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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2017年10月15日 第1635号 )

            
  ☆☆甦れ美しい日本☆☆


☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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目次
◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 625」
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◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 625」

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≪(承前)日清戦争を通じての陸奥は、きわめて厳しい状況を、万難を排して前進した。

陸奥は結核を患い、血痰を吐き、高熱を冒し、命を削りながら難局に当たったのである。対内的には議会対策、対外的には、三国干渉があり、その舵取りは困難を極めた。

 陸奥の言わんとする処は、「この国の存亡にかかわる難局に際して、ただひたすら献身して全力を尽くした。その結果、やってきた三国干渉は、結局は避けがたく、どうやったとしてもああいう結果にならざるを得なかっただろう」ということであった。

これを率直に記した一節が、『蹇蹇録』の最終段にある。

「畢竟我にありてはその進むを得べき地に進み、その止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当らしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」

(つまり、日本は、行けるところまで行き、とどまるべきところにどどまったのであって、自分としては、誰がこの場に当たっても、これ以上の策はなかったと思う)

ここまで分かれば、このメモワールに『蹇蹇録』という標題をつけた意味も分かり、また、当時の知識人の教養の深さを垣間見ることができる。

 メモワールを書くことは、欧米の外交官の間ではほとんど習慣になっており、名作も多い。キッシンジャーや、ウィストン・チャーチル、ド・ゴールのメモワールなどは、歴史的文献として必要不可欠な文書である。

 しかし、日本の政治家や外交官では、断片的な回顧録のようなものはあるが、歴史家が資料として尊重するような本格的なメモワールは少ない。その少ない中でも、陸奥の『蹇蹇録』は、他と比べようがないくらい卓越した内容をもっている。

日清戦争を通じての陸奥の外交そのものが芸術作品であると同時に、「蹇蹇録」の文章そのものもまた、その背後の陸奥の類まれな教養を背景として一個の芸術である。

あるいは、その芸術性も考えると、チャーチル、キッシンジャーも凌ぐ世界最高のメモワールと言っても良いかもしれないと、私は真剣に思っている。ただし、外人は、これを較べて読むことは不可能であるから、私個人の感想に過ぎないことになってしまう。これは日本文化と言うものの宿命であり、やむを得ないことであろう≫

そこに我が国独特の“日本語”の性格が出ているのだが、それは伝統・文化だから致し方あるまい。更に昔は、漢詩や和歌など、とても英語に翻訳することは不可能だと思われるものがあったが、そのような≪含蓄に富む≫文章は、外人には好まれない。故に歴史的文書として価値が見出される事もない。

そしていよいよこれから岡崎氏は「蹇蹇録」を1章づつ解説していくのであるが、次の項目である「東学党の乱」は、「その後の日清戦争の全局を決したものだ」と陸奥は判断しているという。

≪東学党は、一種の新興宗教から発生した社会的運動だった。それが、排外的な色彩を帯び、明治二十六年(一八九三)ごろから、ソウルでは東学党による外人追放集会などが開かれ、在留邦人は日本刀を携行したり、婦女子の引き揚げ準備を始めていた。

明治二十七年四月から、東学党・全?準率いる農民一揆が全羅・忠清両道に広がる。

朝鮮政府は政府軍八百名を派遣したが、それとともに、従来、朝鮮内における清国の勢力拡大の機をうかがっていた清国側の言も受けて、高官・閔泳駿は六月三日に清国に派兵を要請。李鴻章は、約三千名を牙山に派兵する。

ここで清国に機先を制せられては壬申の変の二の舞となるので、日本も対抗できる兵力を送らねばならない。しかし、中国本土から仁川まで、汽船で十時間余りで派兵が可能だが、日本からは、当時の鉄道の終点・宇品港からさらに四十時間を要した。それだけでも日本は不利であった。その不利な条件を克服するために、陸奥は諸事極めて敏捷に対処する必要があった。歴史家・王芸生は、日清戦争を回顧して、「悉く、日本側に機先を制せられた」と慨嘆しているが、この陸奥の判断と行動の速さは、その後の日清戦争の全局を決するほどの意義があったと言える≫

「外交と軍事は車の両輪」とはよく言われる言葉だが、この場合は、陸奥と言う外交の名手が、軍事の要訣を十分に理解していたから可能だったのだと言えよう。

時代が過ぎて、これが大正・昭和に入り、国家機関もそれぞれ充実し、その道の専門家が育つにつれて、この様な感覚が失われていったように私は感じる。

その代表的なものが、日米開戦前夜における「在ワシントン日本大使館」の館員たちのたるみ振りであろう。サボタージュと言ってもよいほどだ。

外交官は「外交専門」、軍人は「軍事専門」と言う分業制度が確立していて、国家としての外交の総合機能は作用していなかったのである。これについて岡崎氏は、

≪早い段階から、陸奥外相は、京城駐在の袁世凱と懇意だった駐韓臨時代理公使・杉村濬から、朝鮮から清への派兵要請の動きを察知していた。

杉村という人物は、「朝鮮に在勤すること前後数年、すこぶるその国情に通暁するを以って政府はもちろんその報告に信拠し居たり」と信頼を寄せている。杉村は、新聞記者時代から、朝鮮に関心を持って、朝鮮論を書き、自ら志願して外務省に勤務し、それまで十数年間、朝鮮問題ばかりに専念していた。

日清戦争勃発の時点で、日本外務省は、すでに、これだけの能力がある地域専門家を持っていたのである≫

創設間もない当時の外務省が、半島有事に備えてこのような傑出した人材を配置していたことは特筆に値する。これも陸奥の眼力の賜物だったと言えようが、その後、組織が整備され、高級官僚養成機関である東京大学が整備されてくるに従い、そのような“気風”が消滅していったのはどうしてなのだろうか?尤もこれは軍にも当てはまる。将校養成を目的にした軍学校が整ってくると、外務省と同様に、派閥争いと出世競争が目立ってくるのだ。これは島国日本の宿痾ともいうべきものか?(元空将)

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