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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成29年(2017)7月26日(水曜日)
通巻第1101号 (特大号)
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11月1日に三島文学館の新館長、佐藤先生をお招きしての公開講座が決まりました。
三島由紀夫文学館館長、近畿大教授、発起人の佐藤秀明先生による公開講座を11月1日(水)に開催します。会場はアルカディア市ヶ谷。
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11月公開講座
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憂国忌発起人で今年4月に三島由紀夫文学館館長に就任された佐藤秀明先生による
公開講座を下記の通り開催します。
記
日時 11月1日(水) 午後6時半開会(午後6時開場)
会場 アルカディア市ヶ谷
講師 佐藤秀明氏(文芸評論家、近畿大学教授、三島由紀夫文学館館長)
演題 未定
会費 会員・学生 1千円、一般2千円
(講師プロフィール)昭和30年生れ。神奈川県出身。立教大学文学部卒。文学博士。近畿大学文芸学部教授。三島由紀夫文学館館長。主な著書 『三島由紀夫 人と文学』(勉誠出版)、『三島由紀夫の文学』(試論社)。その他多数。
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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鉢の木会、吉田健一、大岡昇平、三島由紀夫らとの交遊
翻訳の裏話から劇団の分裂、運営の苦労、脳梗塞、そして父子の和解
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福田逸『父 福田恒存』(文藝春秋)
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次男の福田逸氏が没後二十年にして、初めて、しかも思う存分、父親を赤裸々に語った。
家族でしか分からない、あの時代の福田恒存氏のこころの葛藤、そして父と息子の確執、嗚呼、こんなことがあったのか、これまで語られなかった裏話から透けて見えてくる福田恒存の全貌である。
子供の頃、父は外遊先からハガキを書いた。「これがじゆうのめがみ」と平かなで書かれていたり、家族で英国に滞在したときはストーンヘンジにでかけ、岩をよじ登った想い出、当時は柵もなかったとか(現在柵が設けられ、石にはさわれない。年間数百万の観光客がある)。
大岡昇平から久闊を叙す手紙が公開されている。
このなかに実に面白いくだりを見つけた。それは大岡昇平が江藤淳をインチキと決めつけている箇所で、
「江藤のインチキについては『小林秀雄』が出来上がった頃から油断してなかったのですが、どうもみんなが変におとなしいので、(批判を)やってみただけです。しかし心臓にさわるから、こんどはケンカの相手はしないつもりです」
ところが福田逸氏によれば、福田と大岡は、この頃仲が悪かったそうだ。
三島由紀夫との対決、相互理解、芯からの友情に関しては、じつに多くのページが割かれている。
三島の諌死事件直後、福田恒存氏は「わからない、わからない、わたしには永久にわからない」とコメントし、それから一切見解を示さなかった。
評者(宮崎)は小誌の2010年6月14日号(通巻2993号)で、次のように書いているので、やや長文だが、まずここに再録する。
▲60年安保でのふたりの立場は対照的だった
(引用開始)「福田恒存と三島由紀夫はよきライバルであり親友であり、しかし演劇活動では仲違いもし、論争は喧嘩腰の侃々諤々、いまから思えば古き良き時代だった。二人が対談した雑誌はよく読んだ。
三島は福田を「暗渠で西洋と繋がっている」と揶揄した。福田は三島の暗渠は日本と繋がっているなど丁々発止、虚々実々のやりとりの妙も興味津々だが、とりわけ「文学座」分裂の前後、新しい演劇集団の交錯、俳優らの取り合いなど外から見ていた分かりにくかったあの時代の状況を、絡み合った糸を丁寧に解しながら(遠藤浩一の本は)真相に迫る。
本書(遠藤浩一『福田恒存と三島由紀夫』(麗澤大学出版会)の特徴のひとつは著者(遠藤氏のこと)が演劇人でもあり、微細にわたる演劇界の戦後史も書き込んでいるところにある。演劇世界をしらない読者には初めての事実の開陳に驚きを禁じ得ないだろう。
もっとも評者(宮崎)も演劇界の出来事はよく知らず断片的な情報しか当時もいまも知らないが、福田氏が平河町、北野アームスのオフィスに陣取り、さかんに演劇プロジュースをしていた頃、ときおり会ったことがあるので、演劇世界における駆け引きが政治と似ていると思ったことがある。
話を本題に戻す。
戦後の空白期、三島は寓話的表現を通じて主権不在の日本の状況を書いた(たとえば『鍵のかかる部屋』)。
ところが福田はむしろ戦闘的に左翼文化人の虚妄と戦っていた。
60年安保のとき、三島は反対運動のそとにいて「岸は小さな小さなニヒリスト」を評論し、安保騒動には冷ややかだった。しかし三島は「自分もニヒリストであると自己規定し、しかし『私は小説家であって政治家ではない』と(弁明的に)述べている」(同遠藤前掲書)。
日本がまだGHQによって占領されていた昭和二十六年に三島が書いた『禁色』には檜俊輔という作家が登場し「愚行を思想から峻別した」などとして「思想についての思想」は、「俊輔の観念のやうでもあるし、作家独自のもののやうでもある。要するに思想と行動を完全に切り離し、思想は付け焼き刃のようにあとで生まれたものであって、とどのつまり、思想なんて信ずるにたりないもの」というスタンスが示される。
だから当時の三島は「祖国の主権回復に対してはきはめて冷淡だった。そこに欺瞞を発見したからである。
当時の「三島にとっては、主権回復も安保も、『思想』から分別された『愚行』でしかなかった。欺瞞に満ちた形で独立を回復した日本国の日々は、あたかも檜俊輔の生活がさうであったように、蹉跌の連続、誤算と失敗の連鎖としか、三島には映らなかった」という遠藤は、それらを三島は正面にすえたテーマとはせず、「韜晦につぐ韜晦を重ねた」のだと(遠藤は)する。
したがって60年安保騒動の時点で三島の立ち位置は曖昧だった。
深沢七郎の『風流夢譚』事件前後には、サヨクと誤解され自宅に警備陣が張り込んだこともあった。
三島が思想を鮮明にだすのは東京五輪前後からだ。そして『憂国』『喜びの琴』『文化防衛論』へと突っ走る。
さるにても晩年の二人)福田と三島)はなぜ対立したのか。
評者は学生時代に保守学生運動をしていたので三島由紀夫と福田恒在に、それぞれ三回、講演に来てもらったことがある(拙著『三島由紀夫”以後”』(並木書房参照)。
個人的つきあいは深くないが、楯の会結成前夜の三島の思想遍歴を時系列にたどると、福田恒存との対談の内容においてさえ微細な変化がある。
とくに改憲をめぐって三島が法理論的に分析すると福田は「法学部さがり」とからかう。そうした行間に大きな懸隔と変貌を嗅ぎ分けられるように三島は徐々に神秘的な攘夷思想ともとれる考え方に走る。
対比的にこんどは福田が冷静だった。
福田恒存と三島由紀夫が「戦った相手は進歩主義であり、破壊主義であり、機械主義であり、便宜主義であり、あるいはニヒリズムであった。軽蔑したのは偽善であり知的怠惰であり、安易な現実肯定主義であった」が、ふたりの「構えかたは『反戦後』などといふ陳腐なものではなく、戦後という時代を、両手を広げて引きつけつつも、これを疑い、時代を歪めているものを暴き、矛盾を衝き、ゆがみや矛盾に恭順する安易な処世術を嫌悪し、知的怠惰を叱り、日本人の本気の所在を問い、常識の復権を求め、美意識の研錬を実践した」(遠藤浩一前掲書)。
▲「三島の自決はわからない、わからない」と表した福田の真意
三島の自決を聞いた福田は「わからない。わからない。私には永遠にわからない」と発言したと当時の東京新聞が報じ、週刊誌が「名言(迷言)として伝えた。
評者は、その後、福田の真意を確かめたいと思っていたところ、おりからの福田恒在全集の三島論が納められているのを発見した。
(直後にわからない、わからないと新聞に答えた氏は)「もし三島の死とその周囲の実情を詳しく知っていたなら、かはいそうだとおもったであろう、自衛隊員を前にして自分の所信を披瀝しても、つひに誰一人立とうとする者もいなかった。もちろん、それも彼の予想のうちに入っていた、というより、彼の予定通りといふべきであろう。あとは死ぬことだけだ、そうなったときの三島の心中を思うと、いまでも目に涙を禁じ得ない。が、そうかといって、彼の死を「憂国」と結びつける考えかたは、私は採らない。なるほど私は「憂国忌」の、たしか「顧問」とかいう有名無実の「役員」の中に名を連ねてはいるが、毎年「憂国忌」の来るたびにそれをみて困ったことだと思っている(中略)。二十年近くも(憂国忌を)続けて行われるとなると必ずしも慰霊の意味だけとは言えなくなる」(中略)「憂国忌の名はふさわしくない。おそらく主催者側も同じように悩み、その継続を重荷に感じているのではなかろうか」 と言う。
(余談だが、個人的なことを言えば、憂国忌の発起人を頼んだのは、じつは評者(宮崎)であり、説得するのに30分ほど電話で会話した記憶がよみがえった)
▲事件から十八年後に福田は三島自決の覚え書きを残した
福田氏の推論が正しいか、どうか。おそらく間違いであろう。三島は「自分の行為は五十年後、百年後でなければ分からない」と、その営為をむしろ後世の再評価に賭けた。
ともかく、この短い文章だけが、三島事件から十八年後、昭和六十三年に初めてかかれた「三島事件」への福田氏の感想である。
「福田恒存在全集」第六感の「覚え書き」として、つまり全集の購読者用に書き下ろされた覚え書きにさりげなく挿入されたので、評者(宮崎)もしばし気がつかなかった。
遠藤浩一氏も、やはりこの箇所を捉え直し、次のように総括している。
「わからなかったがゆえに、冷静な福田の口から、感情的な言葉が迸ったのではなかっただろうか(中略)、三島という対象を突き放しているわけではない。三十数年来の知己を、わかりたい、嫌いたくないと思えばこそ、こうした言葉が思わず飛び出したのである。そこに福田恒在の三島由紀夫に対する哀惜が滲み出ている」
「三島由紀夫はリアリズムを、フィクションをフィクションとして受け入れるための消極的約束事をして、徹底して扱った。そこに比類のない存在感を発揮する作家だった。そのことを逸速く見抜いたのが福田恒存だった。三島の文壇へのデビュー作『仮面の告白」の解説で福田は、『三島由紀夫は無から有を生む手品師』『比喩的なレトリックが軽快な一回転とともに、虚を真実にすり替える』と評価した」
(引用止め)
本書(福田逸『父 福田恒存』)にもどる。
そこで次男の逸氏は、この経緯をいかように記憶し、またどのようなコメントをされるのか、興味が湧くところである。
暗渠論についてかなりの紙幅がさかれているが、その箇所は本書にあたっていただくとして、重要なことは、ふたりのあいだに激しい論争はあっても、福田氏と三島との仲はたいそう良かったという事実であり、逸氏は、さりげなく、次の文章を挿入されている。
「ただ、父は三島の自決のことはさておき、三島に一種の親愛の情を持っていたのではないかと、これは具体的証拠があるわけではないが、日頃の我が家の雰囲気からそう感じている、それに何の根拠もない。空気といったものである。弟のように可愛がると言った//

