NEC_2575.jpg

--------
↓全文読めない等の場合はバックナンバーでご覧下さい↓
http://melma.com/backnumber_45206/
--------

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)6月12日(火曜日)
         通巻第5723号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 歯の浮くような儀礼的言辞のやりとりから米朝首脳会談は始まった
  金正恩は前夜にマーライオンを観光するなどリラックスを演出したが
****************************************

 2008年6月12日、シンガポールのセントーサ島のリゾートホテルで、「世紀の会談」が始まった。会場に市内から離れた豪華ホテルを選んだのは、おそらく盗聴器をしかける余裕を与えないためだろう。警備がしやすいというのは口実に過ぎない。

 トランプは予想された最大の献金者としてもしられるアデルマン経営の「マリーナ・ベイサンズ・ホテル」を宿泊先に選ばず、むしろマレーシア華僑の「シャングリラ・ホテル」としたのは、過去連続して「シャングリア対話」の会場であり、マティス国防長官ら歴代国防長官が宿泊しての経験上からではないか。

 問題は金正恩の背後にいる中国である。
 朝鮮の歴史的体質はまず内ゲバありき、ついで必ず外国を巻き込むのだ。金正恩は、韓国を米国との仲介役兼メッセンジャーボーイとして使い、中国を蚊帳の外の置くふりをして、習近平を合わせてさせ、しっかりと支援を取り付けた。
 そのうえ土壇場でロシアを巻き込んで、周りを固めてからトランプとの会見に臨んだ。

 中国は子分の暴走を防ぐために重度の介入を示し、あげくには遠距離を飛ばす飛行機がないというので、共産党最高幹部専用機を、例外的に金正恩に貸与したのだ。
つまり通信施設や、乗務員は中国人であり、おおよそすべての会議内容が、中国に伝えられる。

 米朝首脳会談は歯の浮くような言辞のやりとりから始まった。前夜に金正恩は夜中の散歩を試みて、マーライオンを観光するなどリラックスを演出したが、当日の表情は緊張してこわばっていた。
       ▽◎◎み□△◎や◇◎□ざ▽◎○き○□▽
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1743回】  
――「我は大清國の民なりと」――遲塚(2)
  遲塚麗水『山東遍路』(春陽堂 大正四年)

   △
 もう少し遲塚の目に映じた一般庶民の日常生活を追いかけてみたい。
 「宗教上の信仰につては、殆ど何者も持つて居ない、死を恐れることは生まれつき知つて居るが、その命の價は極めて安い、死人を取扱ふ道としては廟がある、これは宗教的の意味は殆ど無く只死人を葬る一の形式に過ぎない」。

明治39(1906)年に1ヶ月ほどをかけ奉天(現在の瀋陽)、大連、旅順、営口、山海関、天津、北京を旅した徳富蘇峰も『七十八日遊記』(民友社 明治39年)に「総じて支那にては、流石に四億余の人口ある故にや、人間程廉価のものは此れなく」と呆れ気味に綴っているが、「その命の價は極めて安い」のは、やはり膨大な人口という「特殊事情」に起因するのではないか。人権無視。いや、御幣を恐れずにいうなら、そんなもの最初からなかったのではい。現時点でもそうだが、1億2千万余の日本の人口スケールの11倍以上の14億強の人口を抱える国であることを決して忘れてはならない。

 「死骸を火葬にする事は非常に嫌ふ、皆土葬にする、其棺は立派な事はこれ又以外に驚くより外は無い、平常殆ど食ふや食はずの生活をして居る農民でと(おそらくは「も」の誤植ではないか)、死んで入る棺だけは實に立派なものを作つて置く、生きて居る中から、ちやんと用意して居るのである」。

「邊鄙な田舎には何等娯樂の機關の無ければ、遊戯の方法も無い」。では何が楽しみか。じつは年に数回開かれる廟会(縁日)であり、縁日に掛けられる芝居が一般的だが、遲塚は「農民は暇さへあれば、煙草をふかす事と生芋を咬る事が唯一の娯樂」だとしている。

「妻に對する態度は、愛すると云ふよりは寧ろ仕へると云つた方が至當」で、「妻には一番奥の部屋をへて置いて、日が暮れると、勞働に疲れた夫は、小さい妻の便器(壺)を抱へて其閨に入つて行く」。とはいうものの食うや食わずの一般農民が「一番奥の部屋」があるような家を持てるほどの余裕があるわけはないだろうから、この辺りは遲塚の勘違いか。はたまた誤解だと思うのだが。

 ドイツ軍を破った後の青島の行政・治安は日本側の青島軍政署が司っているが、戦後混乱期の「いまだ軍政を布かざるの前は、支那人の盗賊横行して無人の家屋に侵入し、盛んに奪掠を擅にした」。そのまま一般人を市内に呼び入れたら「支那の不逞の徒更に多く入り込みて、市の秩序を攪亂するの虞あれば、秩序其緒に就き次第、順次一般に入市せしむる方針を定め、先市内に財産を有するものに限り入市して之を整理せしむる事とした」のであった。

 日本にだって「不逞の徒」はいる。だが、なにせ膨大な人口だ。分母が大きいだけ分子に当たる「不逞の徒」は多いはず。さぞや青島軍政署は苦慮したことだろう。

 人力車を駆って青島市内観光に出掛ける。「甚だ乘心地好からぬやうに思はれたるが」、予想が外れた。「宛ら安樂椅子に凭りたる」ようだが、「唯だ辮髪を巻ける車夫の首が、眼の前に出頭没頭して行く手の看めを妨ぐることゝと、時に手洟をかみ、又唾を吐いて、飛沫の面を撲つあることゝは仲々に心地惡し」。まあ郷に入ったら郷に従え。我慢、ガマンだ。

某日、「青島に入るの關門」に当たる「臺東鎭に遊ぶ」。雑踏と人いきれの市を歩いた。
「物を賣るに皆秤量を用ゐたり」。包子(肉まんじゅう)でも1つ1つ手に取って少しでも「重さうなものを撰り取るなり」。そこで包子は「實に幾十人の掌の上に載せられたるなり」というから、その「幾十人の掌」の汚れで包子がコーテイング(!?)されていることになる。かくして「余はこれを觀て、支那人は燐寸を買ふにすら、一枝一枝と算へて數多きを撰り取るなりと曾て聽けるは、眞なりと想へるなりき」。
《QED》
        ▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(休刊のお知らせ)6月14日から18日まで海外取材旅行のため小誌は休刊です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
(読者の声1)月刊文春の最新号(7月号)に、「小池百合子『虚飾の履歴書』」という小論が掲載されていますね。
昨年の秋でしたか、この女性政治家が大きくクローズアップされそうになった以前から、私はこの人物の底の浅さを見抜いていたつもりですが、この記事を読んで、(かなりの部分は既に周知の内容ではありましたが)あらためてその虚飾性に暗然となりました。
それ以上に不愉快なのは、こうした「虚飾の人」「底の浅い人物」にすり寄っていく連中です。さすがに評判が悪いことから、顧問制は廃止されたようですが、無内容な人物の下に無内容な連中が集まって虚勢を張る、最悪の状況だったと私には思えます。
大阪市の橋下元市長の下でも同様の現象があった。小泉、橋下、小池・・・・スタンドプレーだけで無内容な連中にはうんざりです。
  (CAM)



   ♪
(読者の声2)杉田水脈議員が国会にて、国家の発展に寄与すべき文科省の補助金科研費が、日本国に敵対的な外国の団体と親密な研究者の日本国を貶める研究に提供されているのは、おかしいのではないか!と問い質しているところを拍手喝さいしながら動画で見ました。
 ところがSNSなどによると、これに対してどうやら批判された側がいろいろ反論しているようです。
その主な論点は政治は学問の自由に介入すべきでない、これは改憲勢力による護憲勢力の力を削ごうとする陰謀である、人類の幸福という正義のために、悪の国家を騙して利用するのは、当然であり正当な行為であるなどがあります。
 反論の反論に移る前に、この質問に対する文科大臣の答弁が、法令等に規定された手続に従って行っているというもので、一体どこの国の大臣なのか分からない、
国家第一主義ならぬ省益第一主義の煮え切らぬ答弁に終始したことには、大いに失望させられました。
杉田議員は遠慮して、それ以上は追及しませんでしたが、これは日本国が日本国を貶める活動に資金援助していることですから、海外の慰安婦問題に対する外務省のサボタージュよりもずっと質の悪い問題だと思います。

 さて話を本題に戻して、まずは杉田議員の国会での質問が、学問の自由に対する政治の介入になるのか?という問題ですが、もし国家がその研究を禁止したのであれば、学問の自由を持ち出して反論することは、一定の合理性・正当性を有します。
ところが科研費の問題は、国家が国家の発展のために学問をどう使うかという、政治の問題です。国家が学問をどう使うかは国家の自由であって、学問の自由の問題ではありません。

 ですからその使い方が国家のためにはなっていないのではないか、という杉田議員の質問は極めて妥当で正当な政治活動ですので、学問の自由を振りかざしてとやかく言われる筋合いはありません。
それをことさらにスジ違いの学問の自由を持ち出して、正当な政治活動を押さえつけようとすることの方が、スジの通らない歪んだ政治活動であり、むしろ「学問の自由」を冒涜する行為であると言えます。
 つまり「学問の自由」を持ち出して、杉田議員の国家の金の使い道を正そうとする活動を妨害して、自らの科研費受給を守ろうとすること自体が、政治活動そのものであって、<学問の自由>の主体的精神に反するものだということです。
そしてそういう行為が一体何を意味するかと云いますと、その反論者の研究と称するものが学問といえる代物では到底なく、杉田議員がいみじくも指摘しているように、日本国を貶めるための、政治的(反日的)プロバガンダの材料を見つけ出すための歪んだ研究でしかないということです。
 他の反論は検討する価値のない低次元のものですから、ここではそもそも<学問の自由>とはどういうものであるかという根源的な問題について検討してみたいと思います。
 というのは私は常々、日本の再生は学問をもってする、学問立国を目指すべきである、と説いてきたからです。
 正直言って、現在、「学問の自由」は死語になってしまっていると思います。
 それは嘗て「学問の府」と称された大学の現実が、そのことを如実に物語っていると思います。文科省や教授の顔色を窺って、自由にものを云えない現実が存在するからです。しかし、それは現象的な問題にすぎず、本質的な問題は、現在の大学には、そもそも学問自体が存在しない、という厳しい現実があることです。
 あるのは実用科学技術の研究ばかりだからです。だから学生たちは、青雲の志をもって大学に入っても、指導されるのはデータベースで、誰もやっていない重箱の隅をつつくようなつまらないテーマを、わざわざ検索して調べて設定して、その研究させられるという退屈な日々に嫌気を指して、離れて行く学生が多いという現実があるのです。//