■「加瀬英明のコラム」メールマガジン
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深川富岡八幡宮と東京大空襲
江戸時代から人気が高かった深川祭り
旧臘――昨年12月に、深川富岡八幡宮の女性宮司が神社のわきで、前任者だった弟によって、惨殺される不祥事が起った。
江戸時代を代表する祭礼といえば、将軍家の庇護の下にあった日枝神社の山王祭りと、神田祭りが天下祭りといわれて、京都祇園祭り、大阪天神祭りと並んで、日本の三大祭りと呼ばれた。
日本の祭りに君臨していた天下祭りは幕府が滅び、街路事情によって曳山(ひきやま)が姿を消したために、江戸時代から人気が高かった浅草三社祭りと、富岡八幡宮の深川祭りによって、先を越されるようになった。
富岡八幡宮の祭神は、第15代応神天皇のオオトモワケノミコト、天照大御神をはじめとする八柱だが、応神天皇は母后の胎内にあった時に即位された、唯一人の天皇である。
伊能忠敬の銅像の由来
富岡八幡宮の鳥居を潜ると、江戸末期に全国を歩いて測量して、日本地図をつくった伊能忠敬の銅像が建っている。忠敬は千葉県九十九里浜の農家に生まれ、独学で天文学や、測量、和算を学び、55歳で富岡八幡宮から、全国測量の第一歩を踏み出した。
今年は、忠敬の没後200周年に当たることから、全国各地で記念行事が行われる。
私事になるが、私は忠敬の次女の篠女が加瀬佐兵衛に嫁いだことから、玄孫(やしゃご)に当たる。富岡八幡宮で伊能忠敬顕彰会に招かれて、忠敬について講演したこともある。
それにしても神職だったという弟が、姉を日本刀で斬殺したのを、信じられなかった。日本刀は神社に祀られて、ご神体にもなるものだ。鍛冶場に注連縄が張られているのを、知らなかったのだろうか。
国宝のなかでもっとも件数が多いのは、日本刀である。武器として使われることが少なかったから、優れた作品が多く残っている。日本刀は武器であるよりも、武士が邪気を祓い、礼節を保つために携えていたのだろう。
昨今の神職の教育に、問題があるのだろう。
だが、富岡八幡宮の神職が不祥事を起したといって、神社に傷がつくものではない。キリスト教会は大虐殺や、侵略戦争にかかわってきた。今年、フランシスコ現法王がペルーを訪れた時に、多くの司祭が少年に性的虐待を加えてきたことを謝罪したが、キリスト教の神に傷がつくわけではあるまい。
富岡八幡宮といえば、私にとって忘れられないことがある。
『週刊新潮』に50週にわたって連載
私は37歳の時に、『週刊新潮』に昭和20年元日から、マッカーサー元帥が昭和26年に解任されて離任するまで、昭和天皇を中心として、宮中、皇族、政府、軍中枢の動静を、当時の天皇の側近者をはじめ百数十人に、長時間インタビューを行って、50週にわたって連載したことがあった。
3月10日に東京大空襲が行われ、その直後の累計で8万3000人以上の市民が死亡すると、前年10月を最後に空襲を恐れて、皇居の外へ出られることがなかった天皇が、軍の強い反対を押し切って、被災地を視察されたことがあった。
軍は天皇が被爆地を見られて、抗戦の決意が揺らぐことを心配して反対したが、御巡幸は軍の決定事項ではないので、承知するほかなかった。
宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせを行い、18日の日曜日の午前9時から10時までの1時間が決定されたが、アメリカ軍は日曜日は休んでいるだろうという判断で選ばれ、午前9時から10時までは、それまでの統計で空襲がもっとも少なかった。
御料車を黒く塗りかえることも検討されたが、時間がなかったので取りやめになった。いつもであれば、沿道に1メートル置きに警官が並ぶのに、天皇であることが分からないように、警衛をできるだけ少なくすることにして、ところどころにしか立たなかった。交通の規制も行わず、前後60メートルだけが交通制限され、対向車も自由だった。
昭和天皇の御巡幸
御料車はボンネットに立つ天皇旗を外して、近衛将校が乗ったオートバイが、両脇に2台ずつ従って、蓮沼侍従武官長、藤田侍従長、松平宮相などの供奉員を乗せた車が3台続いて、時速36キロで疾駆した。
永代橋を渡って深川に入ると、見渡すかぎりの焼け跡だった。ところどころで、市民がトタン板でバラックを造り、瓦礫の整理をしていた。
鹵簿(ろぼ)は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で、停まった。
陸軍様式軍装を召された天皇が降りられると、待っていた大達内相の先導で、石畳を歩かれて、境内へ向かわれた。
拝殿は延焼を免れていた。陛下は軍帽を脱がれると、拝殿に向かってお辞儀をされた。拝殿の前に粗末な机が、1つ置かれていた。
天皇が机へ向かって立たれると、一面の焼け跡が一望に見渡せた。天皇の背後に、供奉員や、坂警視総監、都長官の西尾陸軍大将など、約20人が2列になって並んだ。
国民服を着た大達内相が、地図を鉛筆で指して、被害状況を御説明した。
陛下は大達の言葉が切れるたびに強く頷かれ、「あっ、そう」「それは、たいへんだったなあ」と、仰言った。
警官が神社を囲んで、一般市民は境内に入れなかった。しかし、被災民のなかには、巡査から陛下が御幸されていると聞いて、何人かが地面に崩れ落ちて、有難さに号泣した。
大達が説明を終えると、天皇は焼け野原にじっと見入って、「こんなに焼けたか‥‥」と、絶句された。天皇は大達に促されるようにして、御料車へ戻られた。
鹵簿は予定通りに、10時に皇居正門を潜った。幸いこのあいだ、空襲はなかった。
その後、陛下は敗戦まで皇居の外へ出られなかった。私は『週刊新潮』の連載にそう書かなかったが、昭和天皇はこの時に終戦を決意されたと、確信した。
富岡八幡宮の例大祭はなぜか8月15日
そして、江戸時代から富岡八幡宮の例大祭が、8月15日だったことを知っていたが、私はオカルトを信じなかったから、戦争が8月15日に終わったのは、偶然でしかないと思った。それとも、御神威によるものだったのだろうか。
軍は根こそぎ動員を進めていたが、国民全員を戦闘員とみなしていた。4月に、阿南惟幾陸軍大臣が布告した本土決戦のための「決戦訓」は、次のようにうたっていた。
「皇軍将兵は皇土を死守すべし。皇土は天皇在(ま)しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。皇国将兵は一億戦友の先駆たるべし。一億同胞は総(すべ)て是(これ)皇国護持の戦友なり」
大本営陸軍部が同じ月に発した「国土決戦教令」は、必要な場合、軍が国民を殺すのに躊躇(ちゅうちょ)してはならないと、命じていた。
「敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭ニ立テテ前進シ、我ガ戦意ノ消磨(しょうま)ヲ計ルコトアルベシ。斯(か)カル場合我ガ同胞ハ己(オノ)ガ生命ノ長キヲ希(こひねが)ハンヨリハ、皇国ノ戦捷(せんしょう)ヲ祈念シアルヲ信ジ、敵兵撃滅ニ躊躇スベカラズ」
いま、立憲民主党をはじめとする護憲勢力が、憲法解釈による「専守防衛」を金科玉条のように、頑なに守れと主張している。
「専守防衛」は、敵軍がわが領土を侵さないかぎり、迎撃することが許されないから、本土決戦を戦うことを強いている。いったい、枝野幸男氏たちは本土決戦が国民を道連れにして、いかに悲惨なものとなるか、考えたことがあるだろうか。
陸軍は本土決戦へ向けて、長野県松代の山を手掘りで巨大な洞窟を刳(く)り抜いて、大本営を移転することを、計画していた。私はこの跡を訪れたことがあるが、天皇皇后のために、半地下式の行(あん)在所(ざいしょ)も造られていた。
私は「専守防衛」を唱える論者に、松代大本営跡を見学することを勧めたい。
『週刊新潮』の連載は新潮社から単行本として出版されたが、3年前に『昭和天皇の戦い』(勉誠出版)として、復刻された。

