■■ Japan On the Globe(1083)■■ 国際派日本人養成講座 ■■
地球史探訪: 敗戦直後の日本を共産革命から救ったのは ~ 江崎道朗『日本占領と「敗戦革命」の危機』から
敗戦の混乱の中で共産革命を実現しようとする国内およびGHQの共産主義者たちの前に立ちはだかったのは。
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■■■ 伊勢雅臣講演のお知らせ ■■■
日時: 平成30年10月21日(日)開場午後1時30分、開演午後2時
場所: さいたま共催会館(さいたま市浦和区岸町7-5-14)
行事名: 「天皇陛下御即位30年奉祝感謝埼玉県民の集い」
主催: 「天皇陛下御即位30年奉祝感謝埼玉県民の集い」 実行委員会
第1部奉祝式典、第2部記念講演(伊勢雅臣、3~4時)
演題: 「国民を結ぶ 皇室の祈り」 入場無料、先着400名
申込み: 本メールへの返信にて、ご氏名、年齢をお知らせ下さい。
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■1.野坂参三の凱旋帰国
終戦から5か月の昭和21(1946)年1月12日、野坂参三は釜山からの連絡船に乗って、博多港に上陸した。博多港で待ち構えていた朝日新聞は、このニュースを社会面トップ、4段ぶち抜きで報じた。
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平和時代から支那事変大東亜戦下の十五年を外国生活に過し中国共産党の本拠延安において日本人解放運動の最高指導者として反戦解放運動を活発に続けていた中共(JOG注: 中国共産党)幹部の野坂参貳氏(筆名岡野進)は戦犯者処分、軍国主義者追放など民主主義旋風裡の祖国日本に帰国、十二日正午釜山経由、博釜連絡船で博多港に上陸した。[1, 3989]
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記事はこの後も、「長い四箇月の旅路を祖国再建への熱情で踏破」「大きな役割を示すものとして期待されている」などと、まるで凱旋将軍のような書きぶりである。
野坂が東京入りすると、「人民の英雄、同志野坂」「働かせろ、食わせろ、家を与えろ」「人民共和政権樹立」などの幟(のぼり)やプラカードが林立するなか、共産主義者の愛唱歌「インターナショナル」を斉唱する群衆に迎えられた。
野坂参三の凱旋帰国は、敗戦直後のわが国が迎えた共産革命の危機の幕開けであった。
■2.日本共産革命のエース
世界共産革命を目指してソ連が設立した国際組織コミンテルンの日本代表であり、かつコミンテルン日本支部として創設された日本共産党のメンバーであった野坂参三が、モスクワから中国共産党の本拠地・延安に入ったのは1940年のことだった。
延安では支那事変で捕虜となった日本軍兵士を洗脳して、将来の日本における共産革命の戦士に仕立てあげる日本労農学校が設けられ、野坂はその校長となった。そこでは日本軍兵士たちは厚遇され、悪いのは日本の軍国主義者であって、日中両国の人民が協力して彼らを打倒し、日本の兵士や労働者、農民を解放すべきだ、という洗脳がなされた。
この方法は情にもろい日本軍兵士に大きな効果を上げた。1944(昭和19)年に延安を訪れたアメリカ軍事使節団は、これに驚き、ここから、終戦後、アメリカ占領軍によって実施される「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に発展した。
アメリカの使節団は共産主義者が中心となっており、野坂を「明晰な思想家でかつ指導者たる器である」と高く評価した。野坂はソ連、中国、アメリカの共産主義者たちから見れば、日本で共産革命を起こすためのエース的な存在だったろう。その期待のエースがいよいよ日本に上陸したのである。
■3.GHQとともにやってきた共産主義シンパ
日本の占領行政を行ったGHQ(総司令部)は、共産主義者の巣窟だった。当時は大恐慌の後で、資本主義の失敗が誰の目にも明らかとなり、人類の未来は共産主義にある、と信ずるインテリが多かった。さらにアメリカの共和制の伝統から、独裁的な帝政を倒して史上初の共産主義政権を樹立したソ連に親近感を持つ人々が少なくなかった。
ルーズベルト政権が大恐慌克復のために始めたニューディール政策は公共投資を中心とした社会主義的な性格が強いもので、それまで小さな政府だった連邦政府を急拡大したため、多くの共産主義者が政府に入り込んだ。
ソ連が世界の共産革命を狙って、各地の共産主義シンパとのネットワークを造り、彼らが各国の政権の中枢に入って、ソ連の工作員として働くようになったのも、自然のなりゆきだったろう。
日本と蒋介石との戦いを煽って、「祖国」ソ連を守ろうとした尾崎秀実はその一例である[a]。同様にルーズベルト政権内にも200人以上の共産主義者が入り込んで、アメリカをドイツや日本と戦わせようとした[b]。こうした工作員、共産主義シンパが、GHQスタッフとして日本にやってきて、共産革命を起こそうとしたのである。
■4.GHQの容共政策
GHQが矢継ぎ早に打ち出した占領政策は共産主義国家がとる政策と本質的に同じであった。まず報道や言論、思想の自由の抑圧である。報道や出版、私信の検閲など、総勢6千人を超える陣容で、戦時中よりはるかに厳格な検閲がなされた[c]。その上で、日本人に罪悪感を植え付ける洗脳工作「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が進められた。
ついで反対勢力の弾圧としては、国内法にも国際法にもない「侵略の罪」や「人道の罪」による東條英機元首相ら39人の逮捕。さらには「公職追放」という名の粛正で、21万人以上の追放。大学や出版社などで多くのポストが空き、それを共産主義シンパやGHQに媚びをうる輩が埋めた。
GHQのスタッフとして日本共産党を支援したのがハーバート・ノーマンであった。日本に赴任したカナダ人牧師の息子として、17歳まで日本で育った。ケンブリッジ大学在学中にはイギリス共産党に入り、その後、カナダの外交官となり、「日本は天皇制を中核とするファシズム国家である」との博士論文を書いて有名になり、マッカーサーによってGHQにスカウトされた。
そのノーマンが起草した「人権指令」が10月4日に発表された。治安維持法など思想犯を取り締まる法律をすべて廃止し、それによる拘留者を10月10日までに釈放するように命じた。同時に10月5日には特別高等警察(特高)の警察官全員の罷免を要求する覚え書きも発した。
特高、治安維持法などは、日本が共産主義と戦うための手段であったが、それらを全廃し、なおかつ、共産主義者を野に放って、共産革命に火をつけようという魂胆であった。
府中刑務所から釈放された日本共産党幹部、徳田球一、志賀義雄らは、その日のうちに声明を出して、GHQに謝意を表し、その平和政策を支持するが、「天皇制」を打倒することなしには、ポツダム宣言に謳われた「日本の民主化」も、飢餓の克復もできない、と訴えた。
こうしてGHQによる共産革命の下地作りが進んだところに、野坂参三が帰国したのである。
■5.「朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね」
その頃の国内は、食糧事情が悪化していた。昭和天皇は:
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食糧事情の悪化は、このまま推移すれば多数の餓死者を出すようになるというが、戦争に塗炭の苦しみをした国民に、このうえさらに多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたいことである。[1, 4253]
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と、心配され、皇室御物の目録を作らせて、これを代償にマッカーサーに食料供給を求められた。マッカーサーは感動して、「皇室の御物をとりあげる事など面目にかけてもできないが、国民のことを思う天皇の心持ちは十分に了解される」として、「かならず食料を本国から移入する方法を講ずるから、安心されたい」と答えた。
一方、共産党にとっては、国民が苦しむ時こそ混乱に乗じて共産革命に火をつけるチャンスであった。野坂参三と、釈放された共産党幹部たちは、昭和21(1946)年4月7日、日比谷公園で「幣原反動内閣打倒人民大会」を開催して7万人を集めた。
翌5月19日には、25万人も集めて「米飯獲得人民大会(食料メーデー)」を皇居前で開催した。この時、「朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね」などと書いたプラカードをデモ隊は掲げ、暴徒の一部が坂下門を突破して皇居に乱入した。
この頃、警視庁が行った調査では、大半の世帯が米飯を一日に一回小盛りで食べるのがせいぜいで、あとは雑炊やいもなどの代用食でつないでおり、一日に米一粒も食べられない世帯も決して少なくなかったほどであった。
マッカーサーは昭和天皇の御要望に答えようと、ワシントンに対して214万トンの対日食糧輸出を要請した。しかしアメリカ本国は、その要請を1946年2月に却下している。
3月から小麦・雑穀の輸入が始まったものの、ソ連もメンバーとなっている極東委員会からは「日本はいかなる連合国または解放諸国より食糧補給の優先的取扱ひを受けざる」よう掣肘を受けた。食料不足に苦しむ国民が増えるほど、反政府・反米のムードが盛り上げるからである。
■6.労働争議、ストライキなど頻発し、、、
食料・経済危機を背景に、共産党は労働争議を盛り上げていった。特に8月、9月は労働争議への参加が60万人規模に達した。激しいインフレに対応するための賃上げ要求などが中心だったが、やがて運動は急速に政治化し、12月17日には「吉田内閣打倒国民大会」が「人民広場」と呼ばれた皇居前広場で開催され、50万人が集結した。
労働組合の組織化も急速に進み、官公庁、民間含め、組合員は600万人に膨れあがった。
吉田首相は昭和22(1947)年1月1日の年頭の辞において、こうした動きへの危機感を訴えた。
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昨年以来労働争議、ストライキなど頻発し、生産減退、インフレおよび生活不安を激化し、いわゆる経済危機を助成せしめつつある現状であります。・・・
いわゆる労働攻勢、波状攻撃などと称して市内に日日デモを行い、人心を刺激し、社会不安を激化せしめて、あえて顧みざるものあるは私のまことに意外として、また心外にたえぬところであります。[1, 5812]…
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