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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成28年(2016)11月5日(土曜日)
通算第5073号
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(本日はニュース解説ありません)
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○◎○み○○○や○○○ざ○○○き○○◇
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 しょひょう BOOKREVIEW
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発行限度額をこえて兌換紙幣を発行し続けた宋、元、明の衰退
人民元を輪転機を回し続ける中国経済の運命も火を見るよりも明らか
♪
宇山卓栄『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
歴史はカネで動く。なるほど「カネ史観」により世界経済史を裁断する。
これで世界史を眺めれば解けなかった謎が氷解する、というわけだが、いささか牽強付会。こういう解釈もあるんだ。
幕末日本は金とメキシコ銀の交換比率の罠に落ちて、どっと日本の富が外国に持ち去られてしまった。備蓄金(大判小判)のおよそ三分の一が交換比率のマジックで収奪され、これが徳川幕府の滅亡を早めた遠因となったのは事実だろう。
歴史的にもおなじことは遠きアケメネス朝ペルシアでも起きた。
「アケメネス朝ペルシアの貨幣はきわめて良質で」(中略)「金と銀の交換比率は1:13と定められていました。ペルシアの西側の隣接地インドのGSRは1:8で、『金安、銀高』でした。そのためインド商人は金をアケメネス朝で、銀と交換し、銀をインドに持ち帰ります。ペルシアの銀はインドに流出する一方で、金がインドからペルシアへ流入しました」
銀を失うことで、市場の貨幣流動性は損なわれていった。
場所と時代は変わり、中国の宋王朝の時代、「銅銭鋳造量は唐時代の約50倍」となり、この重たい銅銭、鉄銭を運ぶに不便で、「交子舗」という両替所が設立され、兌換紙幣が産まれた。
その結果、どうなったか。
「宋王朝は銅銭、鉄銭の兌換準備金36万貫に対し、交子舗の発行限度額を125万貫としました。著しい経済発展の中、宋王朝は銅銭や鉄銭の鋳造を追いつかせることが出来ません」
つまり裏付けのない兌換紙幣が市場に溢れる。
貨幣は乱発され、信用を失うのは時間の問題、つまり経済の発展と平行して限度額の数十倍の兌換紙幣が市場を席巻し、とどのつまり信用不安がおこり貨幣価値は暴落する。
後継の元王朝も、明王朝も同じことを繰り返し、そのため王朝は滅んだと著者は分析する。だから世界史は99%、経済要因と『カネ史観』を説くわけである。
いまの中国共産党の経済統治をみても、同じ愚行が、過去の数千倍、数万倍の規模で繰り返されている。
するとどうなるか。
人民元を赤字国債や短期国債、政府祭の裏付けもなく、外貨順簿を取り崩す相対取引もなく、ひたすら輪転機を回し続けているわけだから、中国経済の運命も火を見るよりも明らかだろう。
◇○◇□○ ◇□○◎○□
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1485回】
―「汚吏?縁して奸を行ひ、遂に失敗に歸せり」(内藤24)
内藤虎次郎『支那漫遊 燕山楚水』(博文館 明治三十三年)
▽
「常には支那人とすれ違ひに、衣袖の相觸るヽさへ快よからぬを」とは、おそらく内藤の率直な思いだろう。彼らとすれ違って衣服が触れ合うのもタマラナイ、我慢ならない、イヤだ――内藤は、この“ウソ偽りなき感情”を、後に立つことになる京都帝国大学の教壇から学生に向って執念深く説いただろうか。「此國の人の執念深き心根」の持ち主とは「衣袖の相觸るヽさへ快よからぬ」ことを繰り返し語り、その原因を追究して教えていたなら、あるいは、その後の京都支那学は今より違った歩みをしただろうに。
であればこそ、「此の國の執念深い心根」の持ち主と「衣袖の相觸るヽさへ快よからぬ」という思いを、内藤には終生持ち続けて欲しかった。長い教壇生活を、その思いを貫いていたならば・・・返す返すも残念至極である。
蘇州では「寒山寺に至れば、(中略)ひもじ氣なる寒僧快よく應へて余を導く」。一望するに、天下の名刹の惨状に驚愕し呆れ返る。「寺堂は全く存せずして(中略)屋瓦石礎、磊々として亂れ」、歴史的扁額の類は見る影もなく、「塵埃臭穢の間に埋れんとす」。この地を訪れるのは「概ね我が邦人」のみ。蘇州は中国文人にとっては憧れの地であるはずを、この地に赴いて無残な姿を曝す名刹に哀惜の思いを抱く者すらいないとのことだ。「是も支那人の衰颯せる氣象の一兆候として視るべき者なり」と。
これをいいかえるなら内藤は、寒山寺の無残な光景もさることながら、中国文人にとっての憧憬の地であるはずの寒山寺の惨めな姿に無関心、心の痛みすら覚えない彼らに、「支那人の衰颯せる氣象の一兆候」を感じ取ったというわけだ。たった一枚の落ち葉に天下の秋を知るように、寒山時の惨状に「支那文人」のダメさ加減を知ったということだ。
そういえば、その昔のこと。中ソ論争が表面化せず、両国の蜜月関係が高らかに内外に喧伝されていた50年代後半だったと記憶するが、当時、日中友好運動に血道を挙げていた松村謙三は訪問先で錆ついているソ連からの援助物資をチラッと見たことで、中ソ関係にヒビが入っていることを察したとのこと。これこそ中ソ関係の「衰颯せる氣象の一兆候」ということだろう。だが難しいのが、いったい、なにが真の「支那人の衰颯せる氣象の一兆候」であるかどうか。それを見極めるのが難しい。至難であるから、軽々な即断は判断を誤ることになる。だから百害あって一利なし。
蘇州の日本領事館の東に位置する南禅寺は「白樂天が舊游の地と聞く」が、時間の都合で訪問を断念したものの、内藤は「其の寺僧の甚だ貪にして、余が蘇州に着せし前日、之を怨む者が自ら寺中縊れて、僧をしていたく迷惑がらせたりと聞く」と特記している。
怨みを晴らそうとする相手の屋敷内、あるいは門前で自殺して抗議の意思表示をすることを「軽生図頼」とも「架命図頼」とも、あるいは単に「図頼」と称し、12世紀後半から13世紀前半にかけて福建辺りで考え出された抗議方法――持つ者に対する持たざる者に残された最後の、唯一の、余りにも悲しい抵抗――であり、16世紀後半頃からは高い税や地代を強要する王朝や地主に対する農民の、最後の、捨て身の抗議方法として一般化し、明代や清代になると湖南、江西、江蘇など長江中下流域の農村に広まったといわれる。
日本のお化けは、相手の枕元辺りに立って「恨めしや」などと口にし、それで怨みが晴れたら終わり。一般には恨まれる相手にしか、お化けは見えないカラクリ。“善意の第三者”は無関係。だが中国は違う。死体は誰もが目にする。目にしたら誰が誰に怨みを抱いているかは一目瞭然。そこで「蓋し支那にて己が地内に死人あるは甚しき迷惑の事にて、貪吏に羅織の好資料を與ふるを以て、必ず重く吏に賂ふて、僅かに其の禍を免かるヽを得るという」。
この世という地獄の沙汰もカネ次第ということになる・・・阿弥陀仏。
~~~~~~~~~~~~~~
【知道中国 1486回】
――「汚吏?縁して奸を行ひ、遂に失敗に歸せり」(内藤25)
内藤虎次郎『支那漫遊 燕山楚水』(博文館 明治三十三年)
▽
どうやら、怨みを晴らし方にしても、彼我の違いがありそうだ。「此國の人の執念深き心根」はどこまでも、である。いや、それほどまでに怨みは深いと考えるべきかもしれない。
内藤が蘇州の南禅寺での「軽生図頼」に触れてから一世紀余りが過ぎた2002年に出版された中国の農村の惨状を綴った『我向総理説実話』(李昌平 光明日報出版社)で「茶卜事件」について報告されているが、同書の同書を日本語訳した『中国農村崩壊』(吉田富夫監訳 北村稔・周俊訳 NHK出版社 二〇〇四年)では、県当局の横暴に苦しんだ人物の抗議の自殺をめぐって、「抗議のために朱の遺体が郷政府に担ぎ込まれるにおよんだ」と注記されている。
これこそ現在も「軽生図頼」が行われている証拠だろう。なんとまあ伝統を重んずる民族であることかと呆れかえると同時に、そうまでにしなければ怨みを晴らすことのできない衆庶の悲しさが、余りにも憐れだ。中国に農民として生まれた者の運命だろう。
この悲しく凄まじい抗議方法が中国農村で数百年来終始一貫して行われていたとするなら、彼らの「執念深い心根」に恐れ慄くしかない。いやそうではなく開放時代、つまり誰もが「支那少年」のごとく「目前の利に就く」ようになった1980年代以降に復活したのか。その点の判断は他日を期すこととして、内藤の旅を続ける。
内藤の前に現れた蘇州の孔子廟は、「其の壮大を以て名ある者なるが、境内頗る荒れて、農夫の鋤犁に侵されたる處少なからず」であった。孔子なんぞを信奉したところで腹が満たされるわけはない。だから有難い聖廟の敷地であろうが、空いた土地なら耕してしまえ、というわけだ。これを「目前の利に就く」などろ蔑む勿れ。だいいち農民にとって、孔子も『論語』も有難くもなんともない。いや文字が読めないんだから。
ここで面白い統計を。中国における識字率だが、一説に2014年は90%で、建国時の1949年は20%だったとか。ついでに記しておくなら、平均寿命だが2014年は75歳で、建国時は36歳だった、とか。それにしても20世紀半ばで識字率が20%なら、その昔に農民が『論語』なんぞ目にする、いや目にしたところで莫明其妙(なにがなんだか、サッパリワカリマセン)であったはず。だいいち腹の足しにもなりません。
江南の旅を終えて上海に戻るや、折からの「天長節の佳辰に値ひ」、「領事館の宴會にも招かれて陛下の萬歳をほぎまつ」っている。同じ日、張園で日本人会に出席しているが、そこでは「自稱志士達に鼻衝合に驚」いている。さぞや多くの「自稱志士達」が蝟集していたことだろう。
次に内藤が次に向ったのは長江中流の漢口だった。
某日、「漢報館の宗方小太郎氏」らに案内され港に向うと、「岸上に扶桑宮の祠あるを見る、蓋し我が金毘羅神社を移し祀れる者にして、其の航業者の信仰する所と爲るに由り、支那の地、往々之を祀る者ありといふ」。内藤によれば我が八百万の神のうち、「其の異域に崇祀せらるヽ者、惟だ此神あり、吾はいたく象頭山頭の神威いやこちなるに感じぬ」と。
さて当時、金毘羅神社の末社は漢口以外に、どの港に祀られていただろうか。
漢口から長江を渡って武昌へ。黄鶴楼見物のためだが、「乞丐の五月蠅く附き纏ふに困しみ」と。よほど乞食に纏わりつかれたに違いない。
ところで武昌でも「在住の邦人は、大抵?師」であり、自強学堂、農務学堂、武備学堂などで教鞭を執っていた。多くの邦人教師が、近代化教育に挺進していたことになる。//
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歴史はカネで動く。なるほど「カネ史観」により世界経済史を裁断する。
これで世界史を眺めれば解けなかった謎が氷解する、というわけだが、いささか牽強付会。こういう解釈もあるんだ。
幕末日本は金とメキシコ銀の交換比率の罠に落ちて、どっと日本の富が外国に持ち去られてしまった。備蓄金(大判小判)のおよそ三分の一が交換比率のマジックで収奪され、これが徳川幕府の滅亡を早めた遠因となったのは事実だろう。
歴史的にもおなじことは遠きアケメネス朝ペルシアでも起きた。
「アケメネス朝ペルシアの貨幣はきわめて良質で」(中略)「金と銀の交換比率は1:13と定められていました。ペルシアの西側の隣接地インドのGSRは1:8で、『金安、銀高』でした。そのためインド商人は金をアケメネス朝で、銀と交換し、銀をインドに持ち帰ります。ペルシアの銀はインドに流出する一方で、金がインドからペルシアへ流入しました」
銀を失うことで、市場の貨幣流動性は損なわれていった。
場所と時代は変わり、中国の宋王朝の時代、「銅銭鋳造量は唐時代の約50倍」となり、この重たい銅銭、鉄銭を運ぶに不便で、「交子舗」という両替所が設立され、兌換紙幣が産まれた。
その結果、どうなったか。
「宋王朝は銅銭、鉄銭の兌換準備金36万貫に対し、交子舗の発行限度額を125万貫としました。著しい経済発展の中、宋王朝は銅銭や鉄銭の鋳造を追いつかせることが出来ません」
つまり裏付けのない兌換紙幣が市場に溢れる。
貨幣は乱発され、信用を失うのは時間の問題、つまり経済の発展と平行して限度額の数十倍の兌換紙幣が市場を席巻し、とどのつまり信用不安がおこり貨幣価値は暴落する。
後継の元王朝も、明王朝も同じことを繰り返し、そのため王朝は滅んだと著者は分析する。だから世界史は99%、経済要因と『カネ史観』を説くわけである。
いまの中国共産党の経済統治をみても、同じ愚行が、過去の数千倍、数万倍の規模で繰り返されている。
するとどうなるか。
人民元を赤字国債や短期国債、政府祭の裏付けもなく、外貨順簿を取り崩す相対取引もなく、ひたすら輪転機を回し続けているわけだから、中国経済の運命も火を見るよりも明らかだろう。
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―「汚吏?縁して奸を行ひ、遂に失敗に歸せり」(内藤24)
内藤虎次郎『支那漫遊 燕山楚水』(博文館 明治三十三年)
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「常には支那人とすれ違ひに、衣袖の相觸るヽさへ快よからぬを」とは、おそらく内藤の率直な思いだろう。彼らとすれ違って衣服が触れ合うのもタマラナイ、我慢ならない、イヤだ――内藤は、この“ウソ偽りなき感情”を、後に立つことになる京都帝国大学の教壇から学生に向って執念深く説いただろうか。「此國の人の執念深き心根」の持ち主とは「衣袖の相觸るヽさへ快よからぬ」ことを繰り返し語り、その原因を追究して教えていたなら、あるいは、その後の京都支那学は今より違った歩みをしただろうに。
であればこそ、「此の國の執念深い心根」の持ち主と「衣袖の相觸るヽさへ快よからぬ」という思いを、内藤には終生持ち続けて欲しかった。長い教壇生活を、その思いを貫いていたならば・・・返す返すも残念至極である。
蘇州では「寒山寺に至れば、(中略)ひもじ氣なる寒僧快よく應へて余を導く」。一望するに、天下の名刹の惨状に驚愕し呆れ返る。「寺堂は全く存せずして(中略)屋瓦石礎、磊々として亂れ」、歴史的扁額の類は見る影もなく、「塵埃臭穢の間に埋れんとす」。この地を訪れるのは「概ね我が邦人」のみ。蘇州は中国文人にとっては憧れの地であるはずを、この地に赴いて無残な姿を曝す名刹に哀惜の思いを抱く者すらいないとのことだ。「是も支那人の衰颯せる氣象の一兆候として視るべき者なり」と。
これをいいかえるなら内藤は、寒山寺の無残な光景もさることながら、中国文人にとっての憧憬の地であるはずの寒山寺の惨めな姿に無関心、心の痛みすら覚えない彼らに、「支那人の衰颯せる氣象の一兆候」を感じ取ったというわけだ。たった一枚の落ち葉に天下の秋を知るように、寒山時の惨状に「支那文人」のダメさ加減を知ったということだ。
そういえば、その昔のこと。中ソ論争が表面化せず、両国の蜜月関係が高らかに内外に喧伝されていた50年代後半だったと記憶するが、当時、日中友好運動に血道を挙げていた松村謙三は訪問先で錆ついているソ連からの援助物資をチラッと見たことで、中ソ関係にヒビが入っていることを察したとのこと。これこそ中ソ関係の「衰颯せる氣象の一兆候」ということだろう。だが難しいのが、いったい、なにが真の「支那人の衰颯せる氣象の一兆候」であるかどうか。それを見極めるのが難しい。至難であるから、軽々な即断は判断を誤ることになる。だから百害あって一利なし。
蘇州の日本領事館の東に位置する南禅寺は「白樂天が舊游の地と聞く」が、時間の都合で訪問を断念したものの、内藤は「其の寺僧の甚だ貪にして、余が蘇州に着せし前日、之を怨む者が自ら寺中縊れて、僧をしていたく迷惑がらせたりと聞く」と特記している。
怨みを晴らそうとする相手の屋敷内、あるいは門前で自殺して抗議の意思表示をすることを「軽生図頼」とも「架命図頼」とも、あるいは単に「図頼」と称し、12世紀後半から13世紀前半にかけて福建辺りで考え出された抗議方法――持つ者に対する持たざる者に残された最後の、唯一の、余りにも悲しい抵抗――であり、16世紀後半頃からは高い税や地代を強要する王朝や地主に対する農民の、最後の、捨て身の抗議方法として一般化し、明代や清代になると湖南、江西、江蘇など長江中下流域の農村に広まったといわれる。
日本のお化けは、相手の枕元辺りに立って「恨めしや」などと口にし、それで怨みが晴れたら終わり。一般には恨まれる相手にしか、お化けは見えないカラクリ。“善意の第三者”は無関係。だが中国は違う。死体は誰もが目にする。目にしたら誰が誰に怨みを抱いているかは一目瞭然。そこで「蓋し支那にて己が地内に死人あるは甚しき迷惑の事にて、貪吏に羅織の好資料を與ふるを以て、必ず重く吏に賂ふて、僅かに其の禍を免かるヽを得るという」。
この世という地獄の沙汰もカネ次第ということになる・・・阿弥陀仏。
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【知道中国 1486回】
――「汚吏?縁して奸を行ひ、遂に失敗に歸せり」(内藤25)
内藤虎次郎『支那漫遊 燕山楚水』(博文館 明治三十三年)
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どうやら、怨みを晴らし方にしても、彼我の違いがありそうだ。「此國の人の執念深き心根」はどこまでも、である。いや、それほどまでに怨みは深いと考えるべきかもしれない。
内藤が蘇州の南禅寺での「軽生図頼」に触れてから一世紀余りが過ぎた2002年に出版された中国の農村の惨状を綴った『我向総理説実話』(李昌平 光明日報出版社)で「茶卜事件」について報告されているが、同書の同書を日本語訳した『中国農村崩壊』(吉田富夫監訳 北村稔・周俊訳 NHK出版社 二〇〇四年)では、県当局の横暴に苦しんだ人物の抗議の自殺をめぐって、「抗議のために朱の遺体が郷政府に担ぎ込まれるにおよんだ」と注記されている。
これこそ現在も「軽生図頼」が行われている証拠だろう。なんとまあ伝統を重んずる民族であることかと呆れかえると同時に、そうまでにしなければ怨みを晴らすことのできない衆庶の悲しさが、余りにも憐れだ。中国に農民として生まれた者の運命だろう。
この悲しく凄まじい抗議方法が中国農村で数百年来終始一貫して行われていたとするなら、彼らの「執念深い心根」に恐れ慄くしかない。いやそうではなく開放時代、つまり誰もが「支那少年」のごとく「目前の利に就く」ようになった1980年代以降に復活したのか。その点の判断は他日を期すこととして、内藤の旅を続ける。
内藤の前に現れた蘇州の孔子廟は、「其の壮大を以て名ある者なるが、境内頗る荒れて、農夫の鋤犁に侵されたる處少なからず」であった。孔子なんぞを信奉したところで腹が満たされるわけはない。だから有難い聖廟の敷地であろうが、空いた土地なら耕してしまえ、というわけだ。これを「目前の利に就く」などろ蔑む勿れ。だいいち農民にとって、孔子も『論語』も有難くもなんともない。いや文字が読めないんだから。
ここで面白い統計を。中国における識字率だが、一説に2014年は90%で、建国時の1949年は20%だったとか。ついでに記しておくなら、平均寿命だが2014年は75歳で、建国時は36歳だった、とか。それにしても20世紀半ばで識字率が20%なら、その昔に農民が『論語』なんぞ目にする、いや目にしたところで莫明其妙(なにがなんだか、サッパリワカリマセン)であったはず。だいいち腹の足しにもなりません。
江南の旅を終えて上海に戻るや、折からの「天長節の佳辰に値ひ」、「領事館の宴會にも招かれて陛下の萬歳をほぎまつ」っている。同じ日、張園で日本人会に出席しているが、そこでは「自稱志士達に鼻衝合に驚」いている。さぞや多くの「自稱志士達」が蝟集していたことだろう。
次に内藤が次に向ったのは長江中流の漢口だった。
某日、「漢報館の宗方小太郎氏」らに案内され港に向うと、「岸上に扶桑宮の祠あるを見る、蓋し我が金毘羅神社を移し祀れる者にして、其の航業者の信仰する所と爲るに由り、支那の地、往々之を祀る者ありといふ」。内藤によれば我が八百万の神のうち、「其の異域に崇祀せらるヽ者、惟だ此神あり、吾はいたく象頭山頭の神威いやこちなるに感じぬ」と。
さて当時、金毘羅神社の末社は漢口以外に、どの港に祀られていただろうか。
漢口から長江を渡って武昌へ。黄鶴楼見物のためだが、「乞丐の五月蠅く附き纏ふに困しみ」と。よほど乞食に纏わりつかれたに違いない。
ところで武昌でも「在住の邦人は、大抵?師」であり、自強学堂、農務学堂、武備学堂などで教鞭を執っていた。多くの邦人教師が、近代化教育に挺進していたことになる。//