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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)5月4日(金曜日)
         通巻第5690号
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(本号はニュース解説がありません)
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 どんな台湾通も、この探検探訪記には叶わないだろう
  台湾の秘境にはユニークな伝統、祀り、珍しい食文化が残っている

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片倉真理著、片倉佳文撮影『台湾探見 ちょっぴりディープな台湾体験』(ウェッジ)
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 台湾在住のおしどり夫婦が台湾のあちこちへ探検旅行。それも秘境、少数民族の村々。
これまでも日本の出版界で台湾旅行記は山のようにあるが、著者夫妻は台湾に住み、台湾のこまかなイベントや僻地の行事にも参加し、台湾のメディアが取り上げるくらい在台湾外国人でも有名な食通でもあり、いうならば「台湾情報百貨店」というユニークな存在である。
 評者(宮崎)も、台湾は行くたびに夫妻には御世話になるのだが、たぶん日本語の勉強会「友愛グループ」の席上でお目にかかったのが最初だった。ガイドブックにはまったく紹介のない、台湾の特色がいっぱいのレストランに連れて行ってもらうこと数回。こんどの本は片倉真理さんが秘境に出かけて古老にインタビューしたり、少数民族のお祭りや、日本時代の遺構、変わった建物、郷土料理に、誰も行かない秘島などのアドベンチャーの趣きに溢れる。
そのこまやかな文章の行間を、片倉佳文氏の写真がカバーする。ちなみに百枚を超えるかと思われる多彩な写真も鋭角的なアングルで撮影された逸品が目立つ。

 さて通読して評者がもっとも興味をそそられたのは西郷菊次郎のことだった。
拙著『西郷隆盛 日本人はなぜこの英雄が好きなのか』(海竜社)でも書いたが、西南戦争で負傷した西郷隆盛の長男は、のちに欧米へ留学し、京都市長として業績を残した人物として知られる。
その菊次郎は台湾に赴任した時代があり、宜蘭に駐在した。この地にはいまも西郷さんの落としだね伝説が残り、菊次郎が、その人物を訪ねた記録もある。こんにちの医学の発展でDNA鑑定ができるが、当時、そういう技術はなく、西郷落胤説は謎のママである。そのことは拙著にも書いた。
 さて西郷菊次郎の真実を片倉夫妻は現地で発見した。
 「鬱蒼とした緑の中に木造家屋が見えてくる。ここは日本統治時代に宜蘭庁長の官舎だった建物だ。(中略)建てられたのは明治39年、西郷隆盛の息子である菊次郎が宜蘭庁長をしていた時代だ。
 その菊次郎は宜蘭時代に洪水で苦しむ農民のために堤防を築堤した。「この治水工事により、宜蘭は安定した発展を遂げる」
 豊饒な農作物を作れるようになったのだ。
 そこで土地の人々が菊次郎の治政をたたえ「西郷庁憲徳政碑」を建立した。その石碑がそのままのかたちで土中に残っていたのだ。戦後、国民党がやってきたため、この石碑は地中に埋まっていたのを偶然見つけたのである。
 「この碑門は長い歳月を経て風化しており、判読は難しい。しかも漢文で書かれているので、現代人にはわかりにくい。これを解読したのが、宜蘭県史館でボランティア研究員をしている李英茂さんだ」
 李さんにインタビューした著者は、この地に日本軍の飛行場が三つあり、特攻隊も飛び立った場所だったこと、いまも掩体壕(えんたいごう=戦闘機の格納庫)が残っているという。
 ともかく台湾通を自負する人々でも、この探検探訪記には叶わないだろう。台湾の秘境にはユニークな伝統、祀り、珍しい食文化が残っていることを再発見する愉しい旅の連続である。

◎◎◎み□△◎や◇◎□ざ▽◎○き○□▽
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1723回】  
――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(24)
  内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

     ▽
「支那の君主独裁というものの弊害は右のごとき変遷を経て来たのであるから、将来においても君主独裁の政治が再興するということになると、また同様の弊害に陥らなければならぬのである」とする内藤は、辛亥革命以後の状況を「一時また独裁政治に傾かんとしておる様子」と捉え、「一時これがまた独裁政治に復ることがあっても、結局それは永続すべきものではないと思う」と結論づけた。

 ここに見る内藤の議論は、なにやら現代中国の変遷の姿を奇妙にも言い当てているようにも思える。

 毛沢東は建国と同時に国を閉じた。だから「支那が海外に交通をせず、一国だけで幸いに明君賢相があって、失敗もなくしておる時には、君主の地位を保つ方法として、極めて安全なもの」との内藤の主張の通りに、毛沢東の「君主の地位」は「極めて安全なもの」であった。もっとも、「明君賢相があっ」たかどうかは別ではあるが。

 だが毛沢東が「マルクスに見える時」が近づくに従って、「独裁専制という政治上の組織」が「弊害を持ち来した」のである。そこで習近平一強体制を独裁専制と考えるなら、いずれ「政治上の組織」が「弊害を持ち来」すことになるようだ。

 閑話休題。
内藤は中世において貴族政治が滅亡した結果、「君主の権力が増加する」が、その一方で「人民の力というものが認められて来ておるということを忘れてはならない」とする。そこで「人民に直接に関係しておる階級の勢力というものが認められるようになって来た」。かくして「いよいよ権力が、人民に直接しておるところの吏胥に移ることにな」る。

人民に直接しているということは直接的に人民に接し、彼らを管理することになるから、人民と接触しない「上官は単に盲判を押すというような」る。つまり末端役所に雇われた程度の「胥吏が人民と官吏との間に蟠まっておって私腹を肥やすということは、弊政には相違ないが、つまるところ人民に近い者が勢力に加わって、上級の者に実際の勢力が無くなっておる」ことになる。かくして「人民の命脈を握っておる者は、直接に人民に接しておるところの、資格の無い低い胥吏であるということに」なるわけだ。

 つまり「人民が勢力を得る」とはいうら、それはリクツの上からであって、「地方で勢力を占めておる者は、やはり平民ではなくして」、科挙を送り出す「郷紳」と呼ばれる地主階層である。しかし貴族政治からの変遷を考えると、「結局は人民が政治上の要素になるということに変るべき傾きをもっておる」わけだ。
  かくして「貴族政治の復旧は難」く、やはり共和政治に向うことになる。

「一方には人民の力が、漸々伸びる傾きになって来ておる。そこへ共和政治の思想が入」ってきた。やはり「貴族というものの復興がとうてい出来ないという以上は、結局共和政治のようなものに変るより他の途があるまい」。

 とどのつまり「支那のごときは、当分軍事上で国威を輝かす見込みも無し、またその人民には、国自慢の考えが非常にあると云いながら、また極めて平和を好む国民であって、国力発展に対する激しい野心が無い以上、それからまたあるいは軍事上で国威を輝かすことを、昔からして一種の政治上の戒めとして、これを忌むような傾きのある国民」であるとする内藤は、「袁世凱にしても、その他の現存人物にしても、また軍事上の天才があって、大いに国を輝かし、積弱を回復すべき見込みがないところから、結局は共和政治で落ち着くということは、大勢状上あらかじめ判断することができると思う」と結論づけた。
 貴族政治から独裁専制を経て共和政治へ。これが「絶大な惰力」の方向なのか。
《QED》
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【知道中国 1724回】  
            
――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(25)
          内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

         ▽
内藤は「内外の形勢から攷究した結果」、貴族政治から君主独裁を経て共和政治に向うのが中国の「自然に落ち着くべき前途」ということになるのだろうが、奇しくも共和の2文字を冠した中華人民共和国が建国してから現在までの70年余を振り返った時、共和政治というよりも個人独裁にUターンしているのではなかろうか。別に内藤の読みが浅かったとか、内藤が間違ったとかいうつもりはない。

 どうやら内藤は判ったつもりで「支那のごとく絶大な惰力によって潜運黙移しておる国情、人為による矯正の効力を超越しておる国情」と記していた「国情」だが、じつは判ってはいなかったのではないか。内藤の理解を超えた「国情」が、共和政治から君主独裁へとUターンをなさしめる大きな力の源泉となっていたのではなかろうか。では、その「国情」の正体とはなにか。あるいは内藤の目には紆余曲折に富む長い歴史一齣一齣が手に取るように見えていたが、それぞれが国境やら国籍のワクを越えて得て勝手に動き回る14億という膨大な人口という極く当たり前の“常識”が欠落していたのではなかろうか。やはり圧倒的人口という「国情」を見据えない限り、この国の持つ「絶大な惰力」を見定めることは至難だろう。

 『支那論』は以上で「一 君主制か共和制か」を終え、「二 領土問題」に移る。
辛亥革命を経て共和政治に移るや起った五族共和と領土の問題を「歴史上から考えると、二様に看ることが出来る。一つはすなわち異種族間の感情問題である。また一つは異種族が生活しておるところの広漠たる領土を支配する、政治上、殊に財政上、兵力上の問題である」と考える内藤だが、一方で「支那の領土は、従来においても支那の国力に対して、あるいは過ぎておるくらい厖大である」との見解にたっていることを、予め押さえておく必要があるだろう。

 先ず「異種族間の感情問題」を考えた内藤は、「支那で著しく領土の発展した時代」である秦・漢の時代から説き起こし、「前漢の宣帝以後」に「匈奴は漢に対して害を致さなくなって、異種族間の問題が一時落着した」要因を、「漢が領土として異種族を支配し、異種族の土地を所有するのではなくして、異種族の独立はそのままに保存されて、ただその間の衝突を避けたに過ぎないから」からだ、とする。続く唐代には「異種族懐柔」が行われた。

 これに対し「異種族から入って支那智を統一した」金の場合、「異種族が漢人の風俗習慣にかぶれると、そのために弱くなってしまう、成るべく漢人の風俗習慣にかぶれないようにするのが、自分の民族の本質を維持し、その強さを保ってゆく所以だと考え」て、「金一代は比較的漢人と融和しない政策において一貫してお」った。

 その次の元では、「とにかく蒙古人の思想は、やはり蒙古人の国粋を維持して行くという考えが強かった」から、「支那の土地を取っても、漢人は国に益がない、厄介なものである、漢人は穀物などを作ったり何かして、土地を荒らしてうるさいものである、こんなものは皆打ち殺してしまって、その土//