岡田温司『天使とは何か キューピッド、キリスト、悪魔』(中公新書、2016年)を読みました。
人間は基本的に見たいものを見てきました。そんな当たり前のことを改めて再認識させてくれる本です。
ヨーロッパ人がキリスト教を信じるようになる前には、「異教」を信じていました。それは多神教の世界で、人間が思いつく様々な概念には各々専門の神様がいる。恋の神もいれば死の神もいる。しかも、人々が思いつくことは無数ですから神様も無数。しかし、キリスト教が広まるにつれ、一神教であるキリスト教の枠の中に、在来の神々をなんとかはめ込もうという努力もされました。
少し考えればわかることですが、一神教なのになんでこう人間でも動物でもない存在がいろいろいるのか。しかも、キリスト教では、天使は神と人間の中間にいて、神の意図を人間に伝えてくることになっているのですが、堕落して悪者になる天使もいる。それが悪魔。天使も悪魔も結局神が作ったということにしないと論理が破綻するのですが、では悪を働く天使をなんで神が作ったのか。一神教が最初から直面する難題がこれです。
しかも、初期のキリスト教では、「イエス・キリスト」というのも天使の一種とみなされていました。理屈としては、神がその意志を人間に伝えるために「遣い」を派遣する。イエス自身もその趣旨のことを言っていたわけで、だったら天使じゃないかということになる。むしろ大勢いる天使の代表が「イエス・キリスト」だという考えがかなり後まで尾を引いていたそうです。
キリスト教という枠の中で、人々が現実といろいろな形で折り合いを付けます。「イエス・キリスト」のような「遣い」がやってくる一方で、悪もある。悪があるのはきっと悪魔のせいだというわけで、人間を取り巻く様々な神秘も無数の天使の仕業。しかも、ヨーロッパには多神教を信じていた古代の遺産が山のように残っています。この本は、そんな様子を美術や文学の世界を観察しながら見ていきます。
中世以来、教会も画家も天使が大好きで、キリスト教の教会は天使だらけ。しかも古代の図像をそのまま借りてしまうことが多いので、「エロス」や「キューピッド」といった神話由来の神々と、キリスト教の天使の区別がほとんど不可能になってしまいます。
もちろん、歴代の知恵者がいろいろ説明を考えるのですが、どう考えても「天使」というのは異教の影を引きずっている。そして、宗教改革を経て近代になり、次第にキリスト教の影響力が衰えていくと、天使がいままでとは違った活躍をするようになってきます。
「「神は死んだ」、19世紀の末にかの哲学者ニーチェが発した名高い言葉である。だが、天使は死なない、近代になっても。それどころか、宗教という枠組みを超えて、芸術や文学のなかで天使は生きつづける。それはあたかも、神がいなくなって、神に奉仕する必要がなくなったことで、いっそう自由に翼を羽ばたかせているかのごとくである。
なぜだろうか。思うに天使──堕天使も含めて──は、人間の自由な想像力と深くかかわっているからであり、「想像界(ムンドゥス・イマギナリス)」(アンリ・コルバン)の住人だからである。教義や説教の抹香臭いしがらみから解放されるや、天使は、ますます変幻自在にその翼をはためかせることになる。」(166頁)
ただ一人の神が死んでしまったら、神がいなくなってしまうのかというと、そうではない。むしろ大勢の神々が天使も含めて大活躍するようになりました。そう考えてみると、ヨーロッパ人や西洋人の思考の中で、古代の多神教の神々がいまだに生き残って大活躍しているともいえます。
2018年4月23日
犬飼裕一
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