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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)4月5日(木曜日)参
        通巻第5662号
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 ロシアはオバマ政策の失敗を奇貨として、インドネシアに深く食い入った
  米国依存だったインドネシア空軍、いまやロシア戦闘機を大量配備
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 アジア諸国は、南シナ海へ中国海軍が進出している現実を目の前にして、さかんにバランス外交を展開している。
典型はフィリピンで、ドゥテルテ大統領はスカボロー礁を盗まれ、漁民が悲鳴を挙げ、ハーグの國際仲裁裁判所に訴えて全面的に勝訴したにもかかわらず、その判決を横に置いて俄に中国に近づき、経済的に裨益しようとする道を選んだ。米国が不快感を示すのも当然だろう。

 スタンス替えの代表例がインドネシアである。
 歯車がずれたのは東チモール問題からだった。欧米と豪を加えての合唱は、東チモールをインドネシアから引きちぎり、独立させることだった。そのため独立運動の指導者らに唐突に「ノーベル平和賞」を授与し、国際世論を盛り上げ、インドネシアを孤立させた。

 東チモールはポルトガル、オランダが交互に占領して植民地化し、大東亜戦争中は日本が一時占領した。第二次大戦後、ポルトガルとオランダが植民地回復の動きを見せたが、インドネシア軍が作戦を敢行し、占領した。

 スカルノ時代のインドネシアは容共路線でもあり、反共革命以前、つまり1950年代、インドネシア軍はソ連の影響下にあって、戦闘機、戦車の多くはソ連製だった。日本はガスと石油のためにスカルノを厚遇し、第三夫人となったのは日本人女性だった。
 1965年9月30日の「反共クーデター」とも言える政変のあと、スハルト政権は32年間つづいた。

このスハルト時代、インドネシア空軍は米国一辺倒だった。戦闘機は全て米国製でパイロットは米国で訓練を受け、アメリカ式の軍事訓練になれていた。練度も高く、士気は旺盛だった。

 1991年、東チモールで暴動が発生し、当時インドネシア領だったので、軍が出動して武力鎮圧した。西側メディアはこれを「虐殺」とし、インドネシア政府を激しく非難した。このため米国との関係が急激に冷却し、以後、15年にわたって米国の兵器供与が途絶えた。
この状況をチャンスと捉えたのが、中国であり、ロシアである。

 2005年、メガワティ政権になって米国はようやく軟化し、F16機の供与を再開したが、そのときまでにロシア製ミグ戦闘機が配備されていた。米露の戦闘機が共存したのだ。
戦闘機はシステムの整合性が重要であり、兵站、整備、部品調達とストックなど時間との闘い。これが米国システムとロシア・システムの共存となると、空軍の作戦に齟齬が生まれやすい。


 ▲ロシア戦闘機がインドネシア空軍の主力となるのか

 しかるに、米国はインドネシアとの関係を円滑化できないうちに中国が南シナ海を支配し、ベトナムにテコ入れして立て直しを図った。この間に、するするとロシアがジャカルタとの関係を強化していた。

 2018年にロシアはスホイ35を11機、従来のスホイ27,スホイ30の列に加えて供与することが決まり、合計11億ドルの支払いはインドネシア産パームオイル、ゴムなど、つまりバーター貿易での決済となる。決済手段としてはロシアに不利なことは明らかだが、プーチンの狙いは稼ぎではなく、影響力拡大に置かれている。

 スホイはエンジンの耐久年度がF16の半分しかないけれども、インドネシアのような広い空域をカバ-するには航続距離の長さ(スホイは1500キロ。米国戦と機の三倍)で優位に立つとされる。

 インドネシア海軍、海兵隊はこのほかにロシア製の機関砲、対鑑ミサイルならびに地対空ミサイル、潜水艦攻撃用の魚雷などを購入した。

こうした急速なロシア兵器体系化を恐れる米国は、懸念を強めたが、すでにロシア艦隊がインドネシアの港にも寄港している。バリ島へのロシア人ツアーは年間70000人に達している。

 インドネシア陸軍は米国製AH64E攻撃ヘリを保有するが、ロシアはミルハインド17の飛行小隊ならびにミルハインド35攻撃ヘリを供与する。長距離爆撃に加え、インドネシアの北側の島にロシア宇宙船打ち上げ基地建設の打診も展開中だという(アジアタイムズ、3月31日)。
      ○◎▽み□△◎や◇◎□ざ▽◎○き○□□
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 日本人はなぜ、一神教を信じなかったのか
  キリスト教の暗部を一条の光りが照らしだした

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奥山篤信「キリスト教というカルト」(春吉書房)
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 副題が「信者になれない、これだけの理由」とあって、なぜこの宗教を信じられないかをひらたく語る。
 信長がキリスト教の宣教師を保護し、布教を認めた背景を理解するには、当時の政治学的な状況を勘案しなければならない。信長の行く手を阻んだのは比叡であり、雑賀であり、しかも寺社勢力は武装していた。
信長自身は法華経を信じていた。比叡の軍事力を殲滅するには新興宗教の力が必要だったうえ、かれらがもたらした火縄銃という、新兵器の魅力も大きかった。
秀吉が前期にキリスト教に寛大だったのは、信長の後継として、外国からもたらされる文明の利器と、マニラを経由して入ってくる国際情勢のニュースだった。しかし宣教師らを通じて得た情報とはキリスト教の布教の裏で、日本の美女を拉致し、売春婦として西欧に運んでいることであり、また同時に一神教の凶悪な侵略性だった。切支丹伴天連の大名だった高山右近は、領内の寺社仏閣を破壊する凶暴性を示し、やがてキリスト教徒が日本を侵略する牙を研いでいることをしって追放に踏み切った。
家康はもともとが浄土宗の信者。一向一揆の反乱に手を焼いて、大樹寺に助けられて以来、浄土真宗をいかに政治に取り入れるかに腐心し、同時に家康はスペイン、ポルトガルとは異なった一派が勢力を拡げている事情をウィリアム・アダムスから知る。キリスト教の布教を認めず、しかし貿易のために英国には平戸を解放し、オランダ人も通商だけに専念するとする理由で長崎出島の活用を許した。布教は御法度だったが、天草では反徳川の不満分子が反乱を起こしたため、これをようやくにして鎮圧し、以後は「鎖国」として、キリストを封じ込めたのである。
明治政府は、文明開化を鮮明にしてキリスト教の布教も許さざるを得なくなったが、同時に防波堤が必要であり、国内のナショナリズムを高めるために日本古来の神道の復活を奨励し、薩摩や水戸では過激な廃仏毀釈がおきた。
かようにして宗教とは政治とが一体となれば、イランのような狂信的イスラム国家を産むように、政治と宗教は切り離すことが近代の政治のテーマとなった。
本書は、キリスト教を研究するために還暦をすぎてから上智大学神学部に学び、それでも飽きたらずにパリのカソリック学院に留学し、キリスト教の原理を見極めようとした著者が、探求のはてに得た結論とは、この宗教のもつ偽善と欺瞞、その残酷さという暗黒面だった。
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1712回】  
――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(1)
  『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)

         ▽
 内藤の『支那論』の刊行と同じ大正3(1914年)の7月19日に広島駅から広島高等師範学校英語部生徒は大陸修学旅行に出発する。他学部生徒何人かを加えた一行は、「上海・南京・滿洲・朝鮮の天地を突破すること三千哩、八月八日、日獨の事漸く急を告げんとするに當りて無事歸校す」。
この『大陸修學旅行記』に「収むる所九篇、引率?官の書簡を除き、他は悉く生徒の筆に成れるもの」である。

 彼ら若者が中華民国建国当初の中国社会の姿をどのように捉えていたのか。それを内藤などの見解と比較してみると、専門家と当時の国民の一般的な考え方の違いが浮かび上がってくるようにも思える。
また既に読んだ『滿韓修學旅行記念録』(廣島高等師範學校 非賣品 明治40年/【知道中国 1599回~1608回】)と重ね合わせることで、同じ広島高師生徒の目に映った中国社会の変化を知ることもできそうだ。なお、後者の出発は8年前に当たる明治39(1906)年。日にちは偶然にも同じ7月19日であった。

 蛇足とは思うが、この8年の間に、我が国は明治から大正へ。一方の中国では清朝が崩壊し中華民国が建国され、さらに袁世凱打倒の第二革命も瓦解している。第1次世界大戦は生徒らが広島駅を発って10日ほどが過ぎ、上海から大連に向う洋上に在った7月28日に勃発している。
この戦争に連合国の一員として参戦した日本は、敵であるドイツが中国において権益拠点とした山東省(東洋艦隊基地)の攻略を果たす。やがて大隈内閣による袁世凱政権への21カ条要求に繋がり、日中関係はいよいよ複雑さを増すことになる。

さて肝心の生徒による旅行日誌に移るが、先ずは「其の壹」から始めたい。
 広島を発った船が下関、門司を経て上海に着いたのが22日午後。上海を前にした洋上での第一声が、「?濁を流す揚子江の白波は早くから見えそめました、この美しき光景にこの豐かなる?の香に美しき國に、暴虐の手を以て萬物を傷はんとする支那人は住んでゐるのである」である。「暴虐の手を以て萬物を傷はんとする支那人」とは、はたして教師を目指した当時の若者の一般的な認識だったのだろうか。激越な表現は、さらに続く。

 「東亞の唯一の強大國である日本の後援を却けて無智傲慢にもこれを悦ばぬ、所詮彼が亡ぶべき國であると思はれた賤が伏屋も、宮殿も共に穢はしいこの國の人は揚子江の濁水にいたまされて人とも思われぬその身姿、浴せず梳らず、亡國の民はかくこそあるのである、崇高嘆美の自然の中に生れたる憐れなる奴隷よ、かゝるいぶせき人のためにその麗し光を惜しみ給はなかつた神こそ慈愛の限りではないか」というのだから、さすがに言い過ぎではなかろうかとも思うが、これが当時の「東亞の唯一の強大國である日本」の、しかも教師を目指す若者の見方だと、ひとまずは納得しておきたい。

 翌朝、ホテルの窓から街を眺め、「無數の支那人が徃來してゐる、四分の三は裸體で、股引樣のものを腰につけてゐるばかりである」。
「果てしなく愚鈍にして汚はしい支那人は矢張日本人の比ではないのである、この獨立自主の人にあらぬ、逸居の輩の國、家危くして兵なく、羊飼は己の腕を以て羊を守らねばならぬ、遠かれ早かれ屬國の苦楚をなめなければならぬかと思われた」。
そして、「この怠惰なる國民の間を、英獨佛米の四國の人々の經營は着々歩を状めて、上海の市街は全くこれ等四國の人の勢力範囲圍にあるのだ」と、上海の第一印象を綴る。//