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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)5月5日(土曜日)
通巻第5691号
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<特報>
自由社教科書のデジタル版は、現在NPO法人「次世代の教科書を考える会」で無料でダウンロード閲覧できます。
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1725回】
――支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(26)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
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内藤は「金人で成吉思汗の参謀になった耶律楚材」の献言によって「漢人というものも蒙古人のために役に立つものであるということ」が証明されたからこそ、「支那の土地を牧場にするということも成り立たなかった」とする。これを言い換えるなら、漢人に牧畜を強要することなく農耕に生きることを許したということになる。ここで考える。かりに「漢人というものも蒙古人のために役に立つもので」ないと証明されていたら、「支那の土地を牧場に」されていたといえるのだろうか。
その後の歴史を概観すると、漢人は膨大な人口を養うために蒙古人の土地へ流れ込むようなった。農耕を至上の文明と見做す漢人の目には、果てしなく広がる蒙古の草原は壮大なムダに映ったはずだ。彼らは草原の緑を引き剥がし、そこに壮大な畑地を作り出した。だが、そのことによって蒙古人は自らの文化(《生き方》《生きる姿》《生きる形》)を奪われてしまった。漢人の農耕文化が蒙古人の牧畜文化を侵食する。
かくして楊海英は「牧畜と遊牧を環境破壊の元凶だと認定」する漢人が内モンゴルのオルドス高原に続々と送り込まれた結果、経済基盤である牧畜を奪われた「モンゴル人に残された唯一の道は文化的な安楽死のみ」と慨嘆する楊海英は、「現在、開発と発展という圧倒的な政治力と経済力で最後の完成、すなわちあらゆる民族の中華化=文化的ジェノサイドの完成にむけて中国は突進している」と糾弾の声を挙げる。(『墓標なき草原(上下)』2009年)、『続 墓標なき草原』2011年。共に岩波書店)
ここで内藤に還る。
元朝に続く異民族王朝である清朝は、「支那の文明を標準として、そこまで満洲人の文化の度を達しさせたいという考えが本になって」いた。飽くまでも「支那の文明が本位になって」いたというころは、じつは「蒙古人のごとく種々なる民族を皆自分の手で支配して、各その特色を持たせながら、世界を統一して行こうというような、雄大な規模が無かったといってよい」そうだ。たしかに清朝盛時の版図は巨大だが、せいぜいが西は新疆、北は極東シベリアの南東部、南西はチベットで、南は雲南・広西で止まっている。やはりユーラシア大陸を席捲しただけではなく、失敗したとはいえ日本やジャワまで攻め寄せた元朝に較べれば「雄大な規模が無かったといってよい」だろう。
内藤によれば、「東洋において異種族間の感情を基礎にして、大なる領土を統轄した思想というものは」、元と清に対照的に見られるように、「ある文明国を基礎として、そうして他のものをそれに同化させようという考えの下に起ったのと」、「各種族の文明を独立させて、そうしてそれを同化させようという考えから起ったのと」の「二つに分けてみることが出来る」のだが、辛亥革命によって生まれた中華民国の根本は――孫文ら革命派にせよ袁世凱にせよ「とにかく漢人本位で成り立った」のである。それというのも19世紀末から革命活動の根本は「満洲人に対して反抗するというのが一つの主張であった」からだ。中華民国とは、「つまるところ漢人を中心として、それに外の民族が附属して、統轄されていくべきものであるというものであるというような理想になっておるに過ぎない」のだ。
漢人、満洲人、蒙古人、「土耳其民族すなわち回々教人」、西蔵人で構成される「五族共和という説を立てるけれども」、「今度新しく興った国の政治というものを、異種族と一致してやって行こうという考えはないのである。やはり「古い蒙古人などのように」「雄大な規模を持った人は、とうてい今日の中華民国の主たる人物間にはないことが明らかである」。「そうしてみると、どうしても漢人中心というやり方」に帰着することになる。
かくして「五族共和」という理想は、絵にかいたモチに終わる運命にあった。
▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎
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西部邁 vs 宮崎正弘
『アクティブ・ニヒリズムを超えて』(文藝社文庫)
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6月5日発売決定!
詳しくは後日、この欄に告示します。予約募集も近日中に開始します。
八年前の『日米安保五十年』を解題した文庫版ですが時間的空間を超えて、内容は色あせておりません。ご期待下さい!
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ♪
(読者の声1)「中国が再生産する南京大虐殺」の講演会があります。濡れ衣を着せられた松井石根大将、いまその真実が明らかになる。産経新聞「歴史戦」の記者が明快に解説を加えます。
南京大虐殺なるものを朝日新聞がでっち上げて、日本の教科書にまで掲載されるという大失態、その悪影響は計り知れず、背後にある陰謀とは?
記
とき 6月22日(金) 午後六時半
ところ 文京シビックセンター 三回会議室
講師 原川貴郎(産経新聞記者)
演題 「中国が再生産する南京大虐殺」
参加費 1000円(学生500円)
主催 南京戦の真実を追究する会(会長 阿羅健一)
問い合わせ howitzer@waltz.ocnne.jp
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(読者の声2)過日の貴誌に奥山篤信氏のキリスト教批判の書評がありました。関連ですが、下記のような情報がネットで流れておりますのでご参考までに。
(引用開始)
「当時キリスト教は教義で奴隷を公認しており、イエズス会は商船の奴隷貿易に関する 許認可権をもっていた。コエリョ自身が日本人奴隷売買契約書に署名した記録もある @株式日記と経済展望 2018年4月27日 金曜日
◆イエズス会は日本で何をしてきたか 4月24日 北村浩司
○日本人の奴隷貿易
1587年九州平定過程にあった秀吉は、 イエズス会の日本のトップである、ガスパル・コエリョに、イエズス会の日本での行為について詰問している。
「予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。」(ルイス・フロイス「日本史4」)
当時キリスト教は教義で奴隷を公認しており、イエズス会は商船の奴隷貿易に関する許認可権をもっていた。コエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した記録もある。日本人奴隷貿易は15世紀後半には16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまで及んでいた。
『東洋ポルトガル古記録』には「ゴアにはポルトガル人の数より日本奴隷の数の方がより多い」「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」と記されている。ローマに派遣された少年使節団も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれているのを目撃して驚愕している。
彼らは大村、小西らキリシタン大名らにより捕虜とされたもの達や仲介商人によるものである。奴隷売買と引き換えに当時日本では希少価値であった硝石と交換され、硝石一樽と日本人女性50人が交換されたという記録もある。当時の日本人の奴隷売買は人口1200万に対し2万人から4万人余と推定される。
○寺社の破壊と僧侶の殺害
秀吉は同じくイエズス会のコエリョに「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」と詰問する。
秀吉は農村秩序の核になっている寺社の破棄を、かなり重く見ていた。
実際特に九州では寺社破壊は凄まじく、例えば大村領では神社仏閣が破壊され、その結果6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。寺社破壊はキリシタン大名の統治する地域で日本各地に及んだ。キリシタン大名であった高山右近は大阪の高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった大寺社を焼き討ちにより破壊したといわれている。イエズス会のコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。
○島原の乱の真相
キリシタンの悲劇として描かれている最大のものが1637年の『島原の乱』である。教科書からは島原・天草地方のキリシタン弾圧が酷く、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったと読める。しかし事実はかなり異なっている。
当時の反乱勢は3万7千人、篭城戦時では幕府軍は12万以上で圧倒的な差がありながら制圧に半年を費やしている。しかも緒戦においては板倉重昌率いる幕府軍4万人は惨敗。一揆勢の死傷者が僅かに7名なのに対し、幕府軍の死傷者は4千名にのぼった。しかも板倉は討ち死にしている。
これは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか。
まず、一揆勢の中心が百姓ではなく、キリシタン大名だった有馬や小西の残党だったことである。有馬と小西は関が原の合戦において西軍側につき、他国に移封される。『天草征伐記』と『徳川実記』等の記述にも、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、それに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したとある。
しかもただの「農民」とは思えない行動が目立つ。一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。有馬村では村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンに戻ると宣言し、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町でも江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)また彼らは、代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した//



