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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)8月13日(日曜日)
通巻第5390号
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<< 日曜版 読書特集 >>
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宮崎克則『シーボルト「NIPPON」の書誌学研究』(花乱社)
前田雅之『保田輿重郎 近代・古典・日本』(勉誠出版)
樋泉克夫のコラム
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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長崎出島のオランダ商館付属医師として日本にやってきたシーボルト
帰国後、二十年もの歳月をかけて書いた日本紹介本が現代に蘇った
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宮崎克則『シーボルト「NIPPON」の書誌学研究』(花乱社)
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稀有な一冊である。評者(宮崎)がこの本に惹かれたのは単に幕末史の側面としてではなく、もうすこし世界史的観点からだった。
英国の歴史学者チャールズ・マックファーレンが、日本に来たこともないのに『日本 1852』(渡邊惣樹訳、草思社文庫)を出した。
これは当時欧州で出回っていたあらゆる日本関係の史料を集め、関係者を訪ね、フランスやドイツ、オランダなどに眠っていた文献もあつめて日本を論じたものだ。
マルコポーロの法螺話とは異なって、ほぼ正確に日本の全貌をあらわしていた。出島にいたのはオランダ人ばかりではなく、オランダ人と偽証する人も混ざっていて、彼らからも聴き集め、じつは出航前のペリーが読んでいた。ペリーは長い航海中に、熟読していたのだ。そのペリーが日本に開国を迫ったことは小学生でも知っているが、ミカドと幕府の二重権力構造も把握していたうえ、江戸湾への海図も持っていた。日本人との交渉の遣り方も知っていた。
つまりシーボルトがもたらした日本の情報が、ペリーの遠征に大いに役に立ったのである。
シーボルトは当時禁止されていた日本地図を持ち出したのだ。かわりに彼はロシアの克明な地図を置いていった。
シーボルトが日本から追放されてからいったい何をしていたかと言えば、20年の歳月をかけて、この『NIPPON』を執筆し、自費出版していた。シリーズで順次発行され、初版は僅か300部、最後は60部だった。
本書の扉に配置されている当時の日本地図がおどろくほど正鵠に、日本の地形、地勢、港湾、その距離を描き出していることは衝撃である。
シーボルトは主として博物調査だったから、幕末の江戸の社会風俗、文化や産業、そして身分のよる服装の相違など、図版が367点も収録されており、斯界に衝撃を与えた。ドイツ語版、フランス語、そしてロシア語版も刊行された。
かつて評者は長崎を散策中に、偶然、シーボルト記念館をみつけ、見学したことがある。たしかに『NIPPON』の一部が展示されていたけれども、記念館ですら全部を揃えていない。
原本は製本されないで分冊形式だったため、完全な復刻は不可能だが、著者の宮崎克則氏は、これを九州大学医学部の図書館分館で発見したのである。大正15年に3000円で購入という記録があった。
シーボルトが日本に赴任したのは出島の付属医師としてで、僅か27歳で、年収三千万円だったという。出島だけでは飽きたらず、シーボルトは市内で医療をほどこし、また西洋医学を教えた。日本には従来なかった治療法を紹介し、さらには市内に塾を開くことも許されるほどだった。
いま、シーボルトが果たした歴史的な意議が、再評価される。
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「伝説の文士」保田輿重郎の若き日々と作品を時系列に解題
日本武尊、木曾義仲、そして後鳥羽院へと思想変遷の系譜
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前田雅之『保田輿重郎 近代・古典・日本』(勉誠出版)
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『表現者』(富岡幸一郎編集長)に連載中、何回か読んだが、なにしろ連載は六年にも及んだので、いずれ一冊に纏まったらちゃんと読み直そうと考えていた。したがって読み飛ばしたチャプターがいくつかある。
単行本となって、居ずまいを正し最初から読み直した。前田氏は独特の辛口で批評を展開する国文学者。その切り口は独自的だが、氏独特の世界観、文学観に基づく。本書は思索の書であり、哲学探求としての葛藤の軌跡である。
つまり情緒的な保田礼讃ではなく、かと言って冷淡でもなく、保田との距離を保ちつつも、冷徹に客観的に保田の文章を通して、古典の視座を守りながら前田氏は「日本文化論」として書きつづっているのである。
保田輿重郎は「日本浪漫派の巨人」というより、或る年代層にとっては「伝説の文士」。左翼からは悪魔的文士という奇怪な評価もなされ、それでいて誰もが真実を知ろうとはしなかった。
戦前、軍国主義を煽り、青年を戦地へ追いやる軍の宣伝の片棒を担いだなどと杉浦明平ら左翼が出鱈目を書いたが、事実は真逆で、保田は軍に睨まれ、四十過ぎてから召集され、旧満州で終戦、引き上げは佐世保だった。
皇国史観と保田は無縁だった。同様に誤解された作家は中河與一だった。然し保田も中河も弁明も駁論も書かず、沈黙した。
爾来、保田は郷里桜井に埋くもった。戦後久しき不気味な沈黙と静謐。保田が正当に評価され始めたのは、没後四年してから講談社から刊行された全45巻という全集がでてからである。それまでにも川村二郎、桶谷秀昭氏らが保田輿重郎論を書いていたが、世間的には評価されなかった。
本論に入る前に個人的なことを記す。
昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫事件が起きた。
評者(宮崎)はただちに追悼会を企劃し、凜列な寒さの夜、池袋の豊島公会堂で開催した折、保田は同士とともに京都から駆けつけた。和服で杖をつかれていた。楽屋には林房雄、中河與一らがいた。会場に入りきれないおよそ一万人は公会堂前の公園で待機し、マイクで追悼の言葉を喋る林房雄、川内康範、藤島泰輔氏らの話を聞いた。遅れて黛敏郎氏も駆けつけてくれた。
楽屋で二度ほど追悼の挨拶を保田に頼んだが、固辞された。中河も壇上には上らず場内で最後まで追悼の挨拶をする人々の声に耳を傾けていた。
このときが評者にとって保田との初対面だった。
「嗚呼、この人が「伝説の文士」なのか」と思った。こまかな描写は省くが(詳細は拙著『三島由紀夫以後』(並木書房)、以後、大阪につづいて、翌年に奈良でも三島追悼会を行うこととなり、林房雄とともに奈良へ行った。翌日、保田は林を飛鳥に案内し、その夜、ふたりに対談をお願いした。
京都太秦のご自宅を訪ねたときは道に迷った。一時間遅れの評者の到着を保田はじっと待っていて、自慢の山菜料理でもてなしてくれたのだった。この席での会話で思い出すのはひとつ。保田夫人が「三島さん、一回しか保田の勉強会に参加したことはないと書いてはるけど、毎週こられてましたよ」と言われたことだった。
事後、林の発案で日本浪漫派の再刊が決まり、同人に林、保田にくわえて中谷孝雄、浅野晃、檀一雄が名を連ねた。季刊誌とばかり思っていたら『浪漫』は月刊となり、編集部に評者も途中から加わることとなった。が、編集会議に保田が上京することはなかった。
「わが家系は長生き」と言って、九十歳までは大丈夫と言っていたが、昭和五十六年に冥界へ旅立たれた。
密葬は大津の義仲寺、本格葬儀は桜井だった。名古屋で後輩と待ち合わせして桜井へ向かった。葬儀には浅野晃、中河與一らが東京から駆けつけた。
いま保田論を前にして、上記のことを先に思い出すのだった。
▲保田文学の三要素とは
さて本論である。
保田研究者の間に常識化している保田の基礎は『マルクス主義、国学、ドイツロマン派の三要因』(橋川文三)と言われているように保田は高校時代に左翼学生運動の加担していた。
著者の前田雅之教授はこう言う。
「左翼的雰囲気が支配的だった時代に旧制高校に入学し、そうした時代の空気を吸って過ごした」(中略)「保田も紛れもない時代の子だった」ゆえ、「昭和初期の全共闘世代」と譬喩する。
その和服を好むライフスタイルも、前田は紀州の変人、南方熊楠に似ているとし、ともすれば中上健次とも『熊野で結ばれていた』ゆえ、中上が「濃密な親密感溢れる文章」を書いて保田を評価したとする
保田は若き日に同人誌『コギト』を主宰した。毎号、三本、四本と文章を書き、ヘルダーリンを論じ、ナポレオンという英雄の悲劇を論じ、ともかくドイツ哲学、文学に没頭した時期があった。
保田のヘルダーリン論も、ゲーテも、保田独自の、おおよそ独断的解釈であり、その後、昭和九年に紆余曲折を経て保田は『日本浪漫派』を宣言するにいたる。
小林秀雄がベルグソンを論じつつ、外国かぶれから日本に本格回帰したとき、全集からベルグソンを外した。保田も、以後、積極的にヘルダーリンを論ずることはなかった。
替って保田が挑んだのはヤマトタケルである。
「一年前の『セントヘレナ』において、弱い敵にあっけなく敗れていく『英雄の運命』を高らかに論じた保田であったが、同年の『日本浪漫派』の立ち上げも絡みながら英雄論を日本古典の場に移してはじめて論じたものが『戴冠詩人の御一人者』であったと言ってよい。即ち、戦争・英雄・詩人・古典という、戦前期の保田輿重郎をめぐる本質的問題がここから始まる」(178p)
戴冠詩人という命名から日本武尊を連想できにくいが、それが保田の保田たる所以かも知れない。これは森鴎外の『戴冠詩人』にヒントを得た。
保田は「この薄命の貴人の生涯の美しさにむしろ感傷に似た憧れを感じてきた少年も眼を思った」として、「ヘルダーリン、シュレーゲル、グンドルフ、ハイネ、ナポレオンを経て、固まりつつあった『英雄と詩人』論の日本における典型を日本武尊に見出した」(180p)とするのだ。
▲木曾義仲と後鳥羽院の位置づけ
ならば木曾義仲は、どういう位置づけになるのか。
「保田は(『平家物語』の)作者一つの家を手づるにして、一つの世界の最後までを描こうとしたのである」と言いながら、他方で、「義経が世界をもたなかった如く木曽にも亦世界はなかった」と述べ、ために「懐かしく戯画化された原因」だろうと前田教授は読む。
さらに、その少し前では、「九郎判官と木曽冠者は、平家没落と鎌倉殿の建設を完成するために必然は橋であった」とも指摘して」いるのである。
かくして『保田が独自に描く日本文藝の伝統』なるものは、「日本武尊―家持―後鳥羽院―芭蕉というラインこそが日本文藝の伝統」となり、これは「荒唐無稽な妄説」であるとした向きが多いものの、前田教授は、次のように続ける。
「これまで保田が扱ってきた対象がほぼもれなく収まり、ここにきて見事に秩序化あるいは体系化されている」(282p)
保田自身、そうした体系が無理筋であることにも気がついていた。
また後鳥羽院に関して、保田自身がこう書いている。//


