人々を倒せるほどの知性が必要になる。

反知性主義者は、親子代々の家業みたいな知に安住している人々よりも知的にすぐれていなければならない。そして権威に取って代わる。すると元反知性主義者がエスタブリッシュメントになってしまい、知識を権威付けに利用し始める。すると、今度は全米に無数にいる反知性主義者の挑戦を受けることになります。実は、この循環運動がアメリカ。

この本が何よりも貴重なのは、「反知性主義」を罵倒のための中傷用語としてではなく、むしろアメリカの知的原動力、独特の魅力の源として高く評価していることです。そのように考えてくると、マスコミや学界を牛耳る人々が口を極めて罵る「反知性主義」もかなり立体的に見えてくるから不思議です。

2019年2月26日
犬飼裕一

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