■■ Japan On the Globe(1093)■■ 国際派日本人養成講座 ■■
Common Sense: 人間教育としての国語教育~『“とっちゃん”先生の国語教室』から
「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
■転送歓迎■ H30.12.16 ■ 50,533 Copies ■ 4,548,510Views■
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■1.「ひたすら国語教師たるの道を求めつづけられた」
“とっちゃん”先生、こと、桑原暁一先生はある都立高校の国語教師を20年間勤めた人物である。この本の前書きには、こう紹介されている。
__________
桑原さんは、一高文科を経て、東大文学部国文学科といういわば世にいうエリートコースを進んだ学究であったが、生涯を通じて栄達などには目もくれず、ひたすら国語教師たるの道を求めつづけられた。[1, p2]
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桑原先生は昭和48(1973)年3月に退職された後、わずか2ヶ月後には逝去される。まるで国語教師を辞めたら、もうこの世には用がない、とでも言うようだ。ところが、その数年後、ある美しい機縁から、その遺稿が見つかり、出版されたのである。
桑原先生の無二の親友だった教育学博士・元佐賀大学教授の副島羊吉郎先氏が、桑原先生からの来信を見直していると、昭和三十年二月二十九日の手紙に「『人間教育としての国語教育』を一気に書きあげた」との一節を発見された。もう20年以上も前の手紙である。
ご遺族に探して貰ったところ、「不用になった試験問題用紙の裏を利用して、鉛筆でなぐり書きしたような筆運びのものが発見」された。副島教授は、それを丹念に別の原稿用紙(四百字詰八十九枚)に清書された。原文の判読で迷われた筆跡個所については、故人の筆跡をよく知っている方を煩わして解明できたという。副島教授は、こう書いている。
__________
よみづらいことおびただしい原稿でした。しかし桑原さんは、″自分が一番力を注いだのは国語教育であったから、最後には国語教育に関することをまとめたい″と言っていました。
その念願を果さずに亡くなられましたから、この論文を私は非常な関心をもって読みました。結果は深い感銘をうけました。桑原さんが後で書かれたら、もっと修正したことだろうと思いますが、大きな筋は大して変らなかったのではないかと思います。[1 ,p4]
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この遺稿をまとめた本が『“とっちゃん”先生の国語教室』[1]である。この本は最近、電子書籍版にて復刻され、私も一読して、深い感銘を受けた。「国語教師たるの道」を追究した人の言葉として、ぜひ国語教師を志す人、あるいは、ひろく教育に関わる人々に読んで貰いたいと思い、今回、紹介させていただく。
■2.「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」
桑原先生の教師ぶりについては、この本のあとがきに寄せられたかつての生徒たちの思い出から窺うことができる。ある女生徒はこう書いている。
__________
先生との出会いは千岳荘、夏の移動教室である。地下足袋をはいて、さっそうと安達太良山を登る先生を、私達は山のおじさんかと思っていた。そのおじさんが、二年になって教室に現れたのに困惑してしまった。
初めは風変わりな先生だなあと思っていた。先生も初めは実際そうしていたように思われる。教科書を小わきにかかえ、おもむろに教室に入ってくる。教壇に着くか着かぬ間に、ひとりで御辞儀をすませてしまう。立ちあがった私達は機を失っておどおどしてしまうといった調子だ。[1, p164]
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桑原先生の授業ぶりについては、別の生徒がこう回想している。
__________
先生は生徒との一体感をとても大切にしていました。・・・ある時には、きのう作った句だといって、
老残の書斎明るむバラ五輪
と黒板に書きました。たいていそんなことをしながら生徒と一体になっていくのでした。そして本当に一体になった時には、目を細めて、つぶやくような話し方で、しみじみとした話をしてくれました。僕はこういった時の先生が一番好きでした。昔、小さかった二人の息子さんを、おんぶした時に、背中に伝わってくる子どもの感触のよかったこと。・・・[1, p171]
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■3.「国語科でやることは、ことばによる人間相互理解である」
「桑原先生は、いつも人間という生きた対象-生徒達も含めて-に素直に近づこうとされるようでした」と別の生徒は回想している[1, p163]。「生徒との一体感をとても大切にしていました」という前節の言葉に通い合う表現である。そして、それこそが「国語教師たるの道」として、桑原先生が生涯、求め続けたものであった。
桑原先生は学校教師になってまもなく、国語とは何を教える学科なのか、真剣に悩んだ。フランスの哲学者ルソーの教育論『エミール』を読むと、「言葉による教育は一切与えず、すべて実地について教えきたえる。書物は無用。ただし例外として『ロビンソン・クルーソー』だけは読ませても良い。自分の頭と手足だけで生活をきずきあげた物語であるからだ」という。
__________
ぼくは全くがっかりしてしまった。これでは国語の教師をやめるほかはない、人はわらうかも知れないが、いい年をして、こんなだらしない気持ちの日々がつづいたことがあった。[1, p28]
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こうして少なからず悩んだ末にたどりついたのは、こういう結論だった。
__________
ロビンソン・クルーソーも、ことばはもっていたにちがいない。そして、そのことばは、やはり「人間」のことばであり、彼自身つくり出したものではあるまい。国語科でやることは、ことばによる人間相互理解である、ということを、ルソーに向かっていってもわらわれないであろう。[1, p29]
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■4.人間はことばによって人間となる
桑原先生はかつて読んだヘレン・ケラーの伝記を思い起こす。ヘレン・ケラーは幼児の時の病気で、目も見えず、耳も聞こえず、そのために言葉を話すこともできなかった。そして、性格が非人間的で粗暴で手がつけられなかった。
__________
つまり、彼女はことばがわからないために、正に人間ではありえなかった。人間の間におかれた一種の動物にほかならなかった。それは自己を相手に通じさせるためには、わめいたり、あばれたりするほかはなかったのである。[1, p30]
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そこに家庭教師のアン・サリバン女史がやってきて、手のひらに指で文字を書くことを教える。だんだん言葉が分かるようになり、サリバン女史と言葉が交わせるようになると、性格も穏やかになっていった。
人間は言葉を通じて、他者とつながる。そのつながりの中で、人間として成長していく。桑原先生のクラスに不良じみた生徒がいた。両親はなく、親戚に厄介になっている。おもてだって、あまり口をきかず、かげではたえず人をいじめたりしている。
__________
人間的な愛情に飢えているということは、ことばにうえているということである。・・・
ぼくはこういう子供に、しいて言葉をかけるように心がけた。教室でも何か簡単な質問をしては、なるべく口を開かせ、教室の仲間入りをさせようとした。
ぼくのいうことをきかないで、わきのものに何かコソコソいたずらなどしているのをみつけると、「ぼくはお前がきいていないと張り合いがないよ、ぼくをがっかりさせないように、よくきいてくれよ」なんてこともいった。むろんぼくは、ぼくのこの心くばりを過大評価するつもりはないが、その子供をいくらかすなおな子供にしたことは信じている。[1, p31]
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■5.「生きた人間関係のなかに」
__________
国語の時間には、つねに話し合いが行われなければならない。人間的な話し合いの行われるのは、国語の時間をおいて他にはもとめられないものなのである。[1, p33]
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たとえば、国語の時間に、なにかの論文を読む、という時でも、「人間的な話し合い」の中で行われなければならない。
__________
ある論文をよむ――よむというのは間接に人の話をきくということである。きいたら、ききっばなしのこともあろうが、多くの場合はそれに対して何かもっとききたいこともあろうし、自分からきいてもらいたいこともある。
ところが、相手の人はそこにいない。一方的にきかせられるだけである。そこで教師がその人の代役をつとめたらよい。教師はその論文の筆者になりかわって、みんなの質問にこたえ、その意見をきく、ここで会話が行われる。そうすれば、この一つの論文は生きた人間関係のなかにおかれたものとなる。[1, p31]
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「桑原先生は、いつも人間という生きた対象-生徒達も含めて-に素直に近づこうとされるようでした」「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」という姿勢は、このように授業を「生きた人間関係」の中で行おう、という考えからきたものであった。
■6.国語の授業で、文学作品を取り上げる理由
__________
人間教育ということは、国語教育のになう重要な役割であるとすれば、文学作品はそのもっとも適当な教材である。多くはのぞむ必要はない。一つの作品、一人の作家を、ほんとうによく知りそれと親しむこと、それだけでもいいことである。[1, p21]
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ここで、国語の授業で文学作品を取り上げる理由が明かされる。文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためでなく、文学を通じて人間教育を行うためなのだ。文学そのものを学ぶのではないから、文学作品を広範に渉猟したり、文学史を系統的に学んだりする必要はない。
__________
ぼくは中学の教師をしていたとき、教科書に中勘助氏の『銀のさじ』の一部分がのっていたのを機会に岩波文庫を生徒全員に買ってもらって全部をよみとおしたことがある。・・・
・・・生徒も大変よろこんでくれたようである。とにかく全部よんだ上で、何かわからないところ、問題となるところを質問させる…
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「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
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■1.「ひたすら国語教師たるの道を求めつづけられた」
“とっちゃん”先生、こと、桑原暁一先生はある都立高校の国語教師を20年間勤めた人物である。この本の前書きには、こう紹介されている。
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桑原さんは、一高文科を経て、東大文学部国文学科といういわば世にいうエリートコースを進んだ学究であったが、生涯を通じて栄達などには目もくれず、ひたすら国語教師たるの道を求めつづけられた。[1, p2]
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桑原先生は昭和48(1973)年3月に退職された後、わずか2ヶ月後には逝去される。まるで国語教師を辞めたら、もうこの世には用がない、とでも言うようだ。ところが、その数年後、ある美しい機縁から、その遺稿が見つかり、出版されたのである。
桑原先生の無二の親友だった教育学博士・元佐賀大学教授の副島羊吉郎先氏が、桑原先生からの来信を見直していると、昭和三十年二月二十九日の手紙に「『人間教育としての国語教育』を一気に書きあげた」との一節を発見された。もう20年以上も前の手紙である。
ご遺族に探して貰ったところ、「不用になった試験問題用紙の裏を利用して、鉛筆でなぐり書きしたような筆運びのものが発見」された。副島教授は、それを丹念に別の原稿用紙(四百字詰八十九枚)に清書された。原文の判読で迷われた筆跡個所については、故人の筆跡をよく知っている方を煩わして解明できたという。副島教授は、こう書いている。
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よみづらいことおびただしい原稿でした。しかし桑原さんは、″自分が一番力を注いだのは国語教育であったから、最後には国語教育に関することをまとめたい″と言っていました。
その念願を果さずに亡くなられましたから、この論文を私は非常な関心をもって読みました。結果は深い感銘をうけました。桑原さんが後で書かれたら、もっと修正したことだろうと思いますが、大きな筋は大して変らなかったのではないかと思います。[1 ,p4]
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この遺稿をまとめた本が『“とっちゃん”先生の国語教室』[1]である。この本は最近、電子書籍版にて復刻され、私も一読して、深い感銘を受けた。「国語教師たるの道」を追究した人の言葉として、ぜひ国語教師を志す人、あるいは、ひろく教育に関わる人々に読んで貰いたいと思い、今回、紹介させていただく。
■2.「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」
桑原先生の教師ぶりについては、この本のあとがきに寄せられたかつての生徒たちの思い出から窺うことができる。ある女生徒はこう書いている。
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先生との出会いは千岳荘、夏の移動教室である。地下足袋をはいて、さっそうと安達太良山を登る先生を、私達は山のおじさんかと思っていた。そのおじさんが、二年になって教室に現れたのに困惑してしまった。
初めは風変わりな先生だなあと思っていた。先生も初めは実際そうしていたように思われる。教科書を小わきにかかえ、おもむろに教室に入ってくる。教壇に着くか着かぬ間に、ひとりで御辞儀をすませてしまう。立ちあがった私達は機を失っておどおどしてしまうといった調子だ。[1, p164]
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桑原先生の授業ぶりについては、別の生徒がこう回想している。
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先生は生徒との一体感をとても大切にしていました。・・・ある時には、きのう作った句だといって、
老残の書斎明るむバラ五輪
と黒板に書きました。たいていそんなことをしながら生徒と一体になっていくのでした。そして本当に一体になった時には、目を細めて、つぶやくような話し方で、しみじみとした話をしてくれました。僕はこういった時の先生が一番好きでした。昔、小さかった二人の息子さんを、おんぶした時に、背中に伝わってくる子どもの感触のよかったこと。・・・[1, p171]
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■3.「国語科でやることは、ことばによる人間相互理解である」
「桑原先生は、いつも人間という生きた対象-生徒達も含めて-に素直に近づこうとされるようでした」と別の生徒は回想している[1, p163]。「生徒との一体感をとても大切にしていました」という前節の言葉に通い合う表現である。そして、それこそが「国語教師たるの道」として、桑原先生が生涯、求め続けたものであった。
桑原先生は学校教師になってまもなく、国語とは何を教える学科なのか、真剣に悩んだ。フランスの哲学者ルソーの教育論『エミール』を読むと、「言葉による教育は一切与えず、すべて実地について教えきたえる。書物は無用。ただし例外として『ロビンソン・クルーソー』だけは読ませても良い。自分の頭と手足だけで生活をきずきあげた物語であるからだ」という。
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ぼくは全くがっかりしてしまった。これでは国語の教師をやめるほかはない、人はわらうかも知れないが、いい年をして、こんなだらしない気持ちの日々がつづいたことがあった。[1, p28]
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こうして少なからず悩んだ末にたどりついたのは、こういう結論だった。
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ロビンソン・クルーソーも、ことばはもっていたにちがいない。そして、そのことばは、やはり「人間」のことばであり、彼自身つくり出したものではあるまい。国語科でやることは、ことばによる人間相互理解である、ということを、ルソーに向かっていってもわらわれないであろう。[1, p29]
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■4.人間はことばによって人間となる
桑原先生はかつて読んだヘレン・ケラーの伝記を思い起こす。ヘレン・ケラーは幼児の時の病気で、目も見えず、耳も聞こえず、そのために言葉を話すこともできなかった。そして、性格が非人間的で粗暴で手がつけられなかった。
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つまり、彼女はことばがわからないために、正に人間ではありえなかった。人間の間におかれた一種の動物にほかならなかった。それは自己を相手に通じさせるためには、わめいたり、あばれたりするほかはなかったのである。[1, p30]
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そこに家庭教師のアン・サリバン女史がやってきて、手のひらに指で文字を書くことを教える。だんだん言葉が分かるようになり、サリバン女史と言葉が交わせるようになると、性格も穏やかになっていった。
人間は言葉を通じて、他者とつながる。そのつながりの中で、人間として成長していく。桑原先生のクラスに不良じみた生徒がいた。両親はなく、親戚に厄介になっている。おもてだって、あまり口をきかず、かげではたえず人をいじめたりしている。
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人間的な愛情に飢えているということは、ことばにうえているということである。・・・
ぼくはこういう子供に、しいて言葉をかけるように心がけた。教室でも何か簡単な質問をしては、なるべく口を開かせ、教室の仲間入りをさせようとした。
ぼくのいうことをきかないで、わきのものに何かコソコソいたずらなどしているのをみつけると、「ぼくはお前がきいていないと張り合いがないよ、ぼくをがっかりさせないように、よくきいてくれよ」なんてこともいった。むろんぼくは、ぼくのこの心くばりを過大評価するつもりはないが、その子供をいくらかすなおな子供にしたことは信じている。[1, p31]
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■5.「生きた人間関係のなかに」
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国語の時間には、つねに話し合いが行われなければならない。人間的な話し合いの行われるのは、国語の時間をおいて他にはもとめられないものなのである。[1, p33]
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たとえば、国語の時間に、なにかの論文を読む、という時でも、「人間的な話し合い」の中で行われなければならない。
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ある論文をよむ――よむというのは間接に人の話をきくということである。きいたら、ききっばなしのこともあろうが、多くの場合はそれに対して何かもっとききたいこともあろうし、自分からきいてもらいたいこともある。
ところが、相手の人はそこにいない。一方的にきかせられるだけである。そこで教師がその人の代役をつとめたらよい。教師はその論文の筆者になりかわって、みんなの質問にこたえ、その意見をきく、ここで会話が行われる。そうすれば、この一つの論文は生きた人間関係のなかにおかれたものとなる。[1, p31]
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「桑原先生は、いつも人間という生きた対象-生徒達も含めて-に素直に近づこうとされるようでした」「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」という姿勢は、このように授業を「生きた人間関係」の中で行おう、という考えからきたものであった。
■6.国語の授業で、文学作品を取り上げる理由
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人間教育ということは、国語教育のになう重要な役割であるとすれば、文学作品はそのもっとも適当な教材である。多くはのぞむ必要はない。一つの作品、一人の作家を、ほんとうによく知りそれと親しむこと、それだけでもいいことである。[1, p21]
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ここで、国語の授業で文学作品を取り上げる理由が明かされる。文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためでなく、文学を通じて人間教育を行うためなのだ。文学そのものを学ぶのではないから、文学作品を広範に渉猟したり、文学史を系統的に学んだりする必要はない。
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ぼくは中学の教師をしていたとき、教科書に中勘助氏の『銀のさじ』の一部分がのっていたのを機会に岩波文庫を生徒全員に買ってもらって全部をよみとおしたことがある。・・・
・・・生徒も大変よろこんでくれたようである。とにかく全部よんだ上で、何かわからないところ、問題となるところを質問させる…
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