【遥かなり台湾】「二つの故郷」

メルマガ「遥かなり台湾」より転載


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小誌林 建良編集長も大同小学校(元明治小学校)の卒業生。

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日本でも「湾生回家」の映画が上映されるようですが、大変良い映画ですからぜひご覧になって下さい。
本日のメルマガは戦前台中に住んでいたある湾生の引き揚げ時の時の回顧録です。


●二つの故郷
1945年(昭和20年)八月十五日、日本も暑い日だったらしいが、台湾はもっと暑い日だったと思う。
正午に天皇陛下の重大放送があると知らされて、われわれはラジオの放送に耳を傾けた。雑音がひどく声も低かったので、「玉音」は聞き取りにくかった。仕事から帰った父が、「けっきょく、降伏だな」と言うのを聞いて、「敗戦」という事実を始めて確認した、というのがあの日のわが家の実態だった。当然、内地人、特に大人達のショックは大きかった。虚脱状態がしばらく続いた。

一方、台湾の人達の反応はどうだったかと言えば、満州と呼ばれた中国東北部や朝鮮の人々のように、日本の敗戦を歓呼の声を挙げて迎えるというシーンは見られなかった。私があの頃の台湾の民衆の表情から感じたのは、安堵感と解放感だった。「台湾人として暮らしていける」ということは歓迎すべき出来事だったと思うが、それが内地人に対する報復行為に結びつくことは、台湾ではあまりなかった。台湾人と日本人の関係は戦後も比較的良好だったと思う。

あの頃、私の家に「彩さん」と呼ばれていたお手伝いさんがいたが、この女性は敗戦後もずっと我が家で働き続け、われわれが日本に引揚げるまで一緒に住んでいた。帰国の際、彼女が駅まで送ってくれて、プラットフォームでハンカチを目に当てていた姿を、今でも思い出すことができる。

私の友人の中には、台湾人の同級生に殴られて学校へこなくなった者もいたが、彼らは皆戦争中に、少数派で弱い立場にあった台湾人の生徒をいじめていたようだ。「報復」を受けても仕方がない過去を持っていたと思う。

二中は校長が中国人に変わったが、学校での授業はわれわれが引揚げるまで続けられ、大多数の生徒が出席していた。昔の友人に同総会で会っても、この敗戦後のことが話題になるのは稀であるが、私は戦後の学校生活を結構楽しんだ。興味を持って学んだのは中国語だった。「国語」と呼ばれていたが、予、復習をきちんとして授業に出ていた。この頃から私は語学が好きだった。

台湾に住んでいたわれわれは、戦後も恵まれた生活をしていたと思う。戦後職場が接収された後も、引揚げるまで父は給料を貰っていたので生活に困ることはなかった。敗戦国民ではあったが、台湾人の人々と共に、戦争中の抑圧から解放されて、私は伸び伸びとした雰囲気の中で暮らしていた。

敗戦後数ヶ月経ち、日本人の引揚が話題になり始めた頃だったと思う。「台湾に留まって台湾人になろう」と父が家族の者に提案した。夕食後、父は家族全員を前にして次のように語った。「今更日本に帰っても仕方がない。こちらに残って台湾人になろう。名前も中国風に変えることにしたい。」と言った。台湾で生涯を終わるつもりでいた父は、敗戦後も台湾に残りたかったのだろう。台湾人の知人の中には、「一緒に仕事をしましょう」と言う人もいたらしい。

しかし、結局、この話しは立ち消えになり、翌年の三月故国に引揚げることになったが、あの時父が口にしたわが家の家族の中国名は、今でもはっきりと私の記憶に残っている。父の名は故郷大分県の名勝─耶馬渓からとった「馬渓」だった。「引き揚げ」の話は、1946年(昭和21年)の年が明けた頃から次第に具体化していった。

終戦の頃、台湾には、軍人を別にして三十万余の日本人がいたらしいが、日本本土の混乱と食料難、台湾での生活に馴染んでいたこと、敗戦国民だったとはいえ、台湾人からの報復がほとんどなかったことなどから、一時は約二十万人が台湾に留まることを希望したと言われる。この事実はそれだけ台湾が、「戦後も居心地のいい場所だった」ことを物語っている。当時に台湾において、父がしたような台湾残留の意思表明は、我が家だけに限られた特殊な現象ではなかったと言えるであろう。もっとも、進んで「台湾人になろう」とまで思った人が、他にいたかどうかについては、定かではないが。

しかし、台湾を接収した国民党政権が。大量の日本人の残留(少数の徴用者とその家族を除いて)を許さなかったのと、インフレをはじめとする社会的な混乱が生じたことにより、1946年三月までには、全員が帰国を希望したようである。その頃父は愚痴をこぼしたり、悲観的な言葉を口にしたりはしなかったが、新任の中国人の分(支)局長にポストを明け渡し、手持ち無沙汰だった父が胸中に抱いていたさびしい思いは、私にもわかるような気がする。

新しい政府の評判はあまりよくなかった。台湾人の国籍は中華民国となったが、台湾人は「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人は「外省人」と呼ばれ、区別されていた。われわれが帰国する頃この両者の間には反目がすでに生じていた。新政府のことを台湾の人達は「ブタ政府」と呼び始めていた。われわれが台湾を去った後、本省人(台湾人)は、「イヌ去って、ブタ来たる」と言ったらしい。イヌとは日本人をさしていた。イヌは番犬として多少役に立ったが、ブタ(外省人)は台湾の財産を食い散らかして、肥え太るだけだったらしい。もっとも時間的な前後関係からすれば、「ブタ来たりして、イヌ去る」だったと思う。

われわれは三月下旬に引き揚げ船に乗って、かつての内台航路の基点─基隆を離れた。デッキは追われて島を去る人々で満たされていた。おそらく多くの人達がこの島に骨を埋める覚悟だったのであろう。デッキに立って遠ざかる島影を見るめる大人達の顔には惜別の念が浮かんでいた。船脚が速まるにつれて、私の胸中に次第に別離の思いがこみ上げてきた。「再見(さようなら)」水平線の彼方にかすんで見える故郷の島に向って、私は心の中で叫んでいた。

四年前訪台した際、私はこの港町を再び訪れた。あれから半世紀余の時が流れていた。私は港を見下ろす丘の上に立って、記憶にかすかに残る風景をカメラに収めながら、しばし懐旧の情に浸った。「(一年に)三百六十六日雨が降る」と言われたくらい雨の多い町─基隆らしく、その日も煙るような小糠雨に濡れていた。


(注)本稿は明治小学校同窓会誌より転載したものです。





『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html