王雲海『「権力社会」中国と「文化社会」日本』(集英社新書2006年)を読みました。
すっきりと上手い説明が身上の本です。著者は1960年生まれで、日本の大学で刑法学を教えている中国人。中国でいったん大学院まで終わってから日本に留学して、日本の大学の教員になっている人物です。両国の複雑な事情を研究者として体験しているわけです。そして、複雑な事情を整理するのが法学の仕事なのでしょう。
話は、中国と日本の比較です。理由はともかく、「権力」があらゆる問題を最終決定しているのが中(華人民共和)国で、これに対して「文化」が最終的に支配しているのが日本。ここでいう権力とは、明確に中国共産党の意志決定機構のことです。
そして、「文化」とは権力でも法律でもなくて、常識や慣習や慣行、さらには漠然と歴史的経緯、伝統の総体。一方は、誰の目にも明らかな「権力」が支配する中国で、他方には見る人によって変わる漠然とした「文化」が支配する日本。
著者によると、両国の違いは権力のあり方や文化ではなくて、それらが複雑に関わった「社会特質にある。つまり、日本と中国では権力と文化のおかれている位置づけがちがうので、各々の権力や文化を互いに比較してもあまり意味がない。
「権力社会」の中国では、文化の問題も最後は権力が決める。ただし、権力の及ぶ文化の範囲はすべてはないので、一般の人々が自由に決める部分は残ります。これに対して、日本では広く行き渡った文化がすべての人々を日々刻々支配していているので、一般の人々の自由の余地があまりない。
この結果、日本では一般の人々の日常生活の隅々まで「文化」による統制や監視が効いているので驚くほど秩序だった生活が可能。これに対して、中国では権力の目が届かないところで、人々がかなり自分勝手に生きている。無茶なこともする。だから権力が必要ともいえる。
中国で万事を決定するのが誰なのかは誰の目にも明らかですが、日本にはそういう人物はいない。憲法上最高権力を持っているはずの総理大臣ですら、総称して「文化」としか呼べないような要因に従って行動しています。
人間にばらつきが多い中国と、比較的均質な日本。頼りない様子で思想がなさそうな日本の権力者と、自信満々で高邁な理念を語りたがる中国権力者。わりと昔からある話を、「権力」と「文化」で説明しようというわけですね。
何もかも権力が責任を持っている(ことになっている)社会と、何もかも文化が支配している社会の違いは、個別の社会現象についての評価にも現れます。たとえば、著者の専門の刑法に関していえば、以前に犯罪を侵した人物についての評価も違う。
いわゆる「改革開放」政策以後に中国で経済的にのし上がった人物の中には、かなりの数の「元受刑者」がいました。日本で元受刑者が社会的に容認されることは難しいのですが、中国ではそうとも限らない。
「中国は「権力社会」であるが故に、そこでの「罪」「過ち」「罰」「処分」といった概念は、何よりもまず権力によった、権力にとってのものであって、権力以外の社会領域にとってはあくまでも外圧的で他人的な出来事にすぎない。権力が犯罪として刑罰を加えた行為は、権力以外の社会にとっては必ずしも犯罪としては認知されず、その刑罰も権力以外の社会には同調されないのである。
元受刑者は権力にとってみれば罰を受けた人間としての意味はあるが、権力以外の社会にとっては、刑罰を受けた事実は、あくまでもその人と権力の間での出来事であって、自分たちにはあまり関係しないのである。そのために、元受刑者であろうとなかろうと、普通の付き合いをするのである。」(104頁)
これに対して、犯罪や過ちを文化として非難する日本では、すべての人々との関係になってしまうので、たとえ刑期を終えて出所してきてもなかなか許してもらえない。たとえ権力は許しても、「文化」がなかなか許してくれないわけです。
話は過去の「歴史」をめぐる日中の政府や世論の動向にも及びます。歴史も国際関係も、文化も基本的に権力が管理している中国では、逆の動きはあまりない。戦争責任は「A級戦犯7人」の責任ということで、それ以外の権力者や「日本人民」の責任は忘れてやろう、賠償も忘れてやろうと中国の権力が決める。中国にしてみるといたって寛大なつもりで、「どうだ雅量があるだろ!感謝しろ!」と国内外に宣伝したい。
ところが文化(歴史や伝統)が支配する日本では、東条英機のような人物を切り離して断罪することが難しい。国を挙げてやったことなのに、全体の責任を一部の人間に押しつけるのは卑怯であるということになる。むしろ東京裁判で処刑されたのは、全体の犠牲者(殉教者)という考えがある程度の力をもつことになる。卑怯な責任転嫁は文化的に許せないという考えです。
それで数人の総理大臣が靖国神社に参拝するのですが、中国の権力にしてみれば自分たちの自慢の寛大さを裏切られたことになる。そして怒る。なんでわざわざそういうことをして俺たちの面子をつぶすのか?というわけです。しかし、日本の権力者は文化に支配されているので、中国の権力者のような動きは難しい。
著者が一刀両断といった調子で使う「権力」と「文化」というのがどこまで有効なのか、そうでないのか?たとえば、「文化」という概念にはいろいろ注文が付けられそうです。しかし、日本社会を動かしている様々な要因を何とか言葉に使用とすると「文化」としか呼びようがないのかもしれません。
しかし、中国のようなある意味ひどく単純明快な社会で育った著者が、日本のような複雑で見通しのきかない社会を長らく観察して、自分なりに整理しようとする様子は印象的ですね。「なんだこりゃ?」「誰が決めているのだ?」「責任者は誰だ?」といって戸惑っている様子が面白いです。
ただ、この本が出てから十年を経て、中国の社会の変化も大きいのかもしれません。後の世代の中国人も、「消費文化」という文化の影響をどこまで受けるようになるのか。今後観察していくのも面白いでしょう。
2017年7月8日
犬飼裕一
フェイスブックにも転載しておきました。
https://www.facebook.com/yuichi.inukai.14
過去ログ(440件)
http://blogs.yahoo.co.jp/inukaimail2003
ご意見・ご感想は以下にお願いします。
inukai@hgu.jp
◎このメルマガに返信すると発行者さんにメッセージを届けられます
※発行者さんに届く内容は、メッセージ、メールアドレスです
◎犬飼メール のバックナンバーはこちら
⇒ http://bn.mobile.mag2.com/bodyView.do?magId=0001629257&l=byb0cf6024
◎犬飼メール の配信停止はこちら
⇒ http://mobile.mag2.com/mm/0001629257.html?l=byb0cf6024
すっきりと上手い説明が身上の本です。著者は1960年生まれで、日本の大学で刑法学を教えている中国人。中国でいったん大学院まで終わってから日本に留学して、日本の大学の教員になっている人物です。両国の複雑な事情を研究者として体験しているわけです。そして、複雑な事情を整理するのが法学の仕事なのでしょう。
話は、中国と日本の比較です。理由はともかく、「権力」があらゆる問題を最終決定しているのが中(華人民共和)国で、これに対して「文化」が最終的に支配しているのが日本。ここでいう権力とは、明確に中国共産党の意志決定機構のことです。
そして、「文化」とは権力でも法律でもなくて、常識や慣習や慣行、さらには漠然と歴史的経緯、伝統の総体。一方は、誰の目にも明らかな「権力」が支配する中国で、他方には見る人によって変わる漠然とした「文化」が支配する日本。
著者によると、両国の違いは権力のあり方や文化ではなくて、それらが複雑に関わった「社会特質にある。つまり、日本と中国では権力と文化のおかれている位置づけがちがうので、各々の権力や文化を互いに比較してもあまり意味がない。
「権力社会」の中国では、文化の問題も最後は権力が決める。ただし、権力の及ぶ文化の範囲はすべてはないので、一般の人々が自由に決める部分は残ります。これに対して、日本では広く行き渡った文化がすべての人々を日々刻々支配していているので、一般の人々の自由の余地があまりない。
この結果、日本では一般の人々の日常生活の隅々まで「文化」による統制や監視が効いているので驚くほど秩序だった生活が可能。これに対して、中国では権力の目が届かないところで、人々がかなり自分勝手に生きている。無茶なこともする。だから権力が必要ともいえる。
中国で万事を決定するのが誰なのかは誰の目にも明らかですが、日本にはそういう人物はいない。憲法上最高権力を持っているはずの総理大臣ですら、総称して「文化」としか呼べないような要因に従って行動しています。
人間にばらつきが多い中国と、比較的均質な日本。頼りない様子で思想がなさそうな日本の権力者と、自信満々で高邁な理念を語りたがる中国権力者。わりと昔からある話を、「権力」と「文化」で説明しようというわけですね。
何もかも権力が責任を持っている(ことになっている)社会と、何もかも文化が支配している社会の違いは、個別の社会現象についての評価にも現れます。たとえば、著者の専門の刑法に関していえば、以前に犯罪を侵した人物についての評価も違う。
いわゆる「改革開放」政策以後に中国で経済的にのし上がった人物の中には、かなりの数の「元受刑者」がいました。日本で元受刑者が社会的に容認されることは難しいのですが、中国ではそうとも限らない。
「中国は「権力社会」であるが故に、そこでの「罪」「過ち」「罰」「処分」といった概念は、何よりもまず権力によった、権力にとってのものであって、権力以外の社会領域にとってはあくまでも外圧的で他人的な出来事にすぎない。権力が犯罪として刑罰を加えた行為は、権力以外の社会にとっては必ずしも犯罪としては認知されず、その刑罰も権力以外の社会には同調されないのである。
元受刑者は権力にとってみれば罰を受けた人間としての意味はあるが、権力以外の社会にとっては、刑罰を受けた事実は、あくまでもその人と権力の間での出来事であって、自分たちにはあまり関係しないのである。そのために、元受刑者であろうとなかろうと、普通の付き合いをするのである。」(104頁)
これに対して、犯罪や過ちを文化として非難する日本では、すべての人々との関係になってしまうので、たとえ刑期を終えて出所してきてもなかなか許してもらえない。たとえ権力は許しても、「文化」がなかなか許してくれないわけです。
話は過去の「歴史」をめぐる日中の政府や世論の動向にも及びます。歴史も国際関係も、文化も基本的に権力が管理している中国では、逆の動きはあまりない。戦争責任は「A級戦犯7人」の責任ということで、それ以外の権力者や「日本人民」の責任は忘れてやろう、賠償も忘れてやろうと中国の権力が決める。中国にしてみるといたって寛大なつもりで、「どうだ雅量があるだろ!感謝しろ!」と国内外に宣伝したい。
ところが文化(歴史や伝統)が支配する日本では、東条英機のような人物を切り離して断罪することが難しい。国を挙げてやったことなのに、全体の責任を一部の人間に押しつけるのは卑怯であるということになる。むしろ東京裁判で処刑されたのは、全体の犠牲者(殉教者)という考えがある程度の力をもつことになる。卑怯な責任転嫁は文化的に許せないという考えです。
それで数人の総理大臣が靖国神社に参拝するのですが、中国の権力にしてみれば自分たちの自慢の寛大さを裏切られたことになる。そして怒る。なんでわざわざそういうことをして俺たちの面子をつぶすのか?というわけです。しかし、日本の権力者は文化に支配されているので、中国の権力者のような動きは難しい。
著者が一刀両断といった調子で使う「権力」と「文化」というのがどこまで有効なのか、そうでないのか?たとえば、「文化」という概念にはいろいろ注文が付けられそうです。しかし、日本社会を動かしている様々な要因を何とか言葉に使用とすると「文化」としか呼びようがないのかもしれません。
しかし、中国のようなある意味ひどく単純明快な社会で育った著者が、日本のような複雑で見通しのきかない社会を長らく観察して、自分なりに整理しようとする様子は印象的ですね。「なんだこりゃ?」「誰が決めているのだ?」「責任者は誰だ?」といって戸惑っている様子が面白いです。
ただ、この本が出てから十年を経て、中国の社会の変化も大きいのかもしれません。後の世代の中国人も、「消費文化」という文化の影響をどこまで受けるようになるのか。今後観察していくのも面白いでしょう。
2017年7月8日
犬飼裕一
フェイスブックにも転載しておきました。
https://www.facebook.com/yuichi.inukai.14
過去ログ(440件)
http://blogs.yahoo.co.jp/inukaimail2003
ご意見・ご感想は以下にお願いします。
inukai@hgu.jp
◎このメルマガに返信すると発行者さんにメッセージを届けられます
※発行者さんに届く内容は、メッセージ、メールアドレスです
◎犬飼メール のバックナンバーはこちら
⇒ http://bn.mobile.mag2.com/bodyView.do?magId=0001629257&l=byb0cf6024
◎犬飼メール の配信停止はこちら
⇒ http://mobile.mag2.com/mm/0001629257.html?l=byb0cf6024