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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2017年9月8日 第1630号 )
☆☆甦れ美しい日本☆☆
☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 620」
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◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 620」
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≪(承前)その運命のいたずらを知るには、典型的な江戸時代の文化人であった陸奥の父・伊達宗広(一八〇二~一八七七)の生涯から説き起こさねばならない。
父・宗広が活躍した明治時代より四半世紀前の文化、文政、天保の時代(一八〇四~一八四二は、江戸文化の最後の華であり、歌舞伎、浮世絵など日本文化として今に残るものは、大体、この時代に完成したものである。
伊達家は、紀州藩三百石の上士の家柄で、宗広は出世を重ねて、嘉水五年(一八五二)に失脚する時には八百石の大身になっていた。ちなみに、陸奥という名は、伊達が陸奥の国の一郡の名であるので、一郡よりも一国の名を名乗ろうということで、後に宗光自身がつけた苗字である。これも志を大きく持とうという当時の気風を表している≫
伊達と言う一郡の名前を、一国の陸奥に改めるという志の大きさは、並大抵のものではない。明治期に開校された札幌農学校に教頭として招かれたW.S.クラークが“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)と訓育したことは有名だが、そのクラークの感化により、内村鑑三、新渡戸稲造という稀有な人材を輩出したことに通じる。
宗光と言い、クラークと言い、時代の先駆者とは、どこか発想が違っている。それは先が読めているからであろう。そしてその“僅かな改革”で最大の効果を収めるものだ。
≪紀州藩は徳川御三家の中でも徳川吉宗以降の歴代将軍を生みだした権威を待ち、その上土といえば、将軍直参の侍に次ぐ、江戸時代のエリート中のエリートであった。宗広はその傑出した才覚によって、十五歳で藩主・舜恭公の小姓になったのを振り出しに、十八歳で藩の監察に就任し、その後も要職から要職を経て、四十七歳で勘定奉行(紀州藩の大蔵大臣)に上り詰める。
宗広は、後に、自得翁と号し儒仏和歌の奥義を極め、日本歴史にも新解釈を下し、幕府の衰亡を予見した幕末の最高の知識人であるが、役職にある間は経営の才も発揮した≫
文武両道とはまさにこのことを言うのであろう。今風に言えば《マルチタレント》とでもいうべきか。
≪幕末は、各藩、おしなべて財政難であった。平和が二世紀半続けば、どこも財政は硬直化する。世は江戸末期の爛熟期で、上下ともに驕奢、華美を競う風潮で、加えて舜恭公も派手な性格だったために、藩の出費をやりくりするのは大変だった。
それを救ったのが宗広である。殖産興業に努め、当時、紀ノ川沿岸の木綿畑の村々が窮乏していたのを救済するために黄八丈という黄色い縞地を織らせた。それを役者に着せて道頓堀の劇場で踊りながら唄わせて、大いに流行らせたが、そのときの歌は宗広自作という才人ぶりであった。
さらに大きく財政に貢献したのは、かつて徳川吉宗が熊野三山の寺社に寄付した資金を元手に、藩直営の貸し付け事業を行った。芝三山貸付所には葵の幕を張り巡らせて、一万石以上の大名や、寺社、町人に貸し付け、月一割の利子を取った。加賀、薩摩のような大藩さえも、これを利用したという。徳川将軍家の権威の下、信用は絶大で、貸し倒れもなく、返済しなければ幕府に訴え先取りの権利を得ていたので、たちまち大成功になった≫
その背景にあるのは、利己主義ならぬ“利他の精神”で貫かれていたことだろう。戦後復興に貢献した商業活動家達にはまだこの精神が残っていた。しかし、「もはや戦後は終わった」とされて以降、この利他の精神はかすんでいき、個人的利益を追求する風潮が頭をもたげてきた、と私は感じているのだが、要約すればこの時期から戦前の「士農工商」の精神が崩れ、その順位が「商農工・・・士」に変化したのである。しかし、一気にそう変化することはあるまいから、その変化の兆しは、明治後期から大正時代にあったものと思われる。
私はよく言われる「大正デモクラシー」にその要因があると考えているが、「大正デモクラシー」と言う用語自体に諸説ある。
しかし概説すれば「政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された時代(ウィキ)」であるとされるが、戦後のわが国の政情に酷似しているから不思議である。
≪しかし、これが裏目に出た。武家社会において、財政危機を打開する対策の正攻法は緊縮財政であり奢侈禁止であった。宗広の政策が如何に成功したとしても、「たかがカネのことで」、「武士がそこまでしなくても」という批判が起こってきた。
宗広失脚の公式記録は「奢侈」である。しかし、真の原因は権力闘争であった。国許の老公・舜恭公を囲むお国派と、江戸の幼君を擁する江戸派の権力闘争であり、老公の死と同時に、江戸派によるお国派の粛清が始まったのである。
粛清は苛酷であった。宗広は、和歌山・川辺に流され、残された家族は家禄も取り上げられ、和歌山城下十里払いとなる。生活の資も奪われ流浪しなければならない。これを聞いた時、宗光はまだ九歳の子供であったが、虎のように荒れ狂い、床の間にあった先祖重代の刀を抜いて表に飛び出そうとした≫
いつの時代にも“大人たち”の権力闘争はつきものだと言うことが判る。現代の世界情勢にもこれと同様な現象が起きているというのは言い過ぎか?(元空将)
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父・宗広が活躍した明治時代より四半世紀前の文化、文政、天保の時代(一八〇四~一八四二は、江戸文化の最後の華であり、歌舞伎、浮世絵など日本文化として今に残るものは、大体、この時代に完成したものである。
伊達家は、紀州藩三百石の上士の家柄で、宗広は出世を重ねて、嘉水五年(一八五二)に失脚する時には八百石の大身になっていた。ちなみに、陸奥という名は、伊達が陸奥の国の一郡の名であるので、一郡よりも一国の名を名乗ろうということで、後に宗光自身がつけた苗字である。これも志を大きく持とうという当時の気風を表している≫
伊達と言う一郡の名前を、一国の陸奥に改めるという志の大きさは、並大抵のものではない。明治期に開校された札幌農学校に教頭として招かれたW.S.クラークが“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)と訓育したことは有名だが、そのクラークの感化により、内村鑑三、新渡戸稲造という稀有な人材を輩出したことに通じる。
宗光と言い、クラークと言い、時代の先駆者とは、どこか発想が違っている。それは先が読めているからであろう。そしてその“僅かな改革”で最大の効果を収めるものだ。
≪紀州藩は徳川御三家の中でも徳川吉宗以降の歴代将軍を生みだした権威を待ち、その上土といえば、将軍直参の侍に次ぐ、江戸時代のエリート中のエリートであった。宗広はその傑出した才覚によって、十五歳で藩主・舜恭公の小姓になったのを振り出しに、十八歳で藩の監察に就任し、その後も要職から要職を経て、四十七歳で勘定奉行(紀州藩の大蔵大臣)に上り詰める。
宗広は、後に、自得翁と号し儒仏和歌の奥義を極め、日本歴史にも新解釈を下し、幕府の衰亡を予見した幕末の最高の知識人であるが、役職にある間は経営の才も発揮した≫
文武両道とはまさにこのことを言うのであろう。今風に言えば《マルチタレント》とでもいうべきか。
≪幕末は、各藩、おしなべて財政難であった。平和が二世紀半続けば、どこも財政は硬直化する。世は江戸末期の爛熟期で、上下ともに驕奢、華美を競う風潮で、加えて舜恭公も派手な性格だったために、藩の出費をやりくりするのは大変だった。
それを救ったのが宗広である。殖産興業に努め、当時、紀ノ川沿岸の木綿畑の村々が窮乏していたのを救済するために黄八丈という黄色い縞地を織らせた。それを役者に着せて道頓堀の劇場で踊りながら唄わせて、大いに流行らせたが、そのときの歌は宗広自作という才人ぶりであった。
さらに大きく財政に貢献したのは、かつて徳川吉宗が熊野三山の寺社に寄付した資金を元手に、藩直営の貸し付け事業を行った。芝三山貸付所には葵の幕を張り巡らせて、一万石以上の大名や、寺社、町人に貸し付け、月一割の利子を取った。加賀、薩摩のような大藩さえも、これを利用したという。徳川将軍家の権威の下、信用は絶大で、貸し倒れもなく、返済しなければ幕府に訴え先取りの権利を得ていたので、たちまち大成功になった≫
その背景にあるのは、利己主義ならぬ“利他の精神”で貫かれていたことだろう。戦後復興に貢献した商業活動家達にはまだこの精神が残っていた。しかし、「もはや戦後は終わった」とされて以降、この利他の精神はかすんでいき、個人的利益を追求する風潮が頭をもたげてきた、と私は感じているのだが、要約すればこの時期から戦前の「士農工商」の精神が崩れ、その順位が「商農工・・・士」に変化したのである。しかし、一気にそう変化することはあるまいから、その変化の兆しは、明治後期から大正時代にあったものと思われる。
私はよく言われる「大正デモクラシー」にその要因があると考えているが、「大正デモクラシー」と言う用語自体に諸説ある。
しかし概説すれば「政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された時代(ウィキ)」であるとされるが、戦後のわが国の政情に酷似しているから不思議である。
≪しかし、これが裏目に出た。武家社会において、財政危機を打開する対策の正攻法は緊縮財政であり奢侈禁止であった。宗広の政策が如何に成功したとしても、「たかがカネのことで」、「武士がそこまでしなくても」という批判が起こってきた。
宗広失脚の公式記録は「奢侈」である。しかし、真の原因は権力闘争であった。国許の老公・舜恭公を囲むお国派と、江戸の幼君を擁する江戸派の権力闘争であり、老公の死と同時に、江戸派によるお国派の粛清が始まったのである。
粛清は苛酷であった。宗広は、和歌山・川辺に流され、残された家族は家禄も取り上げられ、和歌山城下十里払いとなる。生活の資も奪われ流浪しなければならない。これを聞いた時、宗光はまだ九歳の子供であったが、虎のように荒れ狂い、床の間にあった先祖重代の刀を抜いて表に飛び出そうとした≫
いつの時代にも“大人たち”の権力闘争はつきものだと言うことが判る。現代の世界情勢にもこれと同様な現象が起きているというのは言い過ぎか?(元空将)
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