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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)4月19日(水曜日)
通算第5269号
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(休刊のお知らせ)小誌、海外取材のため明日4月20日―27日が休刊となります!
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4月27日(新月)の北朝鮮攻撃は遠のいたのでは?
米国の「レッドライン」は、いまだ具体策が意味不明
****************************************
「北朝鮮がレッドラインを越えたら、米国は単独でも行動する」とトランプ大統領は習近平にも直接言った。中国が北の暴走を押さえ込めると推測したわけだが、中国の軍を掌握していない習に、そんな力はない。
日本の新聞はさかんに習近平が権力態勢を磐石としていると分析しているが、北京情報筋からの分析はまるで逆である。
軍の抗議集会が北京のど真ん中に展開されるという前代未聞の事態が出来している。
米国の言う「レッドライン」とは具体的に何を意味するのか。
メディアは「北が核実験をしたとき」「北がICBMの発射事件をおこなえば」と報じているが、トランプ政権は「あらゆる選択肢が卓上にある」と曖昧に表現するだけで、この中味は巡航ミサイル数百発発射して核兵器施設、ミサイル発射基地、軍事施設の全てを攻撃するという壮大なシナリオから、金正恩の「斬首作戦」にとどめおき、北の新体制と核凍結の交渉をするアイディア、対シリアのように象徴的に打撃を与えるプランまでが飛び交っている。
巷間囁かれてきたのは4月27日が「新月」となるため、この日に米軍の軍事作戦が行われるだろうという推測だった。
新月は言うまでもなく太陽と月が一線となるため、夜中に月明かりがない日である。
タイミングから言えば4月25日に北が建軍記念日を迎えるため、祝賀ムードに湧く北朝鮮は核実験をおこなう可能性が高いからだ。
それがレッドラインを越えたと判断し、ミサイル攻撃、あるいは特殊部隊の上陸作戦があると言われた。
アルカィーダの首魁だったオサマ・ビン・ラディンがパキスタンに潜伏中の隠れ家を襲ったのも、新月だった。
トランプ大統領としては、振り上げた拳を降ろさなければならない。低迷気味の人気回復にはもってこいの作戦ともなる。
急浮上している作戦アイディアは、金日成、正日親子の巨大な銅像を破壊するという象徴的襲撃作戦だ。
これは複合的効果を産む。つまり独裁者二人の銅像を破壊すると、民衆は体制崩壊と誤認し、反政府暴動に発展する可能性がある。
また軍高層部、警察、秘密警察がいかなる反応をするか、つまり権力機構の通信、命令系統がどのようは反応をするかを見て取れるわけで、同時に通信設備や発電所の破壊も行われるだろう。
北朝鮮の軍や警察が相互の通信がとれなくなれば、有効な反応が出来ないばかりか、防衛体制が機能せず、無秩序状態に陥るだろう。
▼しかし、攻撃は遠のいたのではないか
シンガポールを出航した米海軍カールビンソン空母攻撃群は、朝鮮半島近海にはほど遠く、まだインドネシア沖を航行中であることが分かった。
一つには追尾している中国とロシア艦船に対しての陽動。いま一つは南シナ海を北上していないので、東シナ海へやってくるにはまだ時間がかかる。
だが、もう一つ顕著な理由がある。軍を動かすトランプ大統領に進言するべきマティス国防長官は、いまサウジアラビアにいる。
ペンス副大統領は日本にあって、19日には空母ロナルドレーガン艦上で演説する。
マクマスター安全保障担当大統領補佐官はインドにいる。
最終決定をする三人がワシントンに不在とあって軍事行動を決定する態勢にはない。
□○▽ミ□◎◎ヤ○◎○ザ○○□キ□◇◎
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■■■■■■■■ 渡部昇一氏を悼む 宮崎正弘 ■■■■■■■■
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渡部昇一氏を悼む
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渡部昇一氏が4月17日に亡くなった。振り返れば、氏との初対面は四半世紀以上前、竹村健一氏のラジオ番組の控え室だった。文化放送で「竹村健一『世相を斬る』ハロー」とかいう三十分番組があって、竹村さんは一ヶ月分まとめて収録するので、スタジオには30分ごとに四人のゲストが待機するシステム、いかにも超多忙、「電波怪獣」といわれた竹村さんらしい遣り方だった。
ある日、久しぶりに呼ばれて行くと、控え室で渡部氏と会った。何を喋ったか記憶はないが、英語の原書を読んでいた。
僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。
そういえば、氏のメインは英語学で、『諸君!』誌上で英語教育論争を展開されていた頃だったか。
その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。
近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。
そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言いだし、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。
芸達者という側面を知った。情の深い人だった。
政治にも深い興味を抱かれて、稲田朋美さんを叱咤激励する「ともみ会」の会長を務められ、ここでも毎年一回お目にかかった。稲田代議士がまだ一年生議員のときからの会合で年々、参加人員が増えたことを喜んでいた。
最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。
訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。
三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだった。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想に、ちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。
合掌。
□○▽ミ□◎◎ヤ○◎○ザ○○□キ□◇◎
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1558回】
―「湖南省を目して小日本・・・自ら稱して小日本人といふ」――(安井3)
安井正太郎『湖南』(博文館 明治38年)
▽
『湖南』の出版から6年を遡った明治32(1899)年、白岩は「湖南人はその性質に於て真摯質実、我古武士の風あり。其排外は攘夷の思想に他ならず。故に一朝自覚する所あれば豹変して熱心なる改革論者たらんことは、甲午役(日清戦争)後の情勢に徴し識者の早く已に認識する所なり。況んや近時人材の輩出、未だ湖南省の如きはあらず。必ずや流風余韻の子弟青年に依りて紹述せらるるものあらん。見来たれば湖南将来の希望、転た多大なるを覚ゆ」と記している。
以上は、白岩の事績を研究した中村義が『白岩龍平日記 アジア主義実業家の生涯』(研文出版 1999年)に引用している。白岩が、いつ、どこに発表した記述なのかを注記されていないが、やはり『湖南』の主張と大差がないところに注目しておきたい。
中村は、白岩の湖南論は「すぐれて予見的であった」と評価した後、次のような解説を加えた。興味深い指摘だと思うので引用しておく。
「一九世紀末から二〇世紀三〇年代にかけての中国近代史を俯瞰すると、湖南省の歴史的軌跡が太く貫いていることに気付く。それは人脈と湖南気質である。人脈とは太平天国に対決した曽国藩と湘軍の登場、そして左宗棠、改革をめざした変法運動の先頭をきった譚嗣同や唐才常、つづいて辛亥革命期に中国同盟会の主力をになった黄興、宋教仁はじめとする俊傑、そして中国革命をリードした毛沢東、劉少奇等の共産党指導者らの故郷であった。近代中国を通じて、第一級のジャーナリスト梁啓超は『湖南は天下にあって人材の淵藪なり』とし、日本の幕末明治維新の薩摩、長州になぞらえている」
たしかに黄興と近かったのは宮崎滔天であり、宋教仁は北一輝にとっては血盟の友だった。不確かながら、北は黄興を西郷隆盛に擬えていたように記憶する。また大正6(1917)年2月から5月にかけて湖南省を訪れた宮崎滔天は、4月に湖南省立第一師範学校で学友会が主催したと伝えられる講演会に望んでいるが、宮崎を招請したのは毛沢東だった。こう見てくると、湖南人と日本人は俗にいうウマが合ったということだろうか。
『湖南』は湖南人を「極端より極端に趨るも亦彼らの性情然るに由るか」と記すが、譚嗣同、宋教仁、毛沢東と並べてみれば、たしかに彼らの人生は「極端より極端に趨」っている。かりに1949年10月1日に天安門の楼上に立ったのが湖南人の毛沢東でなかったら、あるいは毛沢東を指導者に選ばなかったら、その後の歴史は変わっていただろうか。だが歴史は、「極端より極端に趨」は湖南人だけではなかったことを教えてくれる。
毛沢東が敷いた対外閉鎖路線を決然と擲って、1978年末に対外開放へと国の基本を180度転換させた?小平もまた「極端より極端に趨」った。考えてみれば、あれだけの、しかも身勝手で扱い難い人々の群である。マアマアとか、皆さんのゴ意見を伺ってなどと言っていたのでは何も出来はしないだろう。儒教道徳が讃える中庸なんぞを求めて居たら、喧々諤々で纏まるものも纏まらない。であればこそ、一気呵成にエイヤッと「極端より極端に趨」らないかぎり、なにもできないのではなかろうか。
1949年の建国以来を振り返ってみても、50年代半ばの双百運動から始まり、反右派運動から大躍進、さらには社会主義教育運動を経て文化大革命へ。劉少奇が抹殺され、林彪が憤死し、四人組が粉砕され、毛沢東が後継と定めたと伝えられる華国鋒ですら権力の座から簡単に排除されてしまった。かくして登場した?小平は「毛沢東を掲げて毛沢東を否定し」、遮二無二に対外開放へ。外資が流れ込むと、昨日まで金科玉条と崇め奉っていた毛沢東をいとも簡単にボロ雑巾のように捨て去り、国を挙げての拝金思想の道をまっしぐら。
「極端より極端に趨るも亦彼らの性情然るに由る」・・・豈湖南人のみならんや。
《QED》
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軍の抗議集会が北京のど真ん中に展開されるという前代未聞の事態が出来している。
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メディアは「北が核実験をしたとき」「北がICBMの発射事件をおこなえば」と報じているが、トランプ政権は「あらゆる選択肢が卓上にある」と曖昧に表現するだけで、この中味は巡航ミサイル数百発発射して核兵器施設、ミサイル発射基地、軍事施設の全てを攻撃するという壮大なシナリオから、金正恩の「斬首作戦」にとどめおき、北の新体制と核凍結の交渉をするアイディア、対シリアのように象徴的に打撃を与えるプランまでが飛び交っている。
巷間囁かれてきたのは4月27日が「新月」となるため、この日に米軍の軍事作戦が行われるだろうという推測だった。
新月は言うまでもなく太陽と月が一線となるため、夜中に月明かりがない日である。
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それがレッドラインを越えたと判断し、ミサイル攻撃、あるいは特殊部隊の上陸作戦があると言われた。
アルカィーダの首魁だったオサマ・ビン・ラディンがパキスタンに潜伏中の隠れ家を襲ったのも、新月だった。
トランプ大統領としては、振り上げた拳を降ろさなければならない。低迷気味の人気回復にはもってこいの作戦ともなる。
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これは複合的効果を産む。つまり独裁者二人の銅像を破壊すると、民衆は体制崩壊と誤認し、反政府暴動に発展する可能性がある。
また軍高層部、警察、秘密警察がいかなる反応をするか、つまり権力機構の通信、命令系統がどのようは反応をするかを見て取れるわけで、同時に通信設備や発電所の破壊も行われるだろう。
北朝鮮の軍や警察が相互の通信がとれなくなれば、有効な反応が出来ないばかりか、防衛体制が機能せず、無秩序状態に陥るだろう。
▼しかし、攻撃は遠のいたのではないか
シンガポールを出航した米海軍カールビンソン空母攻撃群は、朝鮮半島近海にはほど遠く、まだインドネシア沖を航行中であることが分かった。
一つには追尾している中国とロシア艦船に対しての陽動。いま一つは南シナ海を北上していないので、東シナ海へやってくるにはまだ時間がかかる。
だが、もう一つ顕著な理由がある。軍を動かすトランプ大統領に進言するべきマティス国防長官は、いまサウジアラビアにいる。
ペンス副大統領は日本にあって、19日には空母ロナルドレーガン艦上で演説する。
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僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。
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その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。
近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。
そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言いだし、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。
芸達者という側面を知った。情の深い人だった。
政治にも深い興味を抱かれて、稲田朋美さんを叱咤激励する「ともみ会」の会長を務められ、ここでも毎年一回お目にかかった。稲田代議士がまだ一年生議員のときからの会合で年々、参加人員が増えたことを喜んでいた。
最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。
訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。
三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだった。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想に、ちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。
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『湖南』の出版から6年を遡った明治32(1899)年、白岩は「湖南人はその性質に於て真摯質実、我古武士の風あり。其排外は攘夷の思想に他ならず。故に一朝自覚する所あれば豹変して熱心なる改革論者たらんことは、甲午役(日清戦争)後の情勢に徴し識者の早く已に認識する所なり。況んや近時人材の輩出、未だ湖南省の如きはあらず。必ずや流風余韻の子弟青年に依りて紹述せらるるものあらん。見来たれば湖南将来の希望、転た多大なるを覚ゆ」と記している。
以上は、白岩の事績を研究した中村義が『白岩龍平日記 アジア主義実業家の生涯』(研文出版 1999年)に引用している。白岩が、いつ、どこに発表した記述なのかを注記されていないが、やはり『湖南』の主張と大差がないところに注目しておきたい。
中村は、白岩の湖南論は「すぐれて予見的であった」と評価した後、次のような解説を加えた。興味深い指摘だと思うので引用しておく。
「一九世紀末から二〇世紀三〇年代にかけての中国近代史を俯瞰すると、湖南省の歴史的軌跡が太く貫いていることに気付く。それは人脈と湖南気質である。人脈とは太平天国に対決した曽国藩と湘軍の登場、そして左宗棠、改革をめざした変法運動の先頭をきった譚嗣同や唐才常、つづいて辛亥革命期に中国同盟会の主力をになった黄興、宋教仁はじめとする俊傑、そして中国革命をリードした毛沢東、劉少奇等の共産党指導者らの故郷であった。近代中国を通じて、第一級のジャーナリスト梁啓超は『湖南は天下にあって人材の淵藪なり』とし、日本の幕末明治維新の薩摩、長州になぞらえている」
たしかに黄興と近かったのは宮崎滔天であり、宋教仁は北一輝にとっては血盟の友だった。不確かながら、北は黄興を西郷隆盛に擬えていたように記憶する。また大正6(1917)年2月から5月にかけて湖南省を訪れた宮崎滔天は、4月に湖南省立第一師範学校で学友会が主催したと伝えられる講演会に望んでいるが、宮崎を招請したのは毛沢東だった。こう見てくると、湖南人と日本人は俗にいうウマが合ったということだろうか。
『湖南』は湖南人を「極端より極端に趨るも亦彼らの性情然るに由るか」と記すが、譚嗣同、宋教仁、毛沢東と並べてみれば、たしかに彼らの人生は「極端より極端に趨」っている。かりに1949年10月1日に天安門の楼上に立ったのが湖南人の毛沢東でなかったら、あるいは毛沢東を指導者に選ばなかったら、その後の歴史は変わっていただろうか。だが歴史は、「極端より極端に趨」は湖南人だけではなかったことを教えてくれる。
毛沢東が敷いた対外閉鎖路線を決然と擲って、1978年末に対外開放へと国の基本を180度転換させた?小平もまた「極端より極端に趨」った。考えてみれば、あれだけの、しかも身勝手で扱い難い人々の群である。マアマアとか、皆さんのゴ意見を伺ってなどと言っていたのでは何も出来はしないだろう。儒教道徳が讃える中庸なんぞを求めて居たら、喧々諤々で纏まるものも纏まらない。であればこそ、一気呵成にエイヤッと「極端より極端に趨」らないかぎり、なにもできないのではなかろうか。
1949年の建国以来を振り返ってみても、50年代半ばの双百運動から始まり、反右派運動から大躍進、さらには社会主義教育運動を経て文化大革命へ。劉少奇が抹殺され、林彪が憤死し、四人組が粉砕され、毛沢東が後継と定めたと伝えられる華国鋒ですら権力の座から簡単に排除されてしまった。かくして登場した?小平は「毛沢東を掲げて毛沢東を否定し」、遮二無二に対外開放へ。外資が流れ込むと、昨日まで金科玉条と崇め奉っていた毛沢東をいとも簡単にボロ雑巾のように捨て去り、国を挙げての拝金思想の道をまっしぐら。
「極端より極端に趨るも亦彼らの性情然るに由る」・・・豈湖南人のみならんや。
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