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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)5月7日(月曜日)
         通巻第5693号
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 フェイクメディアは意図的に伝えなかったが
   トランプ大統領支持率は51%(共和党員の支持は81%)
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 米国世論調査期間ラスムッセンによれば、トランプ大統領の支持率は51%(5月4日)であることが分かった。
共和党員は81%が大統領を支持しており、真逆に、野党の民主党員では75%が不支持だった。ただし支持政党のない有権者では、トランプ支持は47%であることも判明した。

 日本でも朝日新聞の世論調査は小細工がなされていたように米国のフェイクメディアは、情報操作や誘導質問で作為的な世論調査結果しか伝えてこなかった。
トランプの支持率が過半を超えたことは初めて。中間選挙に楽勝する気配が濃厚だが、左翼メディアはまだ「弾劾があり得る」などと騒いでいる。

上院で過半数を奪い返さない限り、民主党主導のトランプ弾劾は可能性が殆どない、とワシントンの情報通が分析しているようである。
 欧米、とりわけ米国の共和党系のネットメディアは「日本の安倍首相の三選は確実」と分析している。
▽◎◎み□△◎や◇◎□ざ▽◎○き○□▽
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1727回】              
 ――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(28)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

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これまで見たところでは、どうやら内藤は「変法自強」という改革論を余り評価しない、いや直截にいうなら大層お嫌いのようだ。中国が抱える歴史的・民族的・社会的背景を深刻に省みて克服する努力もしないままで、先進諸国で行われている制度をそのまま持ち込んでも中国の富強が達成されるわけがない。「変法自強」は安直に過ぎ、「支那のため」にはならない。「何でも外国人を排斥さえすれば、国家の独立が維持されるもののように妄想しておる新しい書生輩」なんぞは思慮分別に欠ける。短慮に過ぎる、というのだろう。

たしかに中国の動きを見ていると、短慮の謗りを免れそうにない出来事に出くわすことは必ずしも珍しくはない。

 おそらく最も顕著な例が1958年に毛沢東が打ち上げた大躍進だろう。「超英?美(イギリスを追い越し、アメリカに追い着く)」という看板さえ掲げ国を挙げて立ち上がりさえすれば、経済的にも大躍進が達成され、社会主義の大義を忘れ不届き千万にも「平和共存」を掲げて米ソ協調路線を突っ走るフルシチョフ・ソ連首相に赤っ恥を書かせ、自らが世界の共産主義運動の指導者になれると目論んでいた毛沢東だったが、それが「妄想」でしかなかったことは事実が教えている。中国人に地獄の日々を送らせただけではなく、中国社会の民力を大いに殺いだのであった。

「魂の革命」を掲げさえすれば、全国民が私心を捨てて社会主義の大義に殉じ、やがてはアメリカ帝国主義を凌駕し、ソ連社会帝国主義を圧倒する社会主義大国が地上に実現するという触れ込みで始まった文化大革命にしても、1976年に毛沢東が死んで文化大革命の看板を外して見たら、なんと「大後退の10年」と総括されてオシマイ。

 1978年末に踏み切った?小平の改革・開放にしても、当初は日本のみならず西側から最新機器と技術を持ち込みさえすれば、巨大な貧乏国家から一気に脱却できると喧伝していたように記憶する。

 大躍進にしても文革にしても、改革・開放にしても、内藤が揶揄気味に批判する清末の「変法自強」にしても、実態なきスローガン政治の類に思える。調査研究なくして発言権なしとの毛沢東の“卓見”に従うなら、毛沢東も?小平も、清末まで遡れば「変法自強」を主張した人々も、さらには「『変法自強』などという意味の新教育を以て養成されたところの南方人」も、やはり自らの発言内容に自己撞着することはあっても、事前に行うべき徹底した調査研究には関心を払わなかったということか。

 それはさておき、「日露戦争以後に、かように大勢上外国の勢力に服従しなければならぬものと覚悟をした人物を以て満洲を支配させずに、日清戦争の経験も、日露戦争の経験もないところの支那の南方人、殊に近来『変法自強』などという意味の新教育を以て養成されたところの南方人を多く満洲の官吏として移入して来た」という指摘は、その後の日中関係を考えるうえで簡単には見過ごすことが出来そうにない発言だ。これに加えるならば、「満洲の官吏として移入して来た」彼らが「何でも外国人を排斥さえすれば、国家の独立が維持されるもののように妄想しておる新しい書生輩」であり、それゆえに「日本に対する感情、政策が、非常に日本に不利であった」という主張である。

 日露戦争以前、実質的に満洲を自らの地としていた河北・山東出身者を中核する漢人は満洲の将来はロシアとの提携にありと考えていた。だが日露戦争で日本が勝利したことから方針は転換され、やはり日本の「勢力に服従しなければならぬものと覚悟をした」にもかかわらず、日本は「南方人を多く満洲の官吏として移入して来た」。彼らも日本も共に満洲の実情、在満漢人の心情を理解していなかった――これが内藤の考えだろう。
《QED》
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)5月12日(土曜日)、東京での宮崎正弘先生の独演会のお知らせです。
目まぐるしく変化する東アジア情勢、とりわけ朝鮮半島の動きが急です。いったい本当のところは何が基礎にあり、何が地下水流で動き、何が変わろうとしているのか?
北朝鮮は本気で非核化を考えているのか?
トランプの狙いはほかにあるのではないのか?
習近平が一番慌てたのではないのか?

とき    5月12日(土曜) 午後二時半――四時半
ところ   文京シビック 四階シルバーセンターホール
      http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
講師    宮崎正弘先生(作家、評論家)
演題    「中朝会談、南北会談、そして米朝会談でどうなるアジアと日本」
参加費   事前申し込み1500円(当日2000円)。事前申し込みの学生=千円、高校生以下は無料
主催    千田会
      なお、終了後、近くの居酒屋で懇親会あります(事前申し込み3500円)
申し込みは morale_meeting@yahoo.co.jp
      FAX(0866)92-3551
詳しくは下記サイトにあります。
http://www.kokuchpro.com/event/2ce5866624131c8a82c804e4bfcb5f3c/



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(読者の声2)私はこれまで何度かこの場をお借りして、日本の再生は学問をもってすべきであること、その学問を学問として完成させるためには、真の学問の冠石となりうるヘーゲル哲学の復権が、何よりも必須であることを訴えてきました。
その一連の流れとして、今回は、過ぎてしまいましたが憲法記念日があり、憲法改正も取りざたされていますので、憲法について、ヘーゲルの「法の哲学」から考えてみたいと思います。
 ウィキペディアによれば、現在の世の大方の憲法の解釈は「歴史的経緯などから、多くの国では、憲法は『国民が国家に守らせる法』であり、法律は『国家が国民に守らせる法』であると捉えられている。」なのだそうです。それで、野党やマスコミは口々に、憲法は国家権力を縛るものだ!などと、得々と吹聴しております。しかしながら、この解釈は、学問的に見ますと、歴史的事実に囚われた現象論でしかなく、国家とは何か、憲法とは何かの本質論を踏まえない、学問的価値のない駄論にすぎません。

 この考え方は、いわゆる自由と民主主義という共通の価値観をもつとよく言われる、国民主権の国民国家における憲法論のようですが、そのベースには、ルソーなどの「社会契約説」が存在します。
しかしながら学問的には、この説はヘーゲルの「法の哲学」の中で、「国家と市民社会とを混同している」「国家は国民の下僕ではない」と、はっきりと否定されているしろものでしかありません。ところが、このヘーゲルの学問的な国家論である「法の哲学」が、マルクスによって「敵対的な対立を国家という媒介物によって和らげ胡麻化そうとしている」と批判され、否定され、封殺されてしまったことによって、せっかくのこのヘーゲルの学問的な国家論が、人類の学問的な国家形成に役立つ道が閉ざされてしまったのです。

 先の社会契約説も、マルクス主義の階級闘争史観も、ともに国家を、国民の自由を束縛・抑圧する悪、とみる見方がベースにあります。つまり、国家と国民を敵対的対立として見る、見方だということです。それは、何故かと云いますと、それらが、ユダヤ人思想家によって創られたものだからです。もともとユダヤ人には国家意識がなく、彼らにとって、国家は敵対的に抑圧する存在でしかなかったからです。だから、国家を縛って自分たちの自由を守るのが正義となって、その根拠として、自然権・人権をもちだし、抑圧されている牢働者が人間解放の真の担い手だから、何をやっても許される、となるのです。その結果が「憲法は『国民が国家に守らせる法』」というとんでも屁理屈になるのです。そして、これが、国家破壊の金融資本主義グローバリズムや、共産主義グローバリズムへと、発展していくことになったのです。つまり、両者は同根だったということです。そして、両者に共通しているのは、対自的な国家の否定によって、即自的欲求を肥大化させた自己中心的人間の増産と、人間性の劣化、格差の増大をもたらしたのです。

 彼らにとって、ヘーゲルの本物の学問は、目障りな封じ込めるべき存在だったわけです。そのヘーゲルの国家論においては、動物の後を受けた人類段階の発展の主役は、国民ではなく国家なのです。もちろん、国家は国民と一体であって、別々に切り離すべきものではありません。あくまでも国民はその国家の一構成員であって、それとかわりなく個々の国民に自然権など存在するわけではありません。
これは、たとえて言えば私の主役は、私であって、私の体の中の細胞ではなく、細胞に自然権など存在しない、ということと同じことです。これを、主役は細胞(国民)だとしてしまうと、自分がご主人様だと勘違いした癌細胞が、傍若無人に自己を主張した結果として、本体の私(国家)が死んで、癌細胞自身も生きていく場を失う、ということになりかねません。じつは、金融グローバリズムが行き詰った理由が、これなのです。そして、このことに人類が気づいた、というのがナショナリズムが勃興の理由なのですが、これまでのような非学問的国家論のままでは、早晩行き詰まるのは目に見えています。

 余談ですが国家でなく国民が主役だとしたら、何のための教育なのかも分からなくなります。//