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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2018年4月13日 第1661号 )

            
  ☆☆甦れ美しい日本☆☆


☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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新刊発売ご案内 
『キリスト教というカルト 信者になれない、これだけの理由 新書 ― 2018/4/3
奥山 篤信 (著), (発行)春吉書房
読者の声
◎まさに本質論だ!
3章構成の中で秀逸は第1章。
太郎&美代春の対談の設定から、内容までその企画・構成力と imagination、そして勿論アカデミックな内容はなかなか誰にも真似できないだろう。
対談の中のえげつない関西弁の言葉の中にハッとする様な「本質」が数多くちりばめられている。これほど判り易くキリスト教の正体が分かる本はかってなかった。
第2章は、キリスト教の残酷史で本の中では二千年の出来事を客観的に列挙し、その恐るべきオカルト性を立証している。
第3章でまた対談形式での本質論に戻り読者を飽きさせない。
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西村真悟の時事通信 平成30年4月10日(火)
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「日本人奥山篤信の体験報告の書「キリスト教というカルト」を一読されたい」
平成30年4月10日(火)

大学紛争時代の京都で、それぞれ吉田山の麓と大文字山の麓という指呼の間で同時期に学生生活をしていて、お互いに五十歳を過ぎてから、初めて相まみえた友人が奥山篤信さんだ。

その彼が、六十歳を過ぎてから上智大学に入学し、大学院の神学研究科でカトリック神学を学んで神学修士号を取得して卒業し、さらに、一年間、パリのカトリック大学に留学して「本場のカトリック」に取り組み、何があったのか、完全な無神論者になって帰国した。
そして、この度、

「キリスト教というカルト 信者になれない、これだけの理由」 春吉書房

という本を出版して、四月八日、東京で彼の古希と出版の祝いが行われた。
私も出席して、久しぶりに彼と飲んで、出席者各位と懇談した。

彼は、無神論者になったと盛んに言っているが、毎年、親と先祖の墓参りは欠かさずしているし、神社仏閣にも訪れる。
そして、日本人は教育勅語に帰ればいいんだと言っている。
これ、日本人そのものではないか。

つまり、彼にとって、余人がなかなかなし得ない、類い希な還暦を過ぎてからの大学・大学院入学とパリ留学、即ち、上智大学大学院修士修了とパリカトリック大学留学の成果は、教育勅語なのだ!
ここにおいて、私は、戦後の自虐史観による歴史を奪われた日本人の欧米文化体験ではない、歴史を奪われていない日本人の欧米キリスト教との格闘体験があるのだと感じた。
そして、二人の人物を思い浮かべた。
一人は、「アーロン収容所」を書いた会田雄次
もう一人は、「代表的日本人」を英文で書いた内村鑑三である。

会田雄次は、ビルマ戦線でイギリス軍の捕虜となり、二年余の間、イギリス軍の捕虜収容所であるビルマのアーロン収容所で捕虜生活を強いられた。
そして、イギリス人の正体を見届けた。
トルストイは、「監獄に入ったことのない者は、その国がどのような国家か、知ってはいない」と書いた。昭和二十年から三十一年前の十一年間、ソビエトによってシベリア抑留生活をさせられた関東軍参謀長の陸軍中将秦彦三郎は、臨終近い日に、内村剛介に次のように語った。
「私は生涯ロシア・サービスで一貫し、ソ連にも長く駐在し、ソ連軍の演習にも参加した。
でも、何一つわかっちゃいなかった。
敗戦後ソ連の収容所暮らしをするまでは・・・」
会田雄次は、まさにイギリスの監獄・収容所にいてイギリスを見つめた。
そして、次のように書いた(同書、まえがき)。
「実際に体験した二年間の捕虜生活で、イギリス人の正体を垣間見た。
いや確かに見届けたはずだ。
それは、恐ろし怪物であった。
この怪物が、ほとんどのアジア人を何百年にわたって支配してきた。
そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ・・・
その体験を生の姿で多くの方々に伝えるこは、当然の義務であるように思った。」

奥山篤信さんも、監獄に入ったわけではないが、自ら強いた希有の体験を、生の姿で多くの方々に伝えようと思い「キリスト教というカルト」を書いたのではいないか。

次に、奥山篤信さんのこの書に接して、何故、内村鑑三を思ったのか。
それは、内村鑑三が自らの歴史を誇り高く堅持する者としてキリスト教に接した人物だからである。
彼の「代表的日本人」のドイツ語版の後記を次に記す。
「私は、サムライの子のなかでもっとも卑小なる者、イエスキリストに従う者のなかでもっとも卑小なる者であります。
いずれの関係においても、もっとも卑小なる者でありますが、それにもかかわらず、現在の自分のうちにあるサムライに由来するものを、無視したり等閑に付したりすることはできません。
まさに一人のサムライの子として、私にふさわしい精神は自尊と独立であり、狡猾な駆け引き、表裏のある不誠実は憎悪すべきものであります。
キリスト者の律法に比し、勝るとも劣らぬサムライの定めでは、『金銭に対する執着は諸悪の根源なり』であります。
そのため、近代のキリスト教が公言してはばからないもう一つの律法『金銭は力なり』に対して、サムライの子であるからには毅然として異議を唱えるのは、私の当然の務めであります。」

以上、奥山篤信さんの著書「キリスト教というカルト」に接して、私が、会田雄次と内村鑑三を思った理由は分かって頂けたと思う。
この書が、日本人、即ち、サムライの子として、ヨーロッパのキリスト教・カトリックと接した奥山篤信さんの体験を「生の姿で」伝えるものだからである。
友人として、諸兄姉にご一読を願う。
           ▲□●◎○◇▽
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◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 651」

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≪(承前)英国政府は、この日本の返答に対して、新たな動きは起こさなかった。

そして、結果的に、この戦争を休止する端緒を開いたのは、アメリカだった。

陸奥は、この間の経緯を次のように書いている。

【口語訳=日清両国の八ヵ月にわたる戦争を休止する糸口はアメリカによって開かれた。欧州の強国は互いに協議して策を練って、弱肉強食で隙あらば、という姿勢だが、建国間もなく常に平和を希求し、他国の利害に干渉しない姿勢を堅持しているアメリカは、極東における欧州列強の伸長が危険な状況を見て、ついに日清両国に対して友好的な仲裁を申し出てきた。……

 しかし、清国の情勢をよく観察すれば、彼らはもっと深刻な被害を受けた後でなければ、心からの反省をして講和の必要性を感じない様子であり、日本国内の人心は、主戦論が燃え盛っていて、すぐに講和を始めるには時期尚早である。

 そこでアメリカにも、英国と同じように、態度表明を遅延させる回答をすればよいのであるが、さりとて、戦争は無期限に続くものでもない。時機が熟して、どこかの国が仲介の労をとってくれれば便利である。その場合、アメリカが最もよいと思う】

 陸奥は、十一月十七日に、アメリカの仲介の申し出に感謝するとともに、いまはまだその時期にない、という趣旨の文書をアメリカのダン駐日公使に手渡す。

 そしてダン公使には、陸奥から口頭で、「日本政府は今公然米国政府を煩わし日清両国の間における仲裁者たらんことを乞うは、あるいは以て他の第三者を誘招する虞なき能わざれば姑くこれを避けざるを得ずといえども、しかれども異日もし清国より講和の端緒を開き来る時に方り、米国にして彼我の間、相互の意見を交換する便宜を与えらるるにおいては、我が政府は深く米国政府の厚誼に倚頼する所あるべし」(日本政府は、今、アメリカ政府に公式に仲介を依頼すると、第三国が入ってくるおそれがあるので、しばらくこれを避けざるを得ないが、将来、もし清国側から講和を求めてくる場合に、アメリカが仲介してくれるのであれば、日本としてはその厚意に甘えることがあるだろう)と伝えた。

 アメリカは、早速北京のアメリカ公使を通じ、清国の意向を打診する。それが、もともと戦争嫌いな西太后の容れるところとなって、思ったより早く和平交渉が始まることになる。

 陸奥は、アメリカの干渉ならば、それが一番安全と考えたのであろう。彼は終始一貫して、アメリカの誠意だけは疑わなかった。あれだけ赤裸々なマキャベリズムを告白している『蹇蹇録』でも、陸奥は、アメリカについては絶対の信頼を表明している≫

 連綿たる“歴史”、それも戦争の歴史を引き摺っている列強よりも、建国間もないアメリカの方を信頼する、このような判断が陸奥にできたことが興味深い。

 それに比べて、大東亜戦争開始時点における我が国の政治・外交の方針は、千路に乱れて一貫性がなかった。その代表的なものが「北進論」と「南進論」であろう。

時の外務大臣は勃興間もない共産主義国・ソ連と、世界制覇を狙って欧州に攻め入ろうとしているドイツ帝国になびき、米国を無視した。しかも終戦間際になって、講和を求める段階になって、恐るべきことに、全く信用できないソ連にその仲介を求めるという錯誤に陥った。そしてその責任はだれも負わなかった…

尤もその当時、米国にもソ連共産主義者たちの手が回っていて、米政権は“ハイジャック”されていたのだが、当の本人たる病身のF・D・ルーズベルトは恐らく気が付いていなかったと思われる。そして本人は過去の経緯から、ただただ日本憎しと考える補佐官たちの言うなりになっていて正常な外交判断は不可能であった。

 おそらく、これは私の勝手な想像だが、わが国は江戸時代から明治と言う近代時代に移行する混乱期を経ていたが故に、政府を構成する要人らは、常に命の危険にさらされていたのではないか? それは大東亜戦争時代の様にメディアなどによって作られた危機感ではなく、正真正銘の「命の危険」であったと思われる。それだけ関係者は「真剣」だったのだろう。陸奥の時代には「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言う武士本来の姿が伺えるが昭和の御世にはその“男の生き様”が薄れていた様に感じる。同時に相手方の米国も、世界の指導者になろうとする勃興期だと言えた。続いて岡崎氏は、「二十三 講和の瀬ぶみ――講和をめぐる、内外さまざまな主張」の分析に入る。

≪日本側は、将来清国が講和を求めてきた段階で、調停国はアメリカにするという姿勢が整ったが、他方、清の朝廷は、英国やアメリカから早期和平の希望が表明されたうえに、西太后が還暦の祝典の最中に戦争を続けたくなかったために、皇帝派の反対を押し切って和平に傾いた。このためにアメリカの調停はトントン拍子に進んで、明治二十八年(一八九五年)二月一日には清国代表が広島に到着する段取りになった。//