--------
↓全文読めない等の場合はバックナンバーでご覧下さい↓
http://melma.com/backnumber_160538/
問い合わせID
g0F2VRlqv0QyQ6ddl162mGC0176f80fb
--------
■第1401話 「馬」の渡来地は大阪四條畷市
####################################
今回は以下のメールマガジンに掲載された内容の転載です。
メイル・マガジン「頂門の一針」3384号 2015(平成27)年12月31日(木)
作者の勤務の都合により、予告無しで配信を休む場合があります。
####################################
━━━━━━━━━━━━━━
「馬」の渡来地は大阪四條畷市
━━━━━━━━━━━━━━
毛馬 一三
わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市(しじょうなわて)であったことを知らされ、ビックリした。
大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは分かっていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない大阪四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。
ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることが公表されたのだ。
四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。
しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしいのだ。
しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できる立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動性を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。
朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。
「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。
そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことも思い出した。
四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。
2~2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めてである。
同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、大阪府教育委員会は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。
動物考古学者によると、「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。
馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。
たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。
総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。
その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。
復元船は、全長10!)、幅1!)、10人乗りの船。
航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは分からない。
そこで、四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。
それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値は、権力側から高く評価されていた。
しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が、いたる所で作られるようになり、その所為か平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。
こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したことみなる。
名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れている。
参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」
(完結)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
■ 歴史好きの素人が語る歴史(第1401話)(2016年01月03日号)
・ このマガジンは『melma!』から発行されています。
(ID:160538)
http://melma.com/
・ 配信中止は、こちらからどうぞ
http://www.melma.com/backnumber_160538/
・ 作者は、中澤勇二(台湾名 陳澤民)です。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
--------
メルマガ解除やバックナンバーは↓
http://melma.com/backnumber_160538/
問い合わせID
g0v2cRbqF0LyB6idb1A2mG80176f80fb
※解除が上手くいかない場合、上記問い合わせIDをコピーしてお問い合わせください。
--------
↓全文読めない等の場合はバックナンバーでご覧下さい↓
http://melma.com/backnumber_160538/
問い合わせID
g0F2VRlqv0QyQ6ddl162mGC0176f80fb
--------
■第1401話 「馬」の渡来地は大阪四條畷市
####################################
今回は以下のメールマガジンに掲載された内容の転載です。
メイル・マガジン「頂門の一針」3384号 2015(平成27)年12月31日(木)
作者の勤務の都合により、予告無しで配信を休む場合があります。
####################################
━━━━━━━━━━━━━━
「馬」の渡来地は大阪四條畷市
━━━━━━━━━━━━━━
毛馬 一三
わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市(しじょうなわて)であったことを知らされ、ビックリした。
大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは分かっていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない大阪四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。
ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることが公表されたのだ。
四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。
しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしいのだ。
しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できる立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動性を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。
朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。
「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。
そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことも思い出した。
四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。
2~2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めてである。
同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、大阪府教育委員会は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。
動物考古学者によると、「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。
馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。
たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。
総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。
その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。
復元船は、全長10!)、幅1!)、10人乗りの船。
航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは分からない。
そこで、四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。
それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値は、権力側から高く評価されていた。
しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が、いたる所で作られるようになり、その所為か平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。
こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したことみなる。
名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れている。
参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」
(完結)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
■ 歴史好きの素人が語る歴史(第1401話)(2016年01月03日号)
・ このマガジンは『melma!』から発行されています。
(ID:160538)
http://melma.com/
・ 配信中止は、こちらからどうぞ
http://www.melma.com/backnumber_160538/
・ 作者は、中澤勇二(台湾名 陳澤民)です。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
--------
メルマガ解除やバックナンバーは↓
http://melma.com/backnumber_160538/
問い合わせID
g0v2cRbqF0LyB6idb1A2mG80176f80fb
※解除が上手くいかない場合、上記問い合わせIDをコピーしてお問い合わせください。
--------