From 平松禎史@アニメーター/演出家
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『三橋貴明の「新」経世済民新聞』
2018/3/24
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「霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第四十三話」
From 平松禎史@アニメーター/演出家
◯オープニング
今月は2月に寄稿できなかった分を前半に載せていただいたので、今回は2度目になります。
森友学園問題は財務省が公開した削除・書き換えが行われた決裁文書によって激しくかつ醜い展開になっています。
総理夫人である安倍昭恵氏が値引き交渉に関与したのではないか、総理も何らかの関与したのではないかとの疑惑。
かたや、関与などあり得ないとする擁護論。
当時、政治家や検察が入手している決裁書が唯一の本物として議論されていましたが、3月2日に朝日新聞がスクープした「書き換え文書」は、総理夫妻や与党政治家の関与を裏付ける証拠になるという意見が出た。
かたや、無関係な書類ではないか、あるいは作成前の下書きではないか、朝日の捏造ではないかという意見も。
依然として
安倍総理夫妻や政府は不当な値引き交渉や文書改竄には一切関与していない。
または
安倍総理夫妻や政府は不当な値引き交渉や文書改竄への関与を認めて退陣せよ。
というそれぞれに固定化された視点が支配的です。
元の決裁書にあった膨大な情報が削除・書き換えられて、「ある方向付け」が見えなくされたのは事実で、書き換え文書を根拠に無関係を主張してきた総理や政府関係者の直接的な関与が疑われているのですが、決定的な証拠に欠け、両者の主張は平行線です。
おそらく、まったく無関係ではなく、直接の指示でもない中間的なところが問題なのだろう。
日本の政治風土からして、立証が難しいところです。
この状況を見て、まるで考古学論争みたいだと思わずツイッターでつぶやきました。
第四十三話:『歴史からにじみ出る「固定化された視点」とその開放』
◯Aパート
なぜそう思ったかというと、考古学ではある時代まで信じられてきたことが、発見された資料や科学的な検証によって疑いが持たれ、定説や通説が覆り、正されていくことがあるからです。
覆されるのは定説や通説ですが、実際には定説や通説を生み出して生きた「固定化された視点」が正されていくのです。
いくつか思い浮かぶものを書いていきましょう。
・法隆寺西院伽藍の再建論と非再建論
聖徳太子が創建したと言われる法隆寺は西暦607年頃の建立と比定され、西院伽藍は大講堂や南大門を除いて創建以来全山を失う火災にあっておらず、現在まで当時の姿を保持しているという考えが、明治時代中頃に出てきた再建説で歴史論争に発展したのです。
再建論は『日本書紀』の記述を基に西暦670年に一度消失して再建されたのでは、というもの。
非再建論の論拠は古い様式や大化の改新前の尺度で立てられているため、再建の痕跡は見当たらないとするもの。
『聖徳太子伝補闕(ほけつ)記』を基に、『日本書紀』の記述は60年で一巡する干支を錯誤したもので実際には極小規模の火災があった610年を示している、よって再建はない、というもの。
一方再建論の論拠は『聖徳太子伝補闕記』は荒唐無稽な記述が多く、信頼できない、というもの。
古い様式や尺度は残った礎石を用いて再現すれば創建時と同じものになる、というもの。
その結果は?
2004年に高精度デジタルカメラを用いた年輪年代測定で、金堂や五重塔の木材は650年代末から690年代末に伐採されたものが使用されていることがわかり、『日本書紀』の記述は正しく、再建されていたことがはっきりした。
この論争で重要なのは、非再建論者が『聖徳太子伝補闕記』を用いて『日本書紀』の記述は間違いだと考えたことです。『日本書紀』に間違いがあるとしながら不採用ではなく、その記述に基いて再建を否定する、というちょっとアクロバティックな論を展開しています。
一方で、再建論者のほうは、礎石が残っていれば建立当時の再現は可能という科学的な思考を主としています。実際、伊勢の神宮も式年遷宮を繰り返して建立当時の様式を保存していますからね。
つまり非再建論は、一見『日本書紀』を疑うように見えつつ、じつは『日本書紀』の歴史観に依拠していた。あるいは平安時代までに固定化した聖徳太子の存在を根拠にして科学的な見方を否定していた。かなり手前勝手な「固定化された視点」に立っていたことがうかがえます。
科学的な測定でその視点は否定されました。
証明されたのは、火災で失われた伽藍を創建当時の姿に再現しようとした天智の人々の努力です。
・「邪馬臺国」論争
現代字で書けば「邪馬台国」です。
名称も「邪馬壹(壱)国」だったのでは、という論説もある。
それがどこにあったのかなど、江戸時代から続く論争でいまだに決着を見ていません。
簡単に説明するのが困難なので思いっきり省略しますが、この論争にも『日本書紀』と『古事記』を一体的に正史として扱う江戸中期以降の歴史観がまとわりついています。
「ヤマト」という統一国家が卑弥呼の時代からあったとする考えを前提に、邪馬台国の名前(ヤマト国からという説)や場所を考えれば、それは皇統の歴史につなげられる畿内説になります。
そうではなく、当時には統一的な国家は成立しておらず、地方国家の集合体だった。
だとすれば、魏と交流していた九州の勢力または九州王朝が邪馬台国だったとする九州説が自然に思えてきます。
また、白村江の戦いに破れ、唐に脅威を感じた天智天皇(中大兄皇子)は当時海に近かった飛鳥から近江まで宮を後退させています。中国大陸と海でつながるところは歴史的に危険と隣合わせの認識があったと考えられます。
古代において九州は交易しやすい土地であったと同時に侵略の脅威に直面する危険な土地でもあった。火山噴火も脅威でした。とすれば東遷説も説得力を持ってきます。
本居宣長は、皇統につながるヤマトは唯一(万世一系)であり、日本が魏に朝貢するなどあり得ないとする立場で、九州に僭王(王を偽る者)がいたと考えた。
「皇国史観」によって方向付けられた「固定化された視点」にもとづくのは、歴史を探っていく姿勢としては適切とは思えません。
・王朝交替説
関連する論争では、万世一系は本当か?というものもある。
『宋書』にある「倭の五王」は当時の日本に王朝交代が起きていたことを示唆するというもの。
これが本当なら万世一系ではなくなります。
主に三度の交代があったと考えられ、岡田英弘氏は『日本書紀』は政治的な歴史書だと解釈。
河内王朝・播磨王朝・越前王朝・舒明王朝と変遷し舒明王朝が現在まで続いていると説いています。
『日本書紀』と『古事記』を一体的に正史と捉える考え方や、古代から統一国家があったとする考え方、皇統は万世一系であるとする考え方で、これらは本当に正しいのか証明できていません。
しかし、天武朝に行われたように、江戸中期から明治に近代化した日本において、万世一系に基づく日本観、「固定化された視点」が必要になり、戦後においても日本の捉え方を決定づけていることは、歴史を探っていく程ににじみ出ていることがわかります。
・削除・書き換えが行われた『日本書紀』
このような考え方に疑問を投げかけているのが、三浦佑之氏の『古事記』研究です。
律令国家としての意図を濃厚に示した西暦720年編纂の『日本書紀』(日本書・紀)と、別な目的で編纂された『古事記』を、「記紀」と一体的に扱うことを批判しています。
詳しく書くとものすごく長くなるし、ボクのまとめは読み落としがあるかもしれない。
比較的平易に書かれた『古事記・再発見』や、『風土記の世界』を読まれると良いでしょう。とてもおもしろいです。
簡単に書くと、『日本書紀』は、(序文を除く)『古事記』や関連文書としての『出雲国風土記』から、統一国家「日本」を前提とした歴史書に都合の悪い記述を削除・書き換えて編纂している、とするもの。
これを検証した複数の書籍を簡単にまとめると、大和王権が成立する前に、出雲に国家と呼ぶにふさわしい一大勢力が存在したこと。同じ頃、出雲にとって脅威だった「越(古志)」、つまり律令時代以降に越前、越中、越後と称されるに到る大きな勢力があった。
これら日本海勢力が、畿内の大和王権の勢力拡大の過程で征服・吸収されたのではないか。(国譲り)
高天原が葦原中国を平定するために軍勢を送った理由が、『古事記』や『出雲国風土記』では明確であるのに対して、強敵、出雲国を削除・書き換えた『日本書紀』では不整合が生じている、とのことなのです。
『古事記』や『出雲国風土記』に数多く記載された複数国家成立の情報を、はじめから統一国家があったとして「日本国」を設定するために削除・書き換えて『日本書紀』は成立し、以後日本の歴史観が形成されたのだろう、と読むことができます。
同様に、邪馬台国以降の九州勢力も、統一国家成立までに大和王権に征服・吸収(ヤマトタケルの熊襲征討)された可能性が想起できます。
『日本書紀』が編纂され、律令や戸籍が記された天武朝では、日本がかつてより統一国家だったのだという「固定化された視点」が必要だったのだと思う。当時の営みとしては必要だったし否定的に捉えているわけではありませんんが、歴史を探る上では、固定的な視点を開放する必要があろうかと思うのです。
出雲を中心とする日本海勢力が駆逐されていった歴史は、東京一極集中とデフレが続く一方で、特に出雲のある山陰地方が放置され衰退している現代を見るに、象徴的に思えてきます。
出雲大社へ直通する国鉄大社線が廃線になったので参拝するのに一苦労でした。
北陸新幹線は京都大坂への延伸が具体的に議論されていますが、米子や出雲から北九州へと接続する山陰路線は夢物語であるかのように、議論されていません。
緊縮財政が継続され、経済成長が信じられない経済風土では、かつての大国出雲は置き去りにされていく。京都大阪であれ東京であれ、律令国家成立以降の「固定化された視点」によ…
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今月は2月に寄稿できなかった分を前半に載せていただいたので、今回は2度目になります。
森友学園問題は財務省が公開した削除・書き換えが行われた決裁文書によって激しくかつ醜い展開になっています。
総理夫人である安倍昭恵氏が値引き交渉に関与したのではないか、総理も何らかの関与したのではないかとの疑惑。
かたや、関与などあり得ないとする擁護論。
当時、政治家や検察が入手している決裁書が唯一の本物として議論されていましたが、3月2日に朝日新聞がスクープした「書き換え文書」は、総理夫妻や与党政治家の関与を裏付ける証拠になるという意見が出た。
かたや、無関係な書類ではないか、あるいは作成前の下書きではないか、朝日の捏造ではないかという意見も。
依然として
安倍総理夫妻や政府は不当な値引き交渉や文書改竄には一切関与していない。
または
安倍総理夫妻や政府は不当な値引き交渉や文書改竄への関与を認めて退陣せよ。
というそれぞれに固定化された視点が支配的です。
元の決裁書にあった膨大な情報が削除・書き換えられて、「ある方向付け」が見えなくされたのは事実で、書き換え文書を根拠に無関係を主張してきた総理や政府関係者の直接的な関与が疑われているのですが、決定的な証拠に欠け、両者の主張は平行線です。
おそらく、まったく無関係ではなく、直接の指示でもない中間的なところが問題なのだろう。
日本の政治風土からして、立証が難しいところです。
この状況を見て、まるで考古学論争みたいだと思わずツイッターでつぶやきました。
第四十三話:『歴史からにじみ出る「固定化された視点」とその開放』
◯Aパート
なぜそう思ったかというと、考古学ではある時代まで信じられてきたことが、発見された資料や科学的な検証によって疑いが持たれ、定説や通説が覆り、正されていくことがあるからです。
覆されるのは定説や通説ですが、実際には定説や通説を生み出して生きた「固定化された視点」が正されていくのです。
いくつか思い浮かぶものを書いていきましょう。
・法隆寺西院伽藍の再建論と非再建論
聖徳太子が創建したと言われる法隆寺は西暦607年頃の建立と比定され、西院伽藍は大講堂や南大門を除いて創建以来全山を失う火災にあっておらず、現在まで当時の姿を保持しているという考えが、明治時代中頃に出てきた再建説で歴史論争に発展したのです。
再建論は『日本書紀』の記述を基に西暦670年に一度消失して再建されたのでは、というもの。
非再建論の論拠は古い様式や大化の改新前の尺度で立てられているため、再建の痕跡は見当たらないとするもの。
『聖徳太子伝補闕(ほけつ)記』を基に、『日本書紀』の記述は60年で一巡する干支を錯誤したもので実際には極小規模の火災があった610年を示している、よって再建はない、というもの。
一方再建論の論拠は『聖徳太子伝補闕記』は荒唐無稽な記述が多く、信頼できない、というもの。
古い様式や尺度は残った礎石を用いて再現すれば創建時と同じものになる、というもの。
その結果は?
2004年に高精度デジタルカメラを用いた年輪年代測定で、金堂や五重塔の木材は650年代末から690年代末に伐採されたものが使用されていることがわかり、『日本書紀』の記述は正しく、再建されていたことがはっきりした。
この論争で重要なのは、非再建論者が『聖徳太子伝補闕記』を用いて『日本書紀』の記述は間違いだと考えたことです。『日本書紀』に間違いがあるとしながら不採用ではなく、その記述に基いて再建を否定する、というちょっとアクロバティックな論を展開しています。
一方で、再建論者のほうは、礎石が残っていれば建立当時の再現は可能という科学的な思考を主としています。実際、伊勢の神宮も式年遷宮を繰り返して建立当時の様式を保存していますからね。
つまり非再建論は、一見『日本書紀』を疑うように見えつつ、じつは『日本書紀』の歴史観に依拠していた。あるいは平安時代までに固定化した聖徳太子の存在を根拠にして科学的な見方を否定していた。かなり手前勝手な「固定化された視点」に立っていたことがうかがえます。
科学的な測定でその視点は否定されました。
証明されたのは、火災で失われた伽藍を創建当時の姿に再現しようとした天智の人々の努力です。
・「邪馬臺国」論争
現代字で書けば「邪馬台国」です。
名称も「邪馬壹(壱)国」だったのでは、という論説もある。
それがどこにあったのかなど、江戸時代から続く論争でいまだに決着を見ていません。
簡単に説明するのが困難なので思いっきり省略しますが、この論争にも『日本書紀』と『古事記』を一体的に正史として扱う江戸中期以降の歴史観がまとわりついています。
「ヤマト」という統一国家が卑弥呼の時代からあったとする考えを前提に、邪馬台国の名前(ヤマト国からという説)や場所を考えれば、それは皇統の歴史につなげられる畿内説になります。
そうではなく、当時には統一的な国家は成立しておらず、地方国家の集合体だった。
だとすれば、魏と交流していた九州の勢力または九州王朝が邪馬台国だったとする九州説が自然に思えてきます。
また、白村江の戦いに破れ、唐に脅威を感じた天智天皇(中大兄皇子)は当時海に近かった飛鳥から近江まで宮を後退させています。中国大陸と海でつながるところは歴史的に危険と隣合わせの認識があったと考えられます。
古代において九州は交易しやすい土地であったと同時に侵略の脅威に直面する危険な土地でもあった。火山噴火も脅威でした。とすれば東遷説も説得力を持ってきます。
本居宣長は、皇統につながるヤマトは唯一(万世一系)であり、日本が魏に朝貢するなどあり得ないとする立場で、九州に僭王(王を偽る者)がいたと考えた。
「皇国史観」によって方向付けられた「固定化された視点」にもとづくのは、歴史を探っていく姿勢としては適切とは思えません。
・王朝交替説
関連する論争では、万世一系は本当か?というものもある。
『宋書』にある「倭の五王」は当時の日本に王朝交代が起きていたことを示唆するというもの。
これが本当なら万世一系ではなくなります。
主に三度の交代があったと考えられ、岡田英弘氏は『日本書紀』は政治的な歴史書だと解釈。
河内王朝・播磨王朝・越前王朝・舒明王朝と変遷し舒明王朝が現在まで続いていると説いています。
『日本書紀』と『古事記』を一体的に正史と捉える考え方や、古代から統一国家があったとする考え方、皇統は万世一系であるとする考え方で、これらは本当に正しいのか証明できていません。
しかし、天武朝に行われたように、江戸中期から明治に近代化した日本において、万世一系に基づく日本観、「固定化された視点」が必要になり、戦後においても日本の捉え方を決定づけていることは、歴史を探っていく程ににじみ出ていることがわかります。
・削除・書き換えが行われた『日本書紀』
このような考え方に疑問を投げかけているのが、三浦佑之氏の『古事記』研究です。
律令国家としての意図を濃厚に示した西暦720年編纂の『日本書紀』(日本書・紀)と、別な目的で編纂された『古事記』を、「記紀」と一体的に扱うことを批判しています。
詳しく書くとものすごく長くなるし、ボクのまとめは読み落としがあるかもしれない。
比較的平易に書かれた『古事記・再発見』や、『風土記の世界』を読まれると良いでしょう。とてもおもしろいです。
簡単に書くと、『日本書紀』は、(序文を除く)『古事記』や関連文書としての『出雲国風土記』から、統一国家「日本」を前提とした歴史書に都合の悪い記述を削除・書き換えて編纂している、とするもの。
これを検証した複数の書籍を簡単にまとめると、大和王権が成立する前に、出雲に国家と呼ぶにふさわしい一大勢力が存在したこと。同じ頃、出雲にとって脅威だった「越(古志)」、つまり律令時代以降に越前、越中、越後と称されるに到る大きな勢力があった。
これら日本海勢力が、畿内の大和王権の勢力拡大の過程で征服・吸収されたのではないか。(国譲り)
高天原が葦原中国を平定するために軍勢を送った理由が、『古事記』や『出雲国風土記』では明確であるのに対して、強敵、出雲国を削除・書き換えた『日本書紀』では不整合が生じている、とのことなのです。
『古事記』や『出雲国風土記』に数多く記載された複数国家成立の情報を、はじめから統一国家があったとして「日本国」を設定するために削除・書き換えて『日本書紀』は成立し、以後日本の歴史観が形成されたのだろう、と読むことができます。
同様に、邪馬台国以降の九州勢力も、統一国家成立までに大和王権に征服・吸収(ヤマトタケルの熊襲征討)された可能性が想起できます。
『日本書紀』が編纂され、律令や戸籍が記された天武朝では、日本がかつてより統一国家だったのだという「固定化された視点」が必要だったのだと思う。当時の営みとしては必要だったし否定的に捉えているわけではありませんんが、歴史を探る上では、固定的な視点を開放する必要があろうかと思うのです。
出雲を中心とする日本海勢力が駆逐されていった歴史は、東京一極集中とデフレが続く一方で、特に出雲のある山陰地方が放置され衰退している現代を見るに、象徴的に思えてきます。
出雲大社へ直通する国鉄大社線が廃線になったので参拝するのに一苦労でした。
北陸新幹線は京都大坂への延伸が具体的に議論されていますが、米子や出雲から北九州へと接続する山陰路線は夢物語であるかのように、議論されていません。
緊縮財政が継続され、経済成長が信じられない経済風土では、かつての大国出雲は置き去りにされていく。京都大阪であれ東京であれ、律令国家成立以降の「固定化された視点」によ…
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