■「加瀬英明のコラム」メールマガジン
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日本の「良識」が今日の北朝鮮という妖怪を生んだ
吹けば飛ぶような弱小国の北朝鮮が、日本だけではなく、アメリカも翻弄している。
北朝鮮は人口が僅か2千数百万人、経済が完全に破綻したみすぼらしい国なのに、核弾頭とミサイルの開発を進めてきたために、東アジアの様相を変えようとしている。
私は1977年に韓国に何回も通って、多数の北朝鮮から逃れてきた脱北者(タルプクチャ)をインタビューして、北朝鮮社会の実情をあからさまにした『誰も書かなかった北朝鮮「偉大なる首領さま」の国』(サンケイ出版)を著した。
私はこの本によって、北朝鮮研究の草分けとなった。その後、多くの北朝鮮研究者から、この本によって触発されて、北朝鮮に関心を持ったと聞かされた。
金正恩(キムジョンウン)委員長の祖父の金日成(キムイルソン)による「偉大なる首領さま(ウィデハン・スーリヨンニム)」の朝鮮民主主義人民共和国が誕生したのは、1948年9月のことだった。
日本が1945年8月に第2次大戦に敗れると、38度線以北にソ連軍が進駐し、10月にソ連軍の手によってピョンヤン(平壌)において、「金日成将軍(キムイルソンチャングン)帰国歓迎(キグクファンヨン)平壌市群衆大会(ダンジュンデフェ)」が催され、ソ連軍少佐の軍服を着た30代はじめの壇上に立つ男性が、「金日成(キムイルソン)将軍(チャングン)」として紹介された。
「金日成将軍」(金一成(キムイルソン)、金一星(キムイルソン)としても知られた)は1930年代に、満州国で住民を悩ましていた匪賊団(ひぞくだん)の頭目であり、一部の朝鮮人のあいだで「抗日ゲリラ」として人気を博していたが、30年代なかばに当時の日本語新聞に、日本軍によって討伐されたという記事が載っている。
この平壌大会に参加した朝鮮人の1人は、金日成将軍といえばもっと年長であるはずだから、壇上の青年が“偽者(カッチャインムル)”だと直感したと、私に語っている。
日本が1932年に満州国を建国する前の満州は無法地帯で、匪賊が跋扈(ばっこ)していた。
「金日成」を名乗った男は、本名を「金成柱(キムソンジュ)」といって、満州で跳梁(ちょうりょう)していた匪賊を働いていた盗賊だったが、日本軍の討伐に耐えられずに、ソ連領シベリアへ逃げ込んだ。ソ連は対日戦に備えて、これらの朝鮮人を日本軍の背後を撹乱する遊撃大隊として組織して、金成柱を隊長として起用した。
ソ連は日本統治下の朝鮮にいた朝鮮人を信用しなかったので、金成柱を傀儡(かいらい)として選んだ。金成柱が平壌大会に登場した時には33歳だった。
金日成の死後「聖なる血筋(コウルクチョルトン)」を継いで、2代目の独裁者となった金正日(キムジョンイル)は、朝満国境にある白頭山(ペクトウサン)にあったゲリラ基地で誕生したとされるが、シベリアの粗末なソ連軍兵舎で賄い婦で、金成柱の妻だった金正淑(キムジョンスク)を母として生まれている。
金日成は匪賊出身だったから無教養で、首相に就任するまで、接収した日本人の邸宅に住んでいたが、日本人女中として働き、後に越南して、帰国することができた林和子氏によると、ボール紙で尻を拭いたために、よく水洗便所がつまったと回想している。
朝鮮民主主義人民共和国が発足すると、金日成こと金成柱は首相に就任し、ライバルをつぎつぎと処刑、あるいは暗殺して、独裁体制を確立すると、自分に対する個人崇拝を全国民に行わせて、「唯一思想(ユイルササン)」と「主体思想(チュチェササン)」を国家の基盤に据えた。
もっとも「主体思想」というものの、「主体(チュチェ)」も何もあったものではない。ソ連が崩壊するまでは、ソ連とソ連の衛星国の東ヨーロッパ諸国の経済援助に頼っていたし、韓国、日本、アメリカなどから、たえず金(かね)や食糧を騙し取ることをたくらみ、ドル札、外国タバコの偽造、覚醒剤の密輸出によって稼いだ。
匪賊の出身であるだけに、この国の対外政策は今日まで、すべてが山賊の発想と手口によって行われてきた。北朝鮮は「匪賊国家」なのだ。
在日朝鮮人のパチンコ屋からの巨額にのぼる送金も、大きな収入源だった。私は「金日成」という名を、「日本ハ金(かね)ニ成ル」と読んでいた。
クリントン政権の時に、金日成首席が死亡し、52歳の金正日総書記があとを継ぐと、アメリカは直前まで北朝鮮で飢饉によって100万人以上が餓死していたので、北朝鮮がほどなく崩壊する可能性が高いと誤って予想した。
ところが、北朝鮮は人口が2000万人台と小さいために、体制が揺らがなかった。
人口が厖大(ぼうだい)な中国で王朝が頻繁に交替したのと違って、朝鮮半島では歴代の王朝が酷い政治を行ってきたが、新羅(紀元前57年~935年)、高麗(918年~1392年)、李氏朝鮮(1392年~1910年)も、人口が少なく統制しやすかったから、それぞれ400年以上も続いた。
北朝鮮では国民一人ひとりを、その出身によって、100以上の「成分(ソンプン)」に細かく分類したうえで、いまでも「人民班分組担当制(インミンパンブンジョクムタンジェ)」と呼ばれるが、全住民を5戸単位にして、それぞれ「熱誠覚員(ヨルソンタンウォン)」によって責任指導させて、徹底的に管理している。
私が先の著書を発表した時には、朝日、読売新聞をはじめとする新聞や、著名人が、北朝鮮を「労働者の天国」とか、「地上の楽園」として賞讃していた。
1977年に、朝日新聞が『北朝鮮みたまま』という連載を行ったが、「抜きん出る主席の力」「開明君主」「建国の経歴に敬意」といった、歯が浮くような見出しが続いていた。
この連載の「こどもは物心つくと金日成主席の故郷、マンギョンデ(万葉台)の模型を前に、いかに主席が幼い日から革命指導者としての資質を発揮したか教えられ、それを自分で説明できる」という記事は、まるで籠池泰典氏の森友学園の幼稚園のようではないか。
1968年に、日本婦人団体連合会会長だった櫛田ふき女史は、「朝鮮民主主義人民共和国創建20周年」の慶祝大会に招かれて、次のように書いている。
「数万の観衆は、ただただ賛嘆の声を放つばかりでした。その夜大劇場でくりひろげられた、うたとおどりから成る大史劇とともに、私たちは日も夜も感激のるつぼの中で心をもやすのでした。(中略)
金日成主席の卓越した指導のもとで、党と政府と人民の1枚岩の団結を、ここでもはっきりと見る思いがしました。そうでなかったら、どうしてこんなすばらしい国を挙げての大祝典を、これほどまでに成功させることができたでしょうか。
“金日成将軍の歌”がどこからともなく聞こえてきます。数千の風船が舞いあがった平壌の空に、夜は5色の花火が巨大な模様をえがきだし、歓喜のどよめきは夜ふけまでつづきました」(『チュチェの国朝鮮を訪れて』)
1974年に、槇枝元文日教組委員長が訪朝して、こう書いている。
「この国は、みんなが労働者であって資本家搾取者がいない。みんながよく働き、生産をあげればあげるほどみんなの財産がふえ、みんなの生活がそれだけ豊かになる。この共産主義経済理論を徹底的に教育し、学習し、自覚的に労働意欲を高めている。またこのことは、労働――生産――生活の体験を通して現実的にも実証されているから国民の間に疑いがない。
全国が学習しよう、全党が学習しよう、全人民が学習しようというスローガンのもとに、毎日2時間(労働時間終了後)、土曜日の午後半日、学習することが制度化されている」(『チュチェの国朝鮮を訪れて』)
1976年に、作家の三好徹氏が北朝鮮に招かれて、「社会主義メルヘンの国」と呼んで、絶賛した。
「主席に会えなかったのは残念ですが、どういう人かということは、おぼろげながらわかりました。キム・イルソンという人は、天が朝鮮の人々のためにこの地上に送ったような人だということです」(『今日の朝鮮』)
1977年に、創価大学の城戸又一教授は金日成主席について、「朝鮮に来て以来、朝に夕に、1日中、寝ても覚めても、といってもいいくらい、『わが偉大なる主席金日成同志』『敬愛する金日成主席』『父なる主席金日成さま』など、主席の名を口にするときは、必ずその前に、何らかのほめことばを付けずにいうことはないほど、人民大衆の尊敬を一身に集めている人である」(『世界』1月号)と書いている。
1976年に、小田実氏が訪朝して、金日成主席と会見したうえで、「『北朝鮮』を『南侵』の準備態勢にある国として見るには、きちがいじみた猜疑心と想像力を必要とするにちがいない」(朝日ジャーナル、1976年)と、書いている。当時、小田氏といえば、日本の青年男女の寵児(ちょうじ)だった。
小田氏は2007年に物故したが、存命されていたら、いま、何といわれることだろうか。私はかねてから北朝鮮が「山賊国家」だと説いてきたが、狂っていたのか、桁外(けたはず)れた想像力に溢れてきたにちがいない。
私は先の櫛田女史の訪朝記を読んで、かつてナチス・ドイツを礼讃した朝日新聞の記事が、二重映しとなった。
「かつ色シャツ制服の『暴風団』は密集長蛇の行列を立てて指揮官の音頭に雷の様な標語を唱和する――。ドイツ国、さめよ! ユダよ、くたばれ! 1928年9月には御大(おんたい)のヒトラーがベルリンの『スポーツバラスト』に姿を現し未曽有の大集会を催して狂欣(きん)しをえつする人民に叫びかける――『ハイル・ヒトラー!』(万歳)」(朝日新聞、昭和7年10月2日、『ナチスは叫ぶ』)
戦前、朝日新聞は、ヒトラーのナチス・ドイツを紙面をあげて、礼讃したものだった。
私は土井たか子日本社会党委員長、読売新聞の高木健夫論説委員をはじめ、北朝鮮を手放しで絶賛した多くの発言を、まだ引用することができるが、同じ日本人として恥しいから、ここまでにしたい。
私は1974年に、36歳で日本ペンクラブの理事になった。77年に韓国で反体制詩人の金芝河(キムジハ)氏が、朴正煕(パクチョンヒ)政権を批判する詩集『五賊』を発表したために、投獄される事件が起った。
ペンクラブ理事会で、韓国政府の言論弾圧を非難する決議を行う提案が行われた。私は北朝鮮は表現の自由が完全に圧殺されているから、北朝鮮をあわせて糾弾(きゅうだん)すべきだと反論した。まだ韓国のほうが、自由だった。すると、理事だった三好誠氏が、北朝鮮には「言論弾圧はまったくない」と、嘯(うそぶ)いた。
韓国を非難する決議が行われた。私は阿呆(あほ)らしいので、抗議の記者会見を開いたうえで、クラブから脱退した。
そういえば、作家の豊田有恒氏がWiLL『歴史通』2017年11月号に寄稿した、「朝日新聞が讃えたヒトラーと金日成」のなかで、「この新聞の当時のナチスへの傾斜と北朝鮮報道の類似について初めて言及したのは、加瀬英明さんである。ヒトラーを褒めちぎったのと同様の筆致で、金日成を称えてみせたのである」と、指摘している。
私は日本の「良識」を、まったく信じない。
つい、15年前の2002年まで、NHKをはじめとして、大手のすべてのテレビ局が、北朝鮮に言及する時に、「チョーセンミンシュシュギジンミンキョウワコク」と、正式国名をいわなければならなかった。なぜなのか北朝鮮だけを、正式国名で呼ばなければならなかった。
当時、私は北朝鮮をそう呼ばねばならないのは、まるで「寿限無寿限無五劫(ジュゲムジュゲムゴコウ)のすり切れ、パイポパイポパイポのシューリンガン‥‥」のようで、「バカバカしい」と、批判した。
もし正式国名で呼ばなければ、良識に反するのなら、どうしてドイツを「ドイッチェラント」、なぜイギリスを「ブリテン連合王国」、ギリシアを「ヘラス」と呼ば//
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日本の「良識」が今日の北朝鮮という妖怪を生んだ
吹けば飛ぶような弱小国の北朝鮮が、日本だけではなく、アメリカも翻弄している。
北朝鮮は人口が僅か2千数百万人、経済が完全に破綻したみすぼらしい国なのに、核弾頭とミサイルの開発を進めてきたために、東アジアの様相を変えようとしている。
私は1977年に韓国に何回も通って、多数の北朝鮮から逃れてきた脱北者(タルプクチャ)をインタビューして、北朝鮮社会の実情をあからさまにした『誰も書かなかった北朝鮮「偉大なる首領さま」の国』(サンケイ出版)を著した。
私はこの本によって、北朝鮮研究の草分けとなった。その後、多くの北朝鮮研究者から、この本によって触発されて、北朝鮮に関心を持ったと聞かされた。
金正恩(キムジョンウン)委員長の祖父の金日成(キムイルソン)による「偉大なる首領さま(ウィデハン・スーリヨンニム)」の朝鮮民主主義人民共和国が誕生したのは、1948年9月のことだった。
日本が1945年8月に第2次大戦に敗れると、38度線以北にソ連軍が進駐し、10月にソ連軍の手によってピョンヤン(平壌)において、「金日成将軍(キムイルソンチャングン)帰国歓迎(キグクファンヨン)平壌市群衆大会(ダンジュンデフェ)」が催され、ソ連軍少佐の軍服を着た30代はじめの壇上に立つ男性が、「金日成(キムイルソン)将軍(チャングン)」として紹介された。
「金日成将軍」(金一成(キムイルソン)、金一星(キムイルソン)としても知られた)は1930年代に、満州国で住民を悩ましていた匪賊団(ひぞくだん)の頭目であり、一部の朝鮮人のあいだで「抗日ゲリラ」として人気を博していたが、30年代なかばに当時の日本語新聞に、日本軍によって討伐されたという記事が載っている。
この平壌大会に参加した朝鮮人の1人は、金日成将軍といえばもっと年長であるはずだから、壇上の青年が“偽者(カッチャインムル)”だと直感したと、私に語っている。
日本が1932年に満州国を建国する前の満州は無法地帯で、匪賊が跋扈(ばっこ)していた。
「金日成」を名乗った男は、本名を「金成柱(キムソンジュ)」といって、満州で跳梁(ちょうりょう)していた匪賊を働いていた盗賊だったが、日本軍の討伐に耐えられずに、ソ連領シベリアへ逃げ込んだ。ソ連は対日戦に備えて、これらの朝鮮人を日本軍の背後を撹乱する遊撃大隊として組織して、金成柱を隊長として起用した。
ソ連は日本統治下の朝鮮にいた朝鮮人を信用しなかったので、金成柱を傀儡(かいらい)として選んだ。金成柱が平壌大会に登場した時には33歳だった。
金日成の死後「聖なる血筋(コウルクチョルトン)」を継いで、2代目の独裁者となった金正日(キムジョンイル)は、朝満国境にある白頭山(ペクトウサン)にあったゲリラ基地で誕生したとされるが、シベリアの粗末なソ連軍兵舎で賄い婦で、金成柱の妻だった金正淑(キムジョンスク)を母として生まれている。
金日成は匪賊出身だったから無教養で、首相に就任するまで、接収した日本人の邸宅に住んでいたが、日本人女中として働き、後に越南して、帰国することができた林和子氏によると、ボール紙で尻を拭いたために、よく水洗便所がつまったと回想している。
朝鮮民主主義人民共和国が発足すると、金日成こと金成柱は首相に就任し、ライバルをつぎつぎと処刑、あるいは暗殺して、独裁体制を確立すると、自分に対する個人崇拝を全国民に行わせて、「唯一思想(ユイルササン)」と「主体思想(チュチェササン)」を国家の基盤に据えた。
もっとも「主体思想」というものの、「主体(チュチェ)」も何もあったものではない。ソ連が崩壊するまでは、ソ連とソ連の衛星国の東ヨーロッパ諸国の経済援助に頼っていたし、韓国、日本、アメリカなどから、たえず金(かね)や食糧を騙し取ることをたくらみ、ドル札、外国タバコの偽造、覚醒剤の密輸出によって稼いだ。
匪賊の出身であるだけに、この国の対外政策は今日まで、すべてが山賊の発想と手口によって行われてきた。北朝鮮は「匪賊国家」なのだ。
在日朝鮮人のパチンコ屋からの巨額にのぼる送金も、大きな収入源だった。私は「金日成」という名を、「日本ハ金(かね)ニ成ル」と読んでいた。
クリントン政権の時に、金日成首席が死亡し、52歳の金正日総書記があとを継ぐと、アメリカは直前まで北朝鮮で飢饉によって100万人以上が餓死していたので、北朝鮮がほどなく崩壊する可能性が高いと誤って予想した。
ところが、北朝鮮は人口が2000万人台と小さいために、体制が揺らがなかった。
人口が厖大(ぼうだい)な中国で王朝が頻繁に交替したのと違って、朝鮮半島では歴代の王朝が酷い政治を行ってきたが、新羅(紀元前57年~935年)、高麗(918年~1392年)、李氏朝鮮(1392年~1910年)も、人口が少なく統制しやすかったから、それぞれ400年以上も続いた。
北朝鮮では国民一人ひとりを、その出身によって、100以上の「成分(ソンプン)」に細かく分類したうえで、いまでも「人民班分組担当制(インミンパンブンジョクムタンジェ)」と呼ばれるが、全住民を5戸単位にして、それぞれ「熱誠覚員(ヨルソンタンウォン)」によって責任指導させて、徹底的に管理している。
私が先の著書を発表した時には、朝日、読売新聞をはじめとする新聞や、著名人が、北朝鮮を「労働者の天国」とか、「地上の楽園」として賞讃していた。
1977年に、朝日新聞が『北朝鮮みたまま』という連載を行ったが、「抜きん出る主席の力」「開明君主」「建国の経歴に敬意」といった、歯が浮くような見出しが続いていた。
この連載の「こどもは物心つくと金日成主席の故郷、マンギョンデ(万葉台)の模型を前に、いかに主席が幼い日から革命指導者としての資質を発揮したか教えられ、それを自分で説明できる」という記事は、まるで籠池泰典氏の森友学園の幼稚園のようではないか。
1968年に、日本婦人団体連合会会長だった櫛田ふき女史は、「朝鮮民主主義人民共和国創建20周年」の慶祝大会に招かれて、次のように書いている。
「数万の観衆は、ただただ賛嘆の声を放つばかりでした。その夜大劇場でくりひろげられた、うたとおどりから成る大史劇とともに、私たちは日も夜も感激のるつぼの中で心をもやすのでした。(中略)
金日成主席の卓越した指導のもとで、党と政府と人民の1枚岩の団結を、ここでもはっきりと見る思いがしました。そうでなかったら、どうしてこんなすばらしい国を挙げての大祝典を、これほどまでに成功させることができたでしょうか。
“金日成将軍の歌”がどこからともなく聞こえてきます。数千の風船が舞いあがった平壌の空に、夜は5色の花火が巨大な模様をえがきだし、歓喜のどよめきは夜ふけまでつづきました」(『チュチェの国朝鮮を訪れて』)
1974年に、槇枝元文日教組委員長が訪朝して、こう書いている。
「この国は、みんなが労働者であって資本家搾取者がいない。みんながよく働き、生産をあげればあげるほどみんなの財産がふえ、みんなの生活がそれだけ豊かになる。この共産主義経済理論を徹底的に教育し、学習し、自覚的に労働意欲を高めている。またこのことは、労働――生産――生活の体験を通して現実的にも実証されているから国民の間に疑いがない。
全国が学習しよう、全党が学習しよう、全人民が学習しようというスローガンのもとに、毎日2時間(労働時間終了後)、土曜日の午後半日、学習することが制度化されている」(『チュチェの国朝鮮を訪れて』)
1976年に、作家の三好徹氏が北朝鮮に招かれて、「社会主義メルヘンの国」と呼んで、絶賛した。
「主席に会えなかったのは残念ですが、どういう人かということは、おぼろげながらわかりました。キム・イルソンという人は、天が朝鮮の人々のためにこの地上に送ったような人だということです」(『今日の朝鮮』)
1977年に、創価大学の城戸又一教授は金日成主席について、「朝鮮に来て以来、朝に夕に、1日中、寝ても覚めても、といってもいいくらい、『わが偉大なる主席金日成同志』『敬愛する金日成主席』『父なる主席金日成さま』など、主席の名を口にするときは、必ずその前に、何らかのほめことばを付けずにいうことはないほど、人民大衆の尊敬を一身に集めている人である」(『世界』1月号)と書いている。
1976年に、小田実氏が訪朝して、金日成主席と会見したうえで、「『北朝鮮』を『南侵』の準備態勢にある国として見るには、きちがいじみた猜疑心と想像力を必要とするにちがいない」(朝日ジャーナル、1976年)と、書いている。当時、小田氏といえば、日本の青年男女の寵児(ちょうじ)だった。
小田氏は2007年に物故したが、存命されていたら、いま、何といわれることだろうか。私はかねてから北朝鮮が「山賊国家」だと説いてきたが、狂っていたのか、桁外(けたはず)れた想像力に溢れてきたにちがいない。
私は先の櫛田女史の訪朝記を読んで、かつてナチス・ドイツを礼讃した朝日新聞の記事が、二重映しとなった。
「かつ色シャツ制服の『暴風団』は密集長蛇の行列を立てて指揮官の音頭に雷の様な標語を唱和する――。ドイツ国、さめよ! ユダよ、くたばれ! 1928年9月には御大(おんたい)のヒトラーがベルリンの『スポーツバラスト』に姿を現し未曽有の大集会を催して狂欣(きん)しをえつする人民に叫びかける――『ハイル・ヒトラー!』(万歳)」(朝日新聞、昭和7年10月2日、『ナチスは叫ぶ』)
戦前、朝日新聞は、ヒトラーのナチス・ドイツを紙面をあげて、礼讃したものだった。
私は土井たか子日本社会党委員長、読売新聞の高木健夫論説委員をはじめ、北朝鮮を手放しで絶賛した多くの発言を、まだ引用することができるが、同じ日本人として恥しいから、ここまでにしたい。
私は1974年に、36歳で日本ペンクラブの理事になった。77年に韓国で反体制詩人の金芝河(キムジハ)氏が、朴正煕(パクチョンヒ)政権を批判する詩集『五賊』を発表したために、投獄される事件が起った。
ペンクラブ理事会で、韓国政府の言論弾圧を非難する決議を行う提案が行われた。私は北朝鮮は表現の自由が完全に圧殺されているから、北朝鮮をあわせて糾弾(きゅうだん)すべきだと反論した。まだ韓国のほうが、自由だった。すると、理事だった三好誠氏が、北朝鮮には「言論弾圧はまったくない」と、嘯(うそぶ)いた。
韓国を非難する決議が行われた。私は阿呆(あほ)らしいので、抗議の記者会見を開いたうえで、クラブから脱退した。
そういえば、作家の豊田有恒氏がWiLL『歴史通』2017年11月号に寄稿した、「朝日新聞が讃えたヒトラーと金日成」のなかで、「この新聞の当時のナチスへの傾斜と北朝鮮報道の類似について初めて言及したのは、加瀬英明さんである。ヒトラーを褒めちぎったのと同様の筆致で、金日成を称えてみせたのである」と、指摘している。
私は日本の「良識」を、まったく信じない。
つい、15年前の2002年まで、NHKをはじめとして、大手のすべてのテレビ局が、北朝鮮に言及する時に、「チョーセンミンシュシュギジンミンキョウワコク」と、正式国名をいわなければならなかった。なぜなのか北朝鮮だけを、正式国名で呼ばなければならなかった。
当時、私は北朝鮮をそう呼ばねばならないのは、まるで「寿限無寿限無五劫(ジュゲムジュゲムゴコウ)のすり切れ、パイポパイポパイポのシューリンガン‥‥」のようで、「バカバカしい」と、批判した。
もし正式国名で呼ばなければ、良識に反するのなら、どうしてドイツを「ドイッチェラント」、なぜイギリスを「ブリテン連合王国」、ギリシアを「ヘラス」と呼ば//