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http://melma.com/backnumber_45206/
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)7月15日(土曜日)
通算第5356号
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ロシア、四半世紀ぶりにアフリカへ再進出を始めた
まずはエジプトとモロッコに生産拠点。中国の迅速な進出に対抗へ
****************************************
ロシアが嘗て甚大な影響力を及ぼしていたアフリカへ四半世紀ぶりに戻ってきた。
東西冷戦時代、アフリカの幾つかの国はソ連の植民地のように統治され、反米を唱える武装ゲリラには武器が供与され、対抗した米国はアンゴラや中央アフリカ、コンゴなどで支援にたった。
東西冷戦が終わると、ソ連が一斉に引き上げたため、開発は取り残され、余剰武器による部族支配、部族間の戦闘が続いた。
欧米は資源リッチのナイジェリア、アンゴラあたりにしか興味を抱かず、大手メジャーが鉱区開発を続けた。リビアとスーダンは原油生産で国の経済が成り立ち、次第にロシアに距離をおき、中国に近づく。
ソ連瓦解後の空隙にするちと乗り込んできたのが中国だった。
とりわけナイジェリア、アンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、スーダンに石油鉱区を確保し、資源鉱山、農地を買い占めた。
ジンバブエのムガベ独裁体制は中国の丸抱えとなった。その勢いは止まらず「アフリカの角」といわれるジブチに中国は初の海外軍事基地を建設している。さらにはマダガスカル、モーリシャスなど島嶼国家にも手を伸ばし、インド洋における真珠の首飾りの外環をつくる計画だ。
ウガンダ、ナミビア、エリトリア コンゴ共和国では、なんと北朝鮮も進出している。粗悪品をつくり欧州へ輸出している。
こうした状況下、ロシア通産省主催で7月13日からタンザニアにおいて「ロシア・アフリカ・フォーラム」が開催され、四半世紀ぶりにロシアがアフリカ大陸への本格復帰の姿勢を鮮明にした。
まずはエジプトに「ロシア工業地区」を設営し、完成品を「エジプト製」として輸出する段取りといわれる。
すでにモロッコとモーリシャスにもロシア企業の拠点があり、工業区を狙っている。
ソ連が去った後、中国の他に進出したのはトルコ、インド、イスラエル、アラブ諸国だった。
しかし製造業より金融、流通、サービルの分野に主力がおかれたため、アフリカ諸国の経済はなかなか離陸しなかった過去がある。
□▽◎み□◇□や□▽◎ざ□◇□き◎□◇
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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自由社から史伝シリーズが刊行
第一弾は数奇の運命をたどった天下の名城「熊本城」
♪
中村彰彦『熊本城物語り』(自由社)
@@@@@@@@@@@@@@
熊本城と言えば天下の名城。加藤清正が縄張りし、加藤家三代のあと細川十二代、そして明治九年の神風連の乱、明治十年の西南戦争の舞台となった。
加藤家が入る前、肥後は南北に境界があり、堺商人の息子、小西行長や佐々成政が統治するも失敗した。天草ではキリシタン伴天連の反乱もあった。
しかし時代の荒波に耐え、巨城は聳え立って、地震のあとも、再建が急がれている。
ところで十年ほど前、評者(宮崎)は、この本の著者、中村彰彦氏と熊本城をのんびりと散策したことがある。佐川官兵衛の顕彰碑が阿蘇に建立され、その記念式典の帰りだったか、晴れた日だった。
ふと城公園を歩いていると、神風連の首謀者、大田黒伴雄と加屋零堅の記念碑にめぐりあって記念写真を撮ったことを思い出した。
この二人が三島由紀夫『奔馬』のなかに物語のなかの物語として登場する。初版カバーは加屋の遺墨である。
本書にももちろん、神風連の詳細な経緯が活写されている。
亡くなった直木賞作家の光岡明氏(当時は熊本文学館館長)と十数年前に熊本キャッスルホテルでお目にかかったことがあるが、氏もまた神風連の乱を書かれていて、「最後の宇気比の場面がどうしても書けない」と嘆いておられたことを思い出した(同小説は未刊行のままである)。
加藤家は三代にして改易され、後を嗣いだ細川忠利はガラシャ姫の息子である。かれは水前寺公園を築園した。
加藤の前の佐々成政は農民一揆を収められず秀吉から切腹を命じられたが、それ以前に富山をおさめ、柴田勝家と連盟して秀吉に刃向かい、豪雪の立山を超えて浜松の家康を訪ねた(さらさら越え)。その末裔が佐々敦行氏(初代内閣安全室長)であることは広く知られる。
熊本は夏目漱石も舞台として作品を書いた。
会津のインテリだった秋月悌次郎は、その後(戊辰戦争後)、高い学識を買われて熊本に赴任し、そのときの同僚教授がラフカデオ・ハーンだった。
などと個人的感想をのべていると、本書を紹介する紙幅がなくなってきたが、最後に熊本城攻防の西南戦争、激戦は田原坂。
正確に言えば高瀬会戦である。
中村氏は、この戦闘を以下のように綴った。
「薩軍の四番大隊長桐野利秋、一番大隊長篠原国幹、六番・七番連合大隊長別府晋介、二番大隊長村田新八率いる兵力二千八百が右翼・中央・左翼に別れて高瀬を襲う三方合撃策がとられた」(中略)「白河争奪戦に際し、やはり薩軍が採用して勝ちを制したこの作戦は、いわばこの時代の必勝戦略であった」
だから局地戦では薩摩側が一時的勝利を収めたが、「兵力の差と軍須(軍需品)の欠乏に」起因する退却を迫られた。ここで西郷隆盛は右腕だった篠原国幹を失った。
「守勢にまわった薩軍と南進して熊本鎮台を救援したい官軍とが十七日間にわたり、熾烈な銃撃戦と抜刀斬り込みをおこなったのが有名な田原坂」であった。
以後の西郷軍は人吉へ退却し、小林から宮崎、砂土原、高鍋で連敗し、延岡の和田峠の決戦に敗れ、西郷は可愛岳を越えて城山へ還った。
◎◎◎
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1599回】
――「支那の官吏は賄賂を取る・・・金なくば訴訟するな」――(廣島1)
廣島高等師範學校『滿韓修學旅行記念録』(非賣品 明治40年)
▽
明治39(1906)年7月19日午後4時、「満韓地方に修學旅行」を行なう広島高等師範学校の生徒一同に「東京帝國大學、第一、第二高等學校、學習院、美術學校外國語學校、大阪高等商業學校、仝高等醫學校、仝師範、中學(約十校)等の學生」が合流した600余名が乗り組んだ小雛丸は、広島県宇品を出港する。
門司を経て、「沖の島正南を過ぐる頃、日本海の大勝を祝し兼ねて乘組員一同の健康を祝す爲めに」、船体を一回転させた後、全員が甲板に出て校長の音頭で「萬歳を三唱し又『君が代』を二回合唱」した。
7月23日午前3時に「大連灣内に碇を卸ろ」した後、旅順、奉天、鉄嶺、遼陽を経て、安東、平壌、開城、京城、水原、大邱と朝鮮半島を南下し、8月15日に馬関上陸。「最大急行列車に接續して午後二時四十分己斐驛着」。ここで「一行の無事を祝して解散」となる。
前後20日余に及んだ旅行において、生徒らは何を目にし、何を感じ、何を学んだのか。目の前の清国を、当時の若きエリートはどのように捉えたのか。先ずは「國語漢文班生徒記事」である。
大連から有蓋貨車に乗り込み2時間ほどで旅順へ。
「沿道の山々塹壕。散兵壕など。戰時を忍ばしむ」。やがて激戦の203高地へ。「道すがら服の破れ。靴の切れ。彈の破片。骨の散在。坐ろに夏尚寒きを覺えたり。甚惜めとも詮なし。士官の説明を聞く。時に一陣の微風と共に鼻を衝いて至る。一種の臭氣。正しく死者の名殘、あゝ幾多の精靈。大君の御爲に。國家の爲に。吾等を安全ならしむる爲に此の山上に血を流し骨を碎いて果てにしか。あゝ卿等の魂を慰むるは實に吾等の任なるなり。心安かれ忠死の士卿等の建てし功は千古朽ちざるべし。卿等にたむくる一片の香はなくも一枝の花はなくも余には一滴の涙あり。血あり。希くは安く眠れ精靈!」
203高地が陥落したのは明治37(1904)年12月5日。僅かに1年半ほどしかたっていない。であればこそ「正しく死者の名殘」を感じただろうし、「廣瀬中佐が一片の肉塊を殘して消江たりし報國丸を始め福井丸其他十二三隻の閉塞船或は船躰を表はし或は檣頭を見はし港口に?はれり」と、戦跡を目にする。感慨も一入だったはずだ。
やがて奉天に向う。
沿線の風景を「牧畜の業盛にして牛馬羊豕の群をなすもの多く遊牧せる土民は太古の民の如く自ら支那氣風を表はして餘蘊なし」と。また車中の有様を「晝間の暑さは車中を焦がし、惡臭紛々苦熱人をして釜中の思あらしむ」と綴った。
奉天では「城外なる兵舎に宿」を取った。「宿舎矮陋狹隘にしてしかも不潔僅に雨露を凌ぐのみ。戰時将士の艱苦思ひ遣られたり」。街を見学するが、豪壮な建物も「頽敗に任せて修めず。處々に生ひ茂れる雜草あれども除くことを知らず。老大國の樣見るもあはれのことならぬなし」。やはり亡国の姿は、覆うべくもなかった。だが、商売は繁盛しているようだ。確かに「城内の市街不潔言語に絶す」るが、「往きかふ人馬絡繹として絶えず。肩摩轂?の聲あり。人家櫛比し、熱閙沸くが如し。中には富商大賈軒を列ねて其の繁榮を競ふあり」と。
遼陽の街では「孔子以下の聖賢神位を祭れる」文廟を参詣したが、昔は豪壮絢爛であったはずが、「今は金碧?落して荒埃獨り堆し、香火煙立たずして老鳩梁に老いたり」。関帝廟は「空しく荒廢に委し、稚老の午睡所たるに過ぎず」。「關帝像の立てる檀上に、赤脛便腹を露出して、午睡を垂れる惰民あるのみ」。信仰心の欠片もなし。
惰民もあれば「富商大賈軒を列ね」るもあり・・・いま若者は満州を目にした。
《QED》
▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎
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▼読者の声 ▼どくしゃのこえ ■READERS‘ OPINIONS ●読者之声
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♪
(読者の声1)インテリジェンスは安全保障レベルの情報収集でありますが、戦前の日本では曲りなりに諜報、防諜、洗脳工作、謀略などありましたが大東亜戦争直前そして戦時中はこの情報収集は完全に後れをとったと云えます。そして現在この分野は専ら関係国依存となっています。
今回の講演は小谷先生です。事前申し込みください。
記
とき 7月29日(土) 14:00~17:00
ところ たかつガーデン(大阪府教育会館)2F 「ガーベラ」会議室
TEL:06(6768)3911 〒543-0021 大阪市天王寺区東高津町7番1号
) 地下鉄千日前線(又は谷町線)谷 町9丁目下車おyび(北東へ)5分
内容 1400?1530 講演 :日本大学危機管理学部 教授 小谷 賢 先生
テーマ: 「日本のインテリジェンスー過去及び現在」
1530??1600 質疑応答 1610 懇親会
会費 4,500円程度(懇親会費を含む。講演のみは1,500 //
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平成29年(2017)7月15日(土曜日)
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ロシア、四半世紀ぶりにアフリカへ再進出を始めた
まずはエジプトとモロッコに生産拠点。中国の迅速な進出に対抗へ
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ロシアが嘗て甚大な影響力を及ぼしていたアフリカへ四半世紀ぶりに戻ってきた。
東西冷戦時代、アフリカの幾つかの国はソ連の植民地のように統治され、反米を唱える武装ゲリラには武器が供与され、対抗した米国はアンゴラや中央アフリカ、コンゴなどで支援にたった。
東西冷戦が終わると、ソ連が一斉に引き上げたため、開発は取り残され、余剰武器による部族支配、部族間の戦闘が続いた。
欧米は資源リッチのナイジェリア、アンゴラあたりにしか興味を抱かず、大手メジャーが鉱区開発を続けた。リビアとスーダンは原油生産で国の経済が成り立ち、次第にロシアに距離をおき、中国に近づく。
ソ連瓦解後の空隙にするちと乗り込んできたのが中国だった。
とりわけナイジェリア、アンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、スーダンに石油鉱区を確保し、資源鉱山、農地を買い占めた。
ジンバブエのムガベ独裁体制は中国の丸抱えとなった。その勢いは止まらず「アフリカの角」といわれるジブチに中国は初の海外軍事基地を建設している。さらにはマダガスカル、モーリシャスなど島嶼国家にも手を伸ばし、インド洋における真珠の首飾りの外環をつくる計画だ。
ウガンダ、ナミビア、エリトリア コンゴ共和国では、なんと北朝鮮も進出している。粗悪品をつくり欧州へ輸出している。
こうした状況下、ロシア通産省主催で7月13日からタンザニアにおいて「ロシア・アフリカ・フォーラム」が開催され、四半世紀ぶりにロシアがアフリカ大陸への本格復帰の姿勢を鮮明にした。
まずはエジプトに「ロシア工業地区」を設営し、完成品を「エジプト製」として輸出する段取りといわれる。
すでにモロッコとモーリシャスにもロシア企業の拠点があり、工業区を狙っている。
ソ連が去った後、中国の他に進出したのはトルコ、インド、イスラエル、アラブ諸国だった。
しかし製造業より金融、流通、サービルの分野に主力がおかれたため、アフリカ諸国の経済はなかなか離陸しなかった過去がある。
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中村彰彦『熊本城物語り』(自由社)
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熊本城と言えば天下の名城。加藤清正が縄張りし、加藤家三代のあと細川十二代、そして明治九年の神風連の乱、明治十年の西南戦争の舞台となった。
加藤家が入る前、肥後は南北に境界があり、堺商人の息子、小西行長や佐々成政が統治するも失敗した。天草ではキリシタン伴天連の反乱もあった。
しかし時代の荒波に耐え、巨城は聳え立って、地震のあとも、再建が急がれている。
ところで十年ほど前、評者(宮崎)は、この本の著者、中村彰彦氏と熊本城をのんびりと散策したことがある。佐川官兵衛の顕彰碑が阿蘇に建立され、その記念式典の帰りだったか、晴れた日だった。
ふと城公園を歩いていると、神風連の首謀者、大田黒伴雄と加屋零堅の記念碑にめぐりあって記念写真を撮ったことを思い出した。
この二人が三島由紀夫『奔馬』のなかに物語のなかの物語として登場する。初版カバーは加屋の遺墨である。
本書にももちろん、神風連の詳細な経緯が活写されている。
亡くなった直木賞作家の光岡明氏(当時は熊本文学館館長)と十数年前に熊本キャッスルホテルでお目にかかったことがあるが、氏もまた神風連の乱を書かれていて、「最後の宇気比の場面がどうしても書けない」と嘆いておられたことを思い出した(同小説は未刊行のままである)。
加藤家は三代にして改易され、後を嗣いだ細川忠利はガラシャ姫の息子である。かれは水前寺公園を築園した。
加藤の前の佐々成政は農民一揆を収められず秀吉から切腹を命じられたが、それ以前に富山をおさめ、柴田勝家と連盟して秀吉に刃向かい、豪雪の立山を超えて浜松の家康を訪ねた(さらさら越え)。その末裔が佐々敦行氏(初代内閣安全室長)であることは広く知られる。
熊本は夏目漱石も舞台として作品を書いた。
会津のインテリだった秋月悌次郎は、その後(戊辰戦争後)、高い学識を買われて熊本に赴任し、そのときの同僚教授がラフカデオ・ハーンだった。
などと個人的感想をのべていると、本書を紹介する紙幅がなくなってきたが、最後に熊本城攻防の西南戦争、激戦は田原坂。
正確に言えば高瀬会戦である。
中村氏は、この戦闘を以下のように綴った。
「薩軍の四番大隊長桐野利秋、一番大隊長篠原国幹、六番・七番連合大隊長別府晋介、二番大隊長村田新八率いる兵力二千八百が右翼・中央・左翼に別れて高瀬を襲う三方合撃策がとられた」(中略)「白河争奪戦に際し、やはり薩軍が採用して勝ちを制したこの作戦は、いわばこの時代の必勝戦略であった」
だから局地戦では薩摩側が一時的勝利を収めたが、「兵力の差と軍須(軍需品)の欠乏に」起因する退却を迫られた。ここで西郷隆盛は右腕だった篠原国幹を失った。
「守勢にまわった薩軍と南進して熊本鎮台を救援したい官軍とが十七日間にわたり、熾烈な銃撃戦と抜刀斬り込みをおこなったのが有名な田原坂」であった。
以後の西郷軍は人吉へ退却し、小林から宮崎、砂土原、高鍋で連敗し、延岡の和田峠の決戦に敗れ、西郷は可愛岳を越えて城山へ還った。
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【知道中国 1599回】
――「支那の官吏は賄賂を取る・・・金なくば訴訟するな」――(廣島1)
廣島高等師範學校『滿韓修學旅行記念録』(非賣品 明治40年)
▽
明治39(1906)年7月19日午後4時、「満韓地方に修學旅行」を行なう広島高等師範学校の生徒一同に「東京帝國大學、第一、第二高等學校、學習院、美術學校外國語學校、大阪高等商業學校、仝高等醫學校、仝師範、中學(約十校)等の學生」が合流した600余名が乗り組んだ小雛丸は、広島県宇品を出港する。
門司を経て、「沖の島正南を過ぐる頃、日本海の大勝を祝し兼ねて乘組員一同の健康を祝す爲めに」、船体を一回転させた後、全員が甲板に出て校長の音頭で「萬歳を三唱し又『君が代』を二回合唱」した。
7月23日午前3時に「大連灣内に碇を卸ろ」した後、旅順、奉天、鉄嶺、遼陽を経て、安東、平壌、開城、京城、水原、大邱と朝鮮半島を南下し、8月15日に馬関上陸。「最大急行列車に接續して午後二時四十分己斐驛着」。ここで「一行の無事を祝して解散」となる。
前後20日余に及んだ旅行において、生徒らは何を目にし、何を感じ、何を学んだのか。目の前の清国を、当時の若きエリートはどのように捉えたのか。先ずは「國語漢文班生徒記事」である。
大連から有蓋貨車に乗り込み2時間ほどで旅順へ。
「沿道の山々塹壕。散兵壕など。戰時を忍ばしむ」。やがて激戦の203高地へ。「道すがら服の破れ。靴の切れ。彈の破片。骨の散在。坐ろに夏尚寒きを覺えたり。甚惜めとも詮なし。士官の説明を聞く。時に一陣の微風と共に鼻を衝いて至る。一種の臭氣。正しく死者の名殘、あゝ幾多の精靈。大君の御爲に。國家の爲に。吾等を安全ならしむる爲に此の山上に血を流し骨を碎いて果てにしか。あゝ卿等の魂を慰むるは實に吾等の任なるなり。心安かれ忠死の士卿等の建てし功は千古朽ちざるべし。卿等にたむくる一片の香はなくも一枝の花はなくも余には一滴の涙あり。血あり。希くは安く眠れ精靈!」
203高地が陥落したのは明治37(1904)年12月5日。僅かに1年半ほどしかたっていない。であればこそ「正しく死者の名殘」を感じただろうし、「廣瀬中佐が一片の肉塊を殘して消江たりし報國丸を始め福井丸其他十二三隻の閉塞船或は船躰を表はし或は檣頭を見はし港口に?はれり」と、戦跡を目にする。感慨も一入だったはずだ。
やがて奉天に向う。
沿線の風景を「牧畜の業盛にして牛馬羊豕の群をなすもの多く遊牧せる土民は太古の民の如く自ら支那氣風を表はして餘蘊なし」と。また車中の有様を「晝間の暑さは車中を焦がし、惡臭紛々苦熱人をして釜中の思あらしむ」と綴った。
奉天では「城外なる兵舎に宿」を取った。「宿舎矮陋狹隘にしてしかも不潔僅に雨露を凌ぐのみ。戰時将士の艱苦思ひ遣られたり」。街を見学するが、豪壮な建物も「頽敗に任せて修めず。處々に生ひ茂れる雜草あれども除くことを知らず。老大國の樣見るもあはれのことならぬなし」。やはり亡国の姿は、覆うべくもなかった。だが、商売は繁盛しているようだ。確かに「城内の市街不潔言語に絶す」るが、「往きかふ人馬絡繹として絶えず。肩摩轂?の聲あり。人家櫛比し、熱閙沸くが如し。中には富商大賈軒を列ねて其の繁榮を競ふあり」と。
遼陽の街では「孔子以下の聖賢神位を祭れる」文廟を参詣したが、昔は豪壮絢爛であったはずが、「今は金碧?落して荒埃獨り堆し、香火煙立たずして老鳩梁に老いたり」。関帝廟は「空しく荒廢に委し、稚老の午睡所たるに過ぎず」。「關帝像の立てる檀上に、赤脛便腹を露出して、午睡を垂れる惰民あるのみ」。信仰心の欠片もなし。
惰民もあれば「富商大賈軒を列ね」るもあり・・・いま若者は満州を目にした。
《QED》
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(読者の声1)インテリジェンスは安全保障レベルの情報収集でありますが、戦前の日本では曲りなりに諜報、防諜、洗脳工作、謀略などありましたが大東亜戦争直前そして戦時中はこの情報収集は完全に後れをとったと云えます。そして現在この分野は専ら関係国依存となっています。
今回の講演は小谷先生です。事前申し込みください。
記
とき 7月29日(土) 14:00~17:00
ところ たかつガーデン(大阪府教育会館)2F 「ガーベラ」会議室
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) 地下鉄千日前線(又は谷町線)谷 町9丁目下車おyび(北東へ)5分
内容 1400?1530 講演 :日本大学危機管理学部 教授 小谷 賢 先生
テーマ: 「日本のインテリジェンスー過去及び現在」
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会費 4,500円程度(懇親会費を含む。講演のみは1,500 //