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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018)1月7日(日曜日)
        通巻第5570号  <前日発行>
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 ホンネがでた。パキスタンに中国軍基地を建設へ
  最もイランよりのジワニ港。アラビア海を扼する要衝
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 インドがイランのチャバハール港近代化に協力し、コンテナ基地のキャパシティが拡大、輸送が開始された。

 すぐ近くがパキスタンのパロジスタン州グアダール港で、中国が工事を急ピッチで急いでいる。
 このイランのチャバハール港とパキスタンのグアダール港の中間、パキスタン領だが、最も西側でイランのとなりがジワニ港である。中国はこのジワニに軍事基地を目論見、ジブチに次いで第二の海外基地を目指していることが分かった(「ザ・タイムズ・オブ・インディア」、1月6日)。

 すでにスリランカのハンバントラ港は99年の租借に成功しているため、中国軍の軍事基地に化けるのは時間の問題だろう。
 このタイミングでトランプ大統領はパキスタンへの援助を凍結した。
 中国は直後のタイミングを選んで、秘密にしてきたジワニ港開発を打ち上げたのである。
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)貴誌前号の書評(西尾幹二「国民の歴史」)を拝読しました。その関連ですが、西尾幹二全集第二十巻(「江戸のダイナミズム」)のことです。小生も、版元から代引きで全集を購読しており、発行が一年に三回か四回ですので、じっくりと、ほぼ全部読んでおります。
というより過去の西尾さんの履歴でもあり、読書遍歴でもあり、著作を追想風に読んでいくのは同時に自分の思想遍歴をたどるという意味もあって意義深い作業なのです。
 さて、その第二十巻の解説の最後(572pから576pにかけての5ページ分)に宮崎正弘先生の解説が長々と引用されております(当然、ご存じとは思いますが)、『江戸のダイナミズム』に対する当該評論は、西尾さんの代表作とも言える作品を論じた夥しい批評のなかで、白眉かと思われました。
  (KH生、横浜市)



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(読者の声2)『夕刊フジ』(1月5日発売)の記事によれば、大連のヤマトホテル廃業ということです。戦前、満州全域にあった超豪華なヤマトホテルがつぎつぎと廃業してゆくのは、寂しい限り、映画のロケにも使われ、ラストエンペラーにもでてきたと思いますが。むろん、宮崎さんも宿泊された経験はあおりですか?
   (IE子)


(宮崎正弘のコメント)大連、瀋陽、長春、ハルビンのヤマトホテルに宿泊したことはあります。とくに大連のヤマトホテルは「遼寧賓館」と看板は変わっていましたが、天井がやけに高く、きらびやかで右廊下の突き当たりに日本料亭があって、現地の日本人駐在員で満員でした。最近は中国も物価高でしょうが、当時、食べ放題飲み放題で200元(当時のレートで2800円)でした。
二階に日本語の通じるバアがありました。といっても最後に宿泊したのは8年ほど前で、一泊三千円でした。そのとき既に廃業寸前かと思えるほどの宿泊者はすくなかった。当時、大連市内にはJAL、ヒルトン、シャングリアなどが店開きしていましたから。
 ご指摘の映画のロケは瀋陽(昔の奉天)のヤマトホテルです。
これも旧日本人町に一際華麗で絢爛なロビィ、映画の舞台ばかりか、テレビドラムの舞台にも頻繁に利用されていたようです。ここは喫茶店が有名でした。横脇に日本料理屋がかろうじて営業していた記憶があります。真ん前の小公園には毛沢東が手を挙げている立像が聳えていて、若い人が「あれは、タクシーを止めているおっさん」とからかっていました。付近はいまでは東京駅そっくりだった満鉄の奉天駅も取り壊され、中国系、香港系、アメリカ系に高層ホテルが建ち並び、誰も泊まらなくなったようです。
長春のヤマトホテルはたしか春誼賓館と言って、バス駅の隣だったので何回もとまりましたが、やはり設備の老朽化が激しかった。
 ハルビンのそれはすでに十年前から廃屋のような、人の寄りつかない旅館でしたね。
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 ▼西村眞悟の時事通信  西村眞悟の時事通信  西村眞悟の時事通信
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友邦台湾について
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平成30年1月6日(土)

学生時代からの友で、毎年、正月は台湾の台南に滞在して書き物をする未だ独身のユニークな男がいる。この男から正月二日、台南の成功大学の構内にある大きく枝を広げた巨木を背景にした写真がメールで送られてきた。
この巨木こそ、昭和天皇が摂政時代に台湾を訪問されて手植えされた榕樹の木だ。
戦前、この地には日本軍司令部があった。写真に映る巨大な榕樹の木は、二十二年間を日本統治時代で育ち、それから七十二年間を台湾の人々によって育てられた。この樹の元に石碑があり、日本語で次のように刻まれている。
  長者の言によれば、此の榕樹は、日本統治時代、大正十二年、乃ち日本天皇裕仁の、皇太子たりし頃に、自ら植えられしものと伝えられる。

 友が、成功大学の校門で、職員に昭和天皇の植えられた木の所在を尋ねると、その職員は自転車に乗って木まで案内してくれ、丁寧にお礼を言った十分ほど後に、彼はカレンダーなどのお土産をもって引き返してきたという。友は書いてきた。
  なんという日本人に対する、あたたかい思い。
  韓国中国とはえらい違いです。
  台湾にいると、心が洗われ、この人達を大切にしなければという思いが高鳴りますね。

また、校内の何処にあるのか、摂政の宮の正装した等身大の写真の横に立つ彼の写真も送られてきた。皇太子時代の昭和天皇と90数年の時を隔てたツーショットと書かれていた。
なお、成功大学は、首都台北の旧帝大が台湾の東大と言われているのに対応して、台湾の京大と言われていると聞いている。
 この友からの二枚の写真を見て、この榕樹の木の影で休んだ夏の台湾を思い出した。
その時私は、昨年の六月十三日に百四歳で帰天された門脇朝秀翁とともに台湾の台北を起点として時計回りに山岳地帯を故郷とする高砂族が多い東海岸地帯を北から南の潮州まで移動し、さらに西海岸を高雄から台南を廻って台北に帰った。台湾の東の海岸地帯の街々には、神社の跡に拝殿の無い鳥居だけが立っている光景をよく見かけた。
あるとき、門脇翁はその鳥居の土台に座って、ここにこの鳥居が残っているということは、日本時代の物は全て破却して掃討し、日本の帝国大学などで高等教育を受けたエリート層は全て粛正した蒋介石の「白色テロ」の時代に、この村の長が、鳥居を残す為に命を賭けたということを示している、と我々に教えてくれた。
 また、我々が台中の霧社に向かったとき、霧社の手前の街で、道路の真ん中に立つ巨木を見た。その巨木も、成功大学の榕樹の木と同様、昭和天皇のお手植えの木だった。そのお手植えを手伝った台湾人(故人)と門脇翁は交流があり、その孫がでてきて説明してくれた。
この木は昭和天皇が植えられた大切な木です。道路の拡張の時、この木は切ってはならないと街で決めたので広がった道路の真ん中に残ったのです。
霧社は、昭和五年十月、台湾統治時代の日本に対する最大の武装蜂起のあったところだ。
この武装蜂起を霧社事件という。
この事件は、日本の警官に侮辱されたと感じたセデック族(高砂族)の一部が、霧社公学校で行われている運動会に参加している多くの女子と子供を含む百四十人の日本人の首を切り落として勃発した。そして、鎮圧に向かった日本軍部隊と日本軍によって首狩りを許可された高砂族(味方蕃)によって、蜂起した七百人のセデック族が自殺しまたは殺戮されて事件は鎮圧された。台湾の霧社一帯では、このような対日武装蜂起があり、戦後、蒋介石政権が英雄的反日運動の聖地ともてはやしたが、昭和天皇のお手植えになった木が道路拡張から守られ道路の中で茂っている。

 その日は、セデック族の民宿に泊まり、翌日、民家に招かれた。その家の壁には、霧社事件の時に狩った多くの首を前に置き、その後ろに昂然と並ぶ家人の親たちの写真が架けられていた。これが、最後の首狩りだったのだろう。
この宿泊の際、太い腕の高砂族の元兵士とアルコール50度以上のコーリャン酒の飲み比べをした。
彼がガクッと眠ってしまって私が勝った。またその時、先祖が首狩りに使った刀を見せてくれと頼んで手に取った。我が国の戦場で敵の首を掻く時に使う鎧通し(短刀)と比べれば作りが劣るが、さすが実戦的な、手に持てばゾックとする短刀だった。
また、門脇翁と、東海岸南墺の「サヨンの鐘」を保存している家を訪れた。
サヨンは、十七歳で亡くなった原住民の娘の名前だ。昭和十三年、村の日本人の巡査に徴兵令状が来て、巡査が出頭のため村を離れるとき、村人が巡査の荷物を持って見送った。
その時、巡査との別れを惜しむ十七歳のサヨンも荷物を持って山を下りた。そして、増水した川に落ちてサヨンは亡くなった。
この少女サヨンの悲しい物語は歌となり、李香蘭がサヨンとなって映画化された。また、「サヨンの鐘」も作られた。我々が訪れると、家の人と村の人が、「サヨンの鐘」を鳴らし、西条八十作詞、古賀政男作曲の「サヨンの鐘」の歌の全歌詞を歌ってくれた。その場に門脇翁以外、歌える日本人はいなかった。

台湾について書いてきて、自然と、門脇朝秀先生の回想になってくる。門脇翁との何度かの台湾の旅は、「惜別の旅」でもあった。戦前から、門脇翁と親交があった台湾の人々は皆老人で、門脇翁に会って、懐かしさのあまり泣いた二人の高砂族の元日本兵や頭目の婦人は、その後に直ぐ亡くなった。
ある夜、何度かご一緒した潮州で、門脇翁は、私に言われた。この潮州で死にたいよ
それ故、私は、門脇先生は、日本では死なないと思い込んでいた。それはつまり、今度、台湾に行けば亡くなることになりかねん、ということだった。何しろ百歳を超えておられるのだから。とはいえ、ぼつぼつ、先生、台湾に参りましょうか、と言ってお訪ねしようと思った、その時、先生が倒れられ意識がなくなったという報に接した。
そこで、先生が亡くなられた現在、あらためて確認したい。それは、先生は何故、百歳を越えても、台湾に度々同行して頂き、台湾の人々を紹介してくださったのか、ということだ。朝鮮で生まれ、満州で活動され、満州、支那、朝鮮そして台湾を知り尽くした門脇先生は倒れられる直前に訪れた若い人に、君たちは、中国共産党独裁国家と北朝鮮が崩壊するのを見られる。
  残念ながら、私は、予言はするがそれを自分の目で見ることはできないと言われた。

支那と朝鮮は、昔から、そして、現在と未来も東アジア動乱の策動地だ。その来たるべき動乱の時、海洋の我が国は同じく海洋の台湾と共に、この動乱を克服していかねばならない。
それ故、台湾と日本の、戦前から続く「魂の結びつき」を甦らさねばない。//