◆中嶋猪久生『石油と日本。苦難と挫折の資源外交史』を読み解く
※要旨
・満州太郎。
・山下太郎は1889年、秋田県に生まれた。
父親は生来の野心家で、幼い山下を秋田に残したまま、一旗挙げようと横浜に飛び出している。
・その父親は相場師として成功し、山下が10歳になったころ引き取っている。
この父親の下、山下は慶応義塾で学び、次いで札幌農学校に入学する。
野心的な経営と海外雄飛の素地はこのころに培われたものだろう。
・札幌農学校卒業後は、従兄とオブラードの開発で財を成し、またいくつかの会社を設立したり潰したりしながら、1923年に満州に渡った。
・満州では当時の米騒動に乗じた米の商いでひと山当てたものの、米相場暴落で失敗。
・ただ、このコメの商いで食い込んだ満鉄を舞台に、総戸数5万に及ぶ住宅建設の仕事をものにして巨万の富を築き、いつしか「満州太郎」のあだ名で呼ばれるようになった。
・とはいえ、この富も日本の敗戦ですべて失い、終戦後はしばらく、鳴りを潜めていた。
・転機が訪れたのは1956年のことである。
虎視眈々とビジネスチャンスを窺っていた山下は、石油こそが次の仕事、石油製品の時代が来ると「日本輸出石油株式会社」を設立した。
・そこには、満州時代に得た人脈が生きていた。
役員は、石坂泰三、藤山愛一郎、桜田武など日本の有力な財界人を迎えた。
・やがて、山下のもとにサウジアラビアの「ある開発」の話があいついでもたらされた。
山下は、ときの首相と外相からサウジアラビアの国王に宛てた紹介状を持参した。
・ときの首相は経済界に通暁した石橋湛山であり山下とは30年来の友人である。
また外相は岸信介でこれもまた満州以来の付き合いのある関係であった。
・山下は野心家であると同時に、元来の「人たらし」の性をもっていた。
これは日本輸出石油株式会社を設立した際の人と金の集まりように見ることもできるが、対峙するよりも、より多くの人の懐に飛び込むことが得意だった。
・また一部では「ホラ吹き太郎」と揶揄されたようにありえない大風呂敷を広げては人を惹きつける才を持っていた。
※コメント
これほど面白い人々が日本の石油にかかわっていたのである。
先人に感謝するとともにそのスピリッツを学びたい。
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