NEC_0469.jpg

NEC_0531.jpg

--------
↓全文読めない等の場合はバックナンバーでご覧下さい↓
http://melma.com/backnumber_133212/
--------

□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2017年7月7日 第1622号 )

            
  ☆☆甦れ美しい日本☆☆


☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
☆☆偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆

◎ローマ・カトリックのナンバー3<改革派>ベル長官に豪州警察よりお縄が!・・・・・・・・・・・

奥山篤信の新著<キリスト教を世に問う>展転社 1800円ブラス消費税

まさにこの著に予測したフランシスコ教皇時代の実名入りの最悪のスキャンダル具体化が悪夢のように到来したのだ!

<世に問うキリスト教>の105ページ第6章キリスト教の歴史と闇の世界<フランシスコ教皇時代> にこのベル長官による幼児虐待事件がローマの致命的スキャンダルを予測していたのだ!
いかにも宗教家風善人の容貌と闇での、人間とは思えない!恐ろしい犯罪行為の疑惑 まさに実証されれば現代のジキルとハイドと言える。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170629-00000009-jij_afp-int
https://www.amazon.co.jp/キリスト教を世に問う-奥山-篤信/dp/4886564364/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494295855&sr=8-1&keywords=奥山篤信

◎佐藤守の新著『宇宙戦争を告げるUFO 知的生命体が地球人に発した警告』(佐藤守/講談社)

人類が宇宙戦争を引き起こす!? 元航空自衛隊パイロットが放つ衝撃のUFOノンフィクション
https://www.amazon.co.jp/dp/4062205955/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1496988543&sr=8-1&keywords=『宇宙戦争を告げるUFO%E3%80%80知的生命体が地球人に発した警告』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 612」
________________________________________

最後に訳者の福井氏は、斎藤大使の講演集を掲載したことについてこう語る。
≪巻末に付した講演録は駐米大使斉藤博(在任一九三四~三九年)のものである。斉藤は日本外交史にも特筆されるほど有能とされた外交官で、アメリカ人にもっとも愛された日本人大使として知られている。一九三九年任地で病没した時には官民ともにその死を惜しみ、アメリカ政府は彼の遺骨を巡洋艦アストリア号に乗せて日本まで送り届けるという異例の礼送を行った。
ワシントン在任中斎藤は歴代の日本人大使がそうであったように、K・カール・カワカミ氏をブレーンとして迎え、彼に師事し、公私ともに肝胆相照らした水魚の交わりを結んだ。斉藤の講演の骨子にはアドバイザーであるカワカミの考え方が色濃く反映されており、著者の思想を辿る上でも参考になると思われるので、補遺として巻末に付寸ことにした≫
これによると、歴代在米大使は、カワカミ氏をアドヴァイザーにしていたというのである。
ところで第1次大戦終了後以降、斎藤氏が駐米大使だった頃までの歴代大使を列挙してみよう。備考欄は前任地だが、駐米大使が重要視されていたことがよくわかる。
石井菊次郎 1918年(大正7年)~ 1919年(大正8年)外務大臣。幣原喜重郎 1919年(大正8年)~ 1922年(大正11年)外務次官。埴原正直 1922年(大正11年)~ 1924年(大正13年)外務次官。松平恒雄 1924年(大正13年)~ 1928年(昭和3年)外務次官。出淵勝次 1928年(昭和3年)~ 1934年(昭和9年)外務次官。斎藤博 1934年(昭和9年)~ 1939年(昭和14年)駐オランダ公使。堀内謙介 1938年(昭和13年)~ 1940年(昭和15年)外務次官。そして、野村吉三郎 1941年(昭和16年)と続く。
更にこの頃の歴代外務大臣も列挙してみよう。
大正7年4月23日後藤新平。大正7年9月29日内田康哉。大正10年11月13日 内田康哉。大正11年6月12日内田康哉。大正12年9月2日兼任外務大臣 山本権兵衛。大正12年9月19日伊集院彦吉。大正13年1月7日松井慶四郎。大正13年6月11日幣原喜重郎。大正15年1月30日幣原喜重郎。昭和2年4月20日兼任外務大臣 田中義一。昭和4年7月2日幣原喜重郎。昭和6年4月14日幣原喜重郎。昭和6年12月13日兼任外務大臣 犬養毅。昭和7年1月14日芳沢謙吉。昭和7年5月26日兼任外務大臣 斎藤実。昭和7年7月6日内田康哉。昭和8年9月14日広田弘毅。昭和9年7月8日広田弘毅~と続いている。
さてここで目に付くものがある。それはこの時期の外務大臣が、今の防衛大臣の様に、小刻みに交代していることである。それはこの時期が如何に政情が不安定であったかを示しているのだが、たとえ混乱期であったにせよ人材がいなかったからでは?と言う疑問が生じてくる。勿論、政治の世界に影響されるから、交代を繰り返す首相に振り回され、各大臣の人選が困難だったからだろうが、それにしても聊か異常ではないか?
斎藤大使が駐米大使を務めていたのは、1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)までの5年間だが、彼に影響を与えた外務大臣は昭和に入ってからだと考えて絞り込むと、昭和4年以降の幣原喜重郎~犬養毅~昭和7年の芳沢謙吉だろうが、政変に連動していたためか、前後共に外務大臣は欠で、首相が兼任している。そして兼任外務大臣の斎藤実の後に、内田康哉が大臣に復活?しているのである。
内田大臣は、大正7から11年まで、3期にわたって外務大臣を務めていた。
すでに時代は昭和に入っているのだが、そんな旧人が、どうして世界情勢が急変する緊要時に“復活”したのだろうか?
そこで彼について調べることにした。(ウィキから)
「内田康哉=1865年9月29日(慶応元年8月10日生)~ 1936年(昭和11年)3月12日は、日本の外交官・政治家。伯爵。明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である。第2次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣に於いて外務大臣を務める。特に原内閣以降、パリ講和会議やワシントン会議の時期の外相として、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制の構築に関与し、後述のように1928年の不戦条約成立にも関係するなど、第一次世界大戦後の国際協調体制を創設した一人であった」とある。
4回目の外務大臣就任時は、既に67歳、当時としては“老人”の部類に入る。現にその直後の1936年、二・二六事件の15日後に70歳で死去しているのである。
彼は東京帝大卒業後に外務省に入った根っからの外交官だが、「満州事変には不拡大方針で臨んだが、満鉄首脳で事変拡大派の十河信二の斡旋によって関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向する。斎藤内閣では再び外務大臣に入閣。国際連盟において滿洲国の取り扱いが審議され、松岡洋右全権の交渉によって、主権を中華民国(蒋介石勢力)に潜在的に認めたまま日本の「勢力圏」とするという、日本に有利な調停案がまとまる。しかし内田はこの提案を一蹴し、日本は満洲国を国家承認、国連脱退に追い込まれる。1932年(昭和7年)8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。質問者の森恪は武断外交の推進者として知られるが、さしもの森も仰天し答弁を修正する意思がないか問うが内田は応じなかった。1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。当時の外交評論家清沢洌は『国が焦土となるのを避けるのが外交であろう』と批判した」とある。
満州事変は軍人の責任論が跋扈しているが、そうでもない様である。(元空将)
マガ解除や登録メルマガの検索はこちら!
 ┗ http://melma.com/contents/taikai/?
━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━
─────────────────────────────

--------
解除やバックナンバーは↓
http://melma.com/backnumber_133212/
問い合わせID
g0A2A8huP0VBT5FKU1U2QGs0323fddbe
※解除が上手くいかない場合、上記問い合わせIDと、購読中メールアドレスを合わせてお問い合わせください。
--------