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◆山崎啓明『インテリジェンス1941―日米開戦への道、知られざる国際情報戦』を読み解く



※要旨


・ロンドン郊外にあるイギリス国立公文書館。
二重三重のロックに守られた機密文書室は、特別な許可を得ない限り、中に立ち入ることが厳しく禁じられている。
そこは、かつて七つの海と5つの大陸を制覇した大英帝国が、世界中で収集した、ありとあらゆる「秘密」が詰まった特異な空間である。


・「トップシークレット、ウルトラ」
血のような赤いアルファベットで刻まれたタイトルが、最高機密にランクされた文書の証だった。
ウルトラ文書は、首相や外務大臣、情報機関の長官をはじめ、ごく限られた人物しか閲覧が許されていなかった。
そこには、第二次世界大戦の帰趨を左右しかねない決定的な極秘情報が綴られていたからだ。


・かつて諜報戦争は、「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。
それは、命がけのゲームだった。


・1940年10月、ワシントン中央駅にひとりの日本人が降り立った。
横山一郎海軍大佐、40歳。
仕立てのよい3つ揃いの背広をスマートに着こなし、豊かな黒髪をポマードでなでつけたその姿は、軍人のイメージとはほど遠い。
しかし、この男こそが、日本海軍のアメリカ諜報網を指揮するスパイマスターだった。


・横山は、若き日、アメリカの名門エール大学に留学した経験があった。
流暢な英語を話し、ユーモアを交えたスピーチで場を沸かせるのが得意だった。
物腰はあくまで柔らかく、身のこなしも洗練されていて、社交術にもたけていた。


・社交もまた、スパイマスターにとっては、アメリカ社会に溶け込み、 情報源を築くための手段のひとつだった。
華やかな日々の裏側で、非合法なスパイ活動を指揮し、心を許した相手から極秘情報を奪うことも辞さない。
非情さと冷徹さを必要とするのが、武官の仕事だった。


・最大最強の仮想敵国だったアメリカの内情を探り、対抗戦略を練り上げるため、日本海軍は常に最高の人材を、ワシントンの武官室にあてていた。
そのことは、日米開戦にかかわる海軍首脳部がことごとく、アメリカの駐在武官を経験していることからも明らかである。
嶋田繁太郎、永野修身、山本五十六、野村吉三郎。
いずれもが、ワシントンで情報将校として研鑽を積み、戦略のなんたるかを学んだあと、出世の階段を駆け上がって、日本の行く末を決する地位を得た。


・イントレピットの本名は、サー・ウィリアム・スティーブンソンという。
1897年、カナダで生まれた。
スティーブンソンは、いくつもの顔と肩書をもっていた。
あるときは、機械や通信技術に精通したエンジニア。
あるときはラジオの製造や航空機ビジネスで巨万の富を築いた実業家。
サーの称号をもつ紳士の裏の顔は、チャーチル直属のもっとも有能で、もっとも危険なスパイマスターだった。


・第二次世界大戦の勃発後、チャーチルの命を受け、アメリカに渡ったイントレピットは、ニューヨークに拠点を構え、秘密組織BSCを創設。
多数のスパイを抱えたBSCは、MI5やMI6といった情報機関のアメリカ支局として機能した。


・イントレピットが渡米した1940年当時、諜報大国イギリスの情報活動は、危機に瀕していた。
ヨーロッパの拠点は、ナチスドイツの攻勢によって、壊滅状態に陥っていた。
イントレピットは、ひとりの男に白羽の矢を立てる。
「ワイルド・ビル」こと、ウィリアム・ドノバン。
のちに、CIAの母体となる情報機関の生みの親となる男である。
ドノバンは、あだ名の通り、獰猛な野獣のような男だった。


・ドノバンには、強力なコネと諜報指揮官としての経験もあった。
コロンビア大学のロースクールで、ルーズベルトと同級生だったのである。
大統領となったルーズベルトは、ドノバンをスパイマスターに抜擢し、内戦の渦中にあったスペインへと派遣した。


・イントレピットはロビイストとしても非凡な才能を発揮した。
米陸海軍からホワイトハウスまで、英米の諜報機関の連携がいかに重要で、ドノバンをおいてその職責を果たす人材がいないということを訴えてまわった。


・1940年6月、ルーズベルトは、ドノバンを情報調整官に任命する。
以後、その権力は拡大の一途をたどり、1942年には、スパイ工作やプロパガンダを一手に引き受ける戦略事務局(OSS)を創設。
のちのCIAにつながる。


・ヒトラーが総統大本営「狼の巣」を建設し、ソ連攻撃の準備を着々と進めていたころ。
ドイツの動きをいちはやく察知したスパイが日本にいた。
暗号名「ラムゼイ」。
本名リヒャルト・ゾルゲ。
東京を基点として強大な情報網を築き上げ、日本史上最大のスパイ事件「ゾルゲ事件」を起こしたソ連の秘密諜報工作員である。


・ゾルゲは南コーカサス(現在のアゼルバイジャン)で、ドイツ人石油技師の父とロシア人の母の間に生まれた。
ベルリン大学やハンブルク大学で学んだ後、国際共産主義の理想に共鳴し、コミンテルン本部の諜報機関を経て、ソ連軍参謀本部の諜報総局に移籍した。


・ファシズムと戦うため、ゾルゲが武器としたのは、情報だった。
その情報収集力は、比類ないものだった。
高性能の無線機を使って、ソ連に送られた暗号電報の数は、800通以上にのぼる。
そこには、日本の最高機密であるはずの御前会議の情報までが含まれる。
しかも、ただ情報を集めるだけではない。


・機密情報というのは、本来、断片的なものである。
ピースが常に足りないパズルのようなものだ。
だからこそ、的確な分析と深い洞察があって、初めて武器となる。


・ドイツの高級紙「フランクフルター・ツァイトゥンク」の特派員だったゾルゲは、一流の日本研究者でもあった。
家には、1000冊を超える日本関連書籍があったという。
そこには、「古事記」や「源氏物語」などの古典文学まで含まれていた。
ゾルゲ諜報団がキャッチした情報は、日本の政治経済の仕組みから、日本の思考様式までを研究し尽くしたゾルゲによって吟味され、欠損部分が補われ、日本が今後とるであろう政策を的確にあぶりだすことになった。


・チャーチルは、葉巻の煙をくゆらせながら、地図に目をやり、世界情勢について思考を巡らせ、国民を鼓舞する演説の原稿を執筆するのを日課としていた。
チャーチルは、後にノーベル文学賞を受賞するほどの文才の持ち主であり、演説の名手だった。


・絶体絶命の窮地に追い詰められていたチャーチルが、起死回生をかけたのが「秘密情報」だった。
地下の閣議室でチャーチルが座っていた席の前には、赤い箱が置かれていた。
鍵のかかった箱の中には、外務省直属の暗号解読機関ブレッチリー・パークから届けられた最重要の機密文書が収められていた。
この箱こそが、大英帝国にとっての最後の希望だった。


・1941年6月4日、チャーチルの赤い箱に、決定的な情報が投げ込まれた。
それはドイツに駐在していた日本の大島大使が外務省に送った極秘の暗号電報の解読記録だった。
大島は、ドイツのリッベントロップ外相から、「独ソ戦がもはや避けられない状況にある」ことを直々に聞き出したというのだ。
わずか数語に過ぎない解読文。
しかし、世界情勢を一変させる価値を秘めた情報だった。


・チャーチルの対応は、迅速だった。
ブレッチリー・パークから情報が寄せられた後、ホワイトホールで、「合同情報委員会(JIC)」の秘密会議が開かれた。
そこに集まったのは、海外での秘密工作を担当するMI6、敵のスパイ摘発を任務とするMI5など、大英帝国のインテリジェンスの根幹をつかさどる組織の最高幹部たち。
そして、内閣府や、外務省や内務省などの責任者たちである。


・情報は、ただ集めるだけでは意味がない。
重要なのは、時に相反する雑多な情報から真の情報を選り分けること。
断片的な情報のピースを組み合わせ、空白部分を推理し、隠された敵の戦略を読み取ること。
分析があって初めて、情報は意味と価値をもつ。
そうした機能をうけもつ合同情報委員会は、諜報大国イギリスの心臓部であるとともに、インテリジェンス戦争において圧倒的な優位をもたらす源泉だった。



※コメント
この本のテーマは魅力的なテーマであると同時に、執筆者の表現力も唸らせる。
チャットした歴史的な出来事を洗練された文章で魅力を高めている。
やはり書く人によって、歴史は面白くもなり、また逆もしかりだ。
テレビのドキュメンタリーをつくる人は、短い時間でよい言葉を選び出すの上手だ。



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