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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成27年(2015)8月15日(土曜日)弐
通算第4628号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
団派ナンバーツー=李源潮の右腕を除籍処分
習近平、「反腐敗」でまたも胡錦涛人脈をねらい撃ちか
***************************************
8月14日、元江蘇省党常任委員会秘書長だった越少麟を「重大な規律違反」で拘束、党籍を剥奪したと発表し、斯界に衝撃をあたえた。同時に当時の江蘇省幹部3名が失脚した。
容疑としてあげられたのは越少麟が特権を利用して息子(越晋)の不動産ビジネスに便宜をはかり不適切な収入を得るなどしたというもの。
注目するべきは、この越少麒が秘書長時代(2003年‐06年)のボスは李源潮だったことである。
李源潮は団派を代表する実力者で、現在は「国家副主席」。政治局員でライジングスターの王洋と肩を並べる。
在米華字紙などは単に失脚を報じただけだが、香港の『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』(8月15日)は、「李源潮の右腕が失脚」と、団派の実力者の側近に捜査の輪を広げたポイント力点を置いた報じかただ。
さきに胡錦涛の右腕だった令計画が失脚し、家族もろとも拘束されたため、末弟が米国へ逃げた。今度は李源潮の右腕だった男の失脚だから、これを習近平 vs 団派の確執第二弾と捉えることは可能だろう。
さきにも李源潮は女婿らが香港でファンドを展開していることなどが香港のメディアにリークされ、「清廉」のイメージのあった団派人脈の評価を低める総合的効果をあげたこととなる。
奥の院の権力闘争、まだまだこれからが本番、安倍談話批判どころではない。
◎◎□ □○ ○○□
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
靖国神社の存立意義をあらためて世に問う
富田メモの信憑性にも言及され、歴史の謎の断面に光
♪
湯澤貞『靖国神社のみたまに仕えて』(展転社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
靖国神社第八代宮司の湯澤氏が祈りをこめて綴った半生記、そして「A級戦犯」「首相参拝」「富田メモ」などオール靖国神社問題に対する所見を披露される。
「たとえば一人息子を戦場に送り出し、赫々たる武勲をたて家の誇りと喜んだが、戦陣に倒れ、白木の箱に包まれて無言の凱旋。家にあっては両親が朝夕に心を籠めて供養しているだろうが、逆縁の悲しさ、やがて両親も他界すると無縁のみたま、無縁の仏になってしまう。
しかし、靖国神社に祀られることによって、靖国の神と崇められて、陛下の御親拝を受けることになる。また多くの参拝者も感謝の祈りを捧げて下さるのである」
それゆえに靖国神社に仕える人たちは「神燈(みあかし)を高く掲げ誇りを胸に、堂塔と邁進」するのである。
さて、本書の一部に挿入されて重要な箇所は、かの怪しげな「富田メモ」である。
湯澤氏は、これを如何に受け止められたのか?
所謂「富田メモ」なる怪しげな、ランダムなメモつづりの出現は日経新聞が「スクープ」したことになっており、当時の天皇陛下のご心境が拝察できると、蓮っ葉な歴史家らがメディアに語っていた。そもそも侍従風情が御上の心中などはかりしれる訳が無く、いかにも作為を感じたのは評者だけではなかっただろう。いや怒りさえ感じたものだった。
湯澤氏も同様であった。
「本当に(富田メモが)陛下のお言葉だとすると、日常の陛下のもれ承るご様子とはあまりにも乖離があるからだ」とされ、往時の諸関係を述べられ、中曽根、後藤田、そして富田という三人の内務省出身の共通ルーツに注目される。
したがってメモは不自然きわまりないものとなり、自らとその周囲のことばかりを印したものの、判読不明のメモにした。つまり「あれは判読しがたいから残したのだ」と湯澤氏は推論され、一方で富田長官は「判読可能」な日記をちゃんと残しているから、「小心な官僚である富田氏は、天皇のお言葉を詳細に描き残すだけの「勇気は持ち合わせていなかった」
したがって富田長官は読者が解釈自由のメモを残したのだろう、とされる。
◇○▽□◇
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
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♪
(読者の声1)貴誌前号「安倍談話」にういて、良かったですね。なぜか誰も言わないのですが、まずは前置き、ほぼ第一声で「歴史は国家や体制の都合でゆがめられてはならない」と述べてられています。
歴史の真実を見ろ、ということで、中韓に対する強烈な皮肉を感じました。
誰も言わないという事は、頭の悪いサヨクは気がつきもしないということでしょう。してやったり、というところでしょうか。安部講話はよく考えられていますね。
確かに行間を読むべきと思います。
(NS生:千葉)
♪
(読者の声2)安倍談話の冒頭部分に「日露戦争」が出てきたので期待を込めて読みました。後半部に「先の世代に謝罪する宿命を背負わせてはなりません。」とも記載されています。
小生には「談話も謝罪もこれっきりにしようぜっ」と読めました。
早速、シナ、朝鮮、村山などが文句をいってきましたが、わが国にとって良い談話であったことが立証されたようです。
(GV2)
♪
(読者の声3)安倍談話でようやく村山談話の歴史のくびきが外され,日本人の歴史研究が急に自由になってきた感じがします。
さて貴誌前号の小川栄太郎氏への書評に関して以下に感想です。
「支那事変理解の要点」
小川栄太郎氏は愛国者で期待しています。
ただし支那事変の歴史観については、補足が必要と思います。支那事変の発端の概要についてはチューブ動画(索引:ajer 支那事変の本当の原因は何だったのか)を参照してください。
小川氏は「大東亜戦争は敗戦したので無条件では肯定できない」というが、この戦争は自衛戦争でした。戦争はビジネスではありません。「人間は負ける戦争を何故するのか」を知りたいと思います。同じ敗戦国のフィンランド人は負けたけれど対ソ戦を誇りに思っています。指導者マンネハイムは銅像になってヘルシンキ駅前に立っています。日本なら東條英機です。
1930年代には大不況で国際貿易がブロック化したのでヒトラーは自給体制を確立するため、「わが闘争」で明言していたロシア占領に向かいます。これに対してスターリンが東西挟撃を防ぐために極東工作を行います。それが支那事変です。(成功しました)米国の援蒋の目的は、これとは別の満洲狙いでした。日本を滅ぼし支那満州を蒋介石を傀儡に支配しようと考えたのです。(失敗しました)
日本の満州事変は、日露戦争で得た正当な権益を1929年から張学良軍閥が侵害したので撃退したのが原因です。満洲は満洲人王朝の清朝の本土ですが、万里の長城の外にあるように支那の伝統的な領域ではないことを確認したい。
満州事変は支那事変とは関係ありません。満洲では戦争はありませんでした。西安事件前の蒋介石は国共内戦勝利と支那統一を最優先にしていました。有名な「安内攘外」方針です。無理に関係を主張するのは、1936.12の西安事件で蒋介石が支那統一方針から対日戦に転向した史実を隠蔽するためでしょう。
支那大陸は1912年の清朝滅亡後複数の地域軍閥が覇権を争う戦国時代になりました。
いわゆる「中華民国」も国民党軍閥の自称にすぎなかった。国民の選挙があったわけではない。支那事変の分析は「中国」と言うあいまいな概念を使わず具体的な軍閥名で呼ぶと分かり易くだまされない。
日本は1901年の義和団議定書以来米英仏伊とともに30年来北京地域にPKO軍を置いて居留民を保護していた。支那本土を占領する気はありませんでした。それが1937.7.8に日本のPKO部隊だけが襲われたのです。
独ソ戦を控えたスターリンは1936.12の西安事件で捕らえた蒋介石に対日攻撃を命じました。そこで蒋介石は1937年前半6ヶ月間にソ連の3億ドルに上る軍事借款を得て、厖大な対日戦の準備(食料、兵器、弾薬、飛行機など)を完了しました。そして
1937.7から挑発を開始しました。この狙いは、日本人を激昂させることと、国際社会に戦争責任をごまかすことと思われます。日本はその手に乗って支那事変になりました。
7月から起きた盧溝橋事件以下通州事件を含むいくつかのの対日挑発事件は仕組まれたものです。米国のルーズベルトは「政治的な事件には偶発はない。すべては仕組まれている」と述べています。
したがって盧溝橋事件の発端として中共が蒋介石軍と日本軍の双方を攻撃して戦争させたという俗説は、水滸伝のレベルの珍説であり、厖大な準備と補給を前提とする近代戦ではありえないことです。これは西安事件の蒋介石の共産党への降伏を隠すものです。1937年には国共の小さな衝突がありますが,これも西安事件の蒋介石の降伏を隠すための芝居と思われます。共産党の本拠地、延安総攻撃をやらないのですから。
上海の蒋介石の攻撃に対して日本の方針選択では、支那からの総撤退論(参謀本部作戦部長石原完爾大佐)とその他の人々の一撃講和論に分かれましたが、決断が遅れている間に蒋介石が大軍を投入し現地の状況が急速に悪化したため、本土から救援軍を送らざるをえなくなり、それが泥沼化したのです。
汪兆銘政権は約7年間、日本軍と支那沿海部、人口2億以上重慶を除く一千都市、工業生産の9割以上を支配しました。蒋介石は奥地の地方政権となり、米ソの援助がなければ一日も戦争を続けることは出来ませんでした。日本軍は町外れに駐屯し、物資の買い付け以外現地人の生活に関与しませんでした。占領地はおおむね平和で、帰還時には現地商人から婿になって欲しいといわれた購買担当の日本兵もいたほどです。
蒋介石の傀儡性は、1945.2の戦後世界を決める最重要のヤルタ会議に呼ばれず、米ソが蒋介石の了解もなく支那処分(外蒙古のソ連割譲、帝政ロシアの支那利権の回復)を決めたことから明らかです。蒋介石は息子をモスクワに送りスターリンに抗議しますが相手にされず、泣く泣く事後承諾しました。中共は資金、武器、監督をソ連に仰ぐソ連共産党の支那支部に過ぎませんでした。
日本は支那事変ではヒトラーの仲介も利用し、何度も蒋介石に講和を提案しましたが、蒋介石はスターリンの傀儡になっており真面目に取り組まず、日本の手の内を見るだけでした。だから近衛声明は正しかったのです。なお蒋介石からの講和提案としては、1945.3のミョウヒン工作がありますが遅すぎました。
支那事変の分析では、蒋介石が何故自分が損をする対日戦争を続けたのか、を合理的に説明できることが必要です。西安事件の実行犯の一人張学良によると、戦後台湾で蒋介石は「お前のために支那を失った」と終生許さなかったと言います。(張学良は事件後蒋介石に降伏し(莫大な身代金?)助命され幽閉された)//
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習近平、「反腐敗」でまたも胡錦涛人脈をねらい撃ちか
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8月14日、元江蘇省党常任委員会秘書長だった越少麟を「重大な規律違反」で拘束、党籍を剥奪したと発表し、斯界に衝撃をあたえた。同時に当時の江蘇省幹部3名が失脚した。
容疑としてあげられたのは越少麟が特権を利用して息子(越晋)の不動産ビジネスに便宜をはかり不適切な収入を得るなどしたというもの。
注目するべきは、この越少麒が秘書長時代(2003年‐06年)のボスは李源潮だったことである。
李源潮は団派を代表する実力者で、現在は「国家副主席」。政治局員でライジングスターの王洋と肩を並べる。
在米華字紙などは単に失脚を報じただけだが、香港の『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』(8月15日)は、「李源潮の右腕が失脚」と、団派の実力者の側近に捜査の輪を広げたポイント力点を置いた報じかただ。
さきに胡錦涛の右腕だった令計画が失脚し、家族もろとも拘束されたため、末弟が米国へ逃げた。今度は李源潮の右腕だった男の失脚だから、これを習近平 vs 団派の確執第二弾と捉えることは可能だろう。
さきにも李源潮は女婿らが香港でファンドを展開していることなどが香港のメディアにリークされ、「清廉」のイメージのあった団派人脈の評価を低める総合的効果をあげたこととなる。
奥の院の権力闘争、まだまだこれからが本番、安倍談話批判どころではない。
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富田メモの信憑性にも言及され、歴史の謎の断面に光
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湯澤貞『靖国神社のみたまに仕えて』(展転社)
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靖国神社第八代宮司の湯澤氏が祈りをこめて綴った半生記、そして「A級戦犯」「首相参拝」「富田メモ」などオール靖国神社問題に対する所見を披露される。
「たとえば一人息子を戦場に送り出し、赫々たる武勲をたて家の誇りと喜んだが、戦陣に倒れ、白木の箱に包まれて無言の凱旋。家にあっては両親が朝夕に心を籠めて供養しているだろうが、逆縁の悲しさ、やがて両親も他界すると無縁のみたま、無縁の仏になってしまう。
しかし、靖国神社に祀られることによって、靖国の神と崇められて、陛下の御親拝を受けることになる。また多くの参拝者も感謝の祈りを捧げて下さるのである」
それゆえに靖国神社に仕える人たちは「神燈(みあかし)を高く掲げ誇りを胸に、堂塔と邁進」するのである。
さて、本書の一部に挿入されて重要な箇所は、かの怪しげな「富田メモ」である。
湯澤氏は、これを如何に受け止められたのか?
所謂「富田メモ」なる怪しげな、ランダムなメモつづりの出現は日経新聞が「スクープ」したことになっており、当時の天皇陛下のご心境が拝察できると、蓮っ葉な歴史家らがメディアに語っていた。そもそも侍従風情が御上の心中などはかりしれる訳が無く、いかにも作為を感じたのは評者だけではなかっただろう。いや怒りさえ感じたものだった。
湯澤氏も同様であった。
「本当に(富田メモが)陛下のお言葉だとすると、日常の陛下のもれ承るご様子とはあまりにも乖離があるからだ」とされ、往時の諸関係を述べられ、中曽根、後藤田、そして富田という三人の内務省出身の共通ルーツに注目される。
したがってメモは不自然きわまりないものとなり、自らとその周囲のことばかりを印したものの、判読不明のメモにした。つまり「あれは判読しがたいから残したのだ」と湯澤氏は推論され、一方で富田長官は「判読可能」な日記をちゃんと残しているから、「小心な官僚である富田氏は、天皇のお言葉を詳細に描き残すだけの「勇気は持ち合わせていなかった」
したがって富田長官は読者が解釈自由のメモを残したのだろう、とされる。
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歴史の真実を見ろ、ということで、中韓に対する強烈な皮肉を感じました。
誰も言わないという事は、頭の悪いサヨクは気がつきもしないということでしょう。してやったり、というところでしょうか。安部講話はよく考えられていますね。
確かに行間を読むべきと思います。
(NS生:千葉)
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小生には「談話も謝罪もこれっきりにしようぜっ」と読めました。
早速、シナ、朝鮮、村山などが文句をいってきましたが、わが国にとって良い談話であったことが立証されたようです。
(GV2)
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(読者の声3)安倍談話でようやく村山談話の歴史のくびきが外され,日本人の歴史研究が急に自由になってきた感じがします。
さて貴誌前号の小川栄太郎氏への書評に関して以下に感想です。
「支那事変理解の要点」
小川栄太郎氏は愛国者で期待しています。
ただし支那事変の歴史観については、補足が必要と思います。支那事変の発端の概要についてはチューブ動画(索引:ajer 支那事変の本当の原因は何だったのか)を参照してください。
小川氏は「大東亜戦争は敗戦したので無条件では肯定できない」というが、この戦争は自衛戦争でした。戦争はビジネスではありません。「人間は負ける戦争を何故するのか」を知りたいと思います。同じ敗戦国のフィンランド人は負けたけれど対ソ戦を誇りに思っています。指導者マンネハイムは銅像になってヘルシンキ駅前に立っています。日本なら東條英機です。
1930年代には大不況で国際貿易がブロック化したのでヒトラーは自給体制を確立するため、「わが闘争」で明言していたロシア占領に向かいます。これに対してスターリンが東西挟撃を防ぐために極東工作を行います。それが支那事変です。(成功しました)米国の援蒋の目的は、これとは別の満洲狙いでした。日本を滅ぼし支那満州を蒋介石を傀儡に支配しようと考えたのです。(失敗しました)
日本の満州事変は、日露戦争で得た正当な権益を1929年から張学良軍閥が侵害したので撃退したのが原因です。満洲は満洲人王朝の清朝の本土ですが、万里の長城の外にあるように支那の伝統的な領域ではないことを確認したい。
満州事変は支那事変とは関係ありません。満洲では戦争はありませんでした。西安事件前の蒋介石は国共内戦勝利と支那統一を最優先にしていました。有名な「安内攘外」方針です。無理に関係を主張するのは、1936.12の西安事件で蒋介石が支那統一方針から対日戦に転向した史実を隠蔽するためでしょう。
支那大陸は1912年の清朝滅亡後複数の地域軍閥が覇権を争う戦国時代になりました。
いわゆる「中華民国」も国民党軍閥の自称にすぎなかった。国民の選挙があったわけではない。支那事変の分析は「中国」と言うあいまいな概念を使わず具体的な軍閥名で呼ぶと分かり易くだまされない。
日本は1901年の義和団議定書以来米英仏伊とともに30年来北京地域にPKO軍を置いて居留民を保護していた。支那本土を占領する気はありませんでした。それが1937.7.8に日本のPKO部隊だけが襲われたのです。
独ソ戦を控えたスターリンは1936.12の西安事件で捕らえた蒋介石に対日攻撃を命じました。そこで蒋介石は1937年前半6ヶ月間にソ連の3億ドルに上る軍事借款を得て、厖大な対日戦の準備(食料、兵器、弾薬、飛行機など)を完了しました。そして
1937.7から挑発を開始しました。この狙いは、日本人を激昂させることと、国際社会に戦争責任をごまかすことと思われます。日本はその手に乗って支那事変になりました。
7月から起きた盧溝橋事件以下通州事件を含むいくつかのの対日挑発事件は仕組まれたものです。米国のルーズベルトは「政治的な事件には偶発はない。すべては仕組まれている」と述べています。
したがって盧溝橋事件の発端として中共が蒋介石軍と日本軍の双方を攻撃して戦争させたという俗説は、水滸伝のレベルの珍説であり、厖大な準備と補給を前提とする近代戦ではありえないことです。これは西安事件の蒋介石の共産党への降伏を隠すものです。1937年には国共の小さな衝突がありますが,これも西安事件の蒋介石の降伏を隠すための芝居と思われます。共産党の本拠地、延安総攻撃をやらないのですから。
上海の蒋介石の攻撃に対して日本の方針選択では、支那からの総撤退論(参謀本部作戦部長石原完爾大佐)とその他の人々の一撃講和論に分かれましたが、決断が遅れている間に蒋介石が大軍を投入し現地の状況が急速に悪化したため、本土から救援軍を送らざるをえなくなり、それが泥沼化したのです。
汪兆銘政権は約7年間、日本軍と支那沿海部、人口2億以上重慶を除く一千都市、工業生産の9割以上を支配しました。蒋介石は奥地の地方政権となり、米ソの援助がなければ一日も戦争を続けることは出来ませんでした。日本軍は町外れに駐屯し、物資の買い付け以外現地人の生活に関与しませんでした。占領地はおおむね平和で、帰還時には現地商人から婿になって欲しいといわれた購買担当の日本兵もいたほどです。
蒋介石の傀儡性は、1945.2の戦後世界を決める最重要のヤルタ会議に呼ばれず、米ソが蒋介石の了解もなく支那処分(外蒙古のソ連割譲、帝政ロシアの支那利権の回復)を決めたことから明らかです。蒋介石は息子をモスクワに送りスターリンに抗議しますが相手にされず、泣く泣く事後承諾しました。中共は資金、武器、監督をソ連に仰ぐソ連共産党の支那支部に過ぎませんでした。
日本は支那事変ではヒトラーの仲介も利用し、何度も蒋介石に講和を提案しましたが、蒋介石はスターリンの傀儡になっており真面目に取り組まず、日本の手の内を見るだけでした。だから近衛声明は正しかったのです。なお蒋介石からの講和提案としては、1945.3のミョウヒン工作がありますが遅すぎました。
支那事変の分析では、蒋介石が何故自分が損をする対日戦争を続けたのか、を合理的に説明できることが必要です。西安事件の実行犯の一人張学良によると、戦後台湾で蒋介石は「お前のために支那を失った」と終生許さなかったと言います。(張学良は事件後蒋介石に降伏し(莫大な身代金?)助命され幽閉された)//