NEC_7424.jpg

61fW8sIFWIL.jpg

539ae6e34486f.jpg

NEC_7481.jpg

81rpSz-QNXL.jpg

STIL2375.jpg

NEC_7470.jpg

NEC_8083.jpg

NEC_7446.jpg

NEC_7471.jpg


こんにちは。エンリケです。

今週土曜日は、大東亞戦争で倒れた英霊の皆さまの鎮魂の日です。

先生もおっしゃっているとおり
<正しい歴史を伝承する>
誓いを新たにしたいと思います。

さっそく本文をどうぞ

エンリケ

───────────────────────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります。
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ

E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://wos.cool.coocan.jp
────────────────────────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                 荒木 肇
『動員のコスト(8)――日本陸軍の動員(8)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 暑い日が続いています。
熱中症で搬送され、亡くなる方も多いようです。
皆様はいかがおすごしでしょうか。

わたしはおかげさまで夏の休暇をいただき、ゆっくりしています。毎年、この時期になると戦争をふり返るマスコミの企画、とりわけテレビには多くのドラマやセミ・ドキュメンタリーの番組が多くなります。

それぞれに製作者の皆さんのご努力もあるのでしょうが、なかには考証的にいかにも適当だとしか思えないものもあります。


 敗戦から70年、正確な記憶も薄れてきて、正確な知識もなくなってきているのでしょう。
作られる方々の中に、まあ、軍隊はこんなものだっただろう、らしくあればいいじゃないかとでも思っているのかのような姿勢、考え方が透けて見えるのはわたしだけではないと思います。

 今年も鎮魂の日、8月15日が近づいてきました。
戦われた先人たちに感謝し、より正しい歴史を伝承していきましょう。

「陸軍軍戦備」を見ると、戦時には動員によって平時兵力の数倍になるように計画されています。
ところが実際には、日露戦争や支那事変ではその計画のおよそ2倍、大東亜戦争では4倍の兵力が使われました。これほどの違いはどこから来るものだったのでしょうか。

 その答えが当局者からありました。『軍事史学』には座談会によって、当時の担当者の方々から聞き取りが行なわれていました。まず、「戦域」の問題がありました。
『平時はなんとか手持ちの兵力でまかなうように、切りつめて作戦を計画しているが、いざ戦いになると勝たねばならぬということで、敵の出方に応じて、どうしても戦域が広がってくる。
特に大東亜戦争では、いろいろな事情から北と南の二正面作戦をやらねばならなくなってしまったので戦域が著しく拡がってしまった』

 次に、『作戦期間が長くなっている。昔は一つの決戦が数日で終わったものが、どうかすると一ヶ月くらいすぐたってしまう。何とか早く終わらせようとするには大きな兵力を集めることになり、兵力所要が増すことになる。
要するに縦深横広(じゅうしん・おうこう)になって増加した』とあります。

 どれだけ平時に計画を立てていても、いざ戦さになってみると思いのほかに兵力を必要とするということです。「暴力行使の無限界性」というのはクラウゼビッツが主張したことですが、戦争の本質の一つに基づくものでしょう。

▼北支那の動員

 1937(昭和12)年7月7日、支那駐屯歩兵第1聯隊の1個中隊が夜間演習中に射撃を受けた。
中隊長はただちに全員の集合と人員把握を命じた。
すると確かに1名の初年兵が足りなかった。これはのちに用便のために部隊から離れたことが判明した。
しかし、「正体不明の相手から実弾の射撃を受けた」
「兵が1名行方不明になった」というのは中隊長が自衛戦闘を決心するには十分な理由になった。

 これが盧溝橋事件の発端である。
当時の支駐歩1聯隊長は牟田口歩兵大佐、大隊長は一木歩兵少佐。
牟田口はのちに軍司令官となってインパール作戦を指揮する。
一木はのちに歩兵第28聯隊長となり、ガダルカナル戦に投入され米海兵隊と激突、支隊は全滅した。
この時、どうすればいいかと指示をあおいだ一木少佐に電話で「敵に撃たれてどうすればいいかなどと聞く軍人がいるか。断固攻撃せよ」と答えたのが牟田口大佐だった。
有名な逸話である。

 すでに前年4月には支那駐屯軍は兵力を増強して、以下のような新編制になっていた。
 支那駐屯軍司令部の隷下には支那駐屯歩兵旅団司令部(旅団長はインパール作戦時のビルマ方面軍司令官、当時は少将河辺正三)、2個歩兵聯隊、支那駐屯戦車隊、(以下すべて冠称に支那駐屯をつける)騎兵隊、砲兵聯隊、工兵隊、通信隊、憲兵隊、軍病院、軍倉庫、総兵力5774名である。

 日本政府はただちに「事件の不拡大」と「現地解決」の方針を決定した。ところが現地はそうできるはずもなかった。
北平(北京)周辺、天津には日本人居留民も多くいたし、支那軍もぞくぞくと兵力を送ってきた。射撃事件の4日後、11日には関東軍、朝鮮軍から一部の兵力を派遣し、支那駐屯軍を増強した。現地の交渉はなかなかまとまらず、その間に事件が続出、ついに参謀本部は内地の3個師団を動員することを決めた(27日)。

 広島の第5師団、熊本の第6師団は「応急動員」である。
この応急動員とは戦列部隊だけを戦時編制にすることをいう。
所要時間は3日間とされた。最前線の槍先である歩兵・騎兵・砲兵・工兵部隊は戦時定員通りに充足し、後方支援部隊は平時編制でとにかく後から追いかけるという形式である。
また、さらに速いのは警急編成といわれ8時間以内で戦列隊が出動できることをいう。

 召集令状はすでに毎年4月1日には各情況の事態に応じて聯隊区司令部で作られている。
本動員なら第○動員の甲、応急動員なら第△動員の乙などと区分(これが「動員区分」)されて人員が用意されていた。
これを動員符号という。応急動員で集められる人馬は戦時編制の定数のおよそ8割といわれた。
現役兵と召集兵の割合はほほ同数である。

 これに対して姫路の第10師団だけは本動員だった。
平時1万2000名、馬1600頭が人員2万5000、馬8000頭になった。また、朝鮮龍山の第20師団は「充足人馬動員」だった。これは平時編制の定員を充足させることになる。もともと独自の師管区をもたない朝鮮駐屯の2個師団は平時編制すら満たしていなかったことがわかる。
この平時定員を満たした師団の戦闘力はふつうの師団の戦時編制の戦力の5割と見積もられていた。

 目覚ましいのはこの戦時編制に移行する、つまり動員完了までの時間である。わずか2週間から3週間といわれた。平時編制というのは歩兵聯隊では3個大隊9個中隊と1個機関銃中隊でしかなく、大隊長の秘書である副官(大尉)は臨時勤務かあるいは陸軍大学校などに入校中であり、中隊長の半分は不在というのがふつうだった。それを戦時編制の定員通りに最短2週間で集めてくるのである。
わずか14日で動員が完結するというのは国内に鉄道網が整備され、動員システムがよく機能していたということだ。

▼動員が下令されたら

 盧溝橋事件の後に最初に下された動員令は1937(昭和12)年7月15日の「動第1号」である。
年度動員計画令にもとづいた「動員区分」があり、それぞれを「動員符号」で分類したことはすでに説明した。
次は具体的な部隊側の動きを書いてみる。

 歩兵聯隊の場合を例にとろう。まず、聯隊本部内に「動員室」がつくられる。動員主座といわれる責任者は少佐クラス、動員主任は中尉がついて兵器委員や経理委員などの将校たちが補佐した。『一兵一馬、一日一時間の誤差もないように各業務の流れが巧く組み合わせるように計画が立ててある』というようなものだった。

 戦時体制が当たり前になり、予備将校が大量に入隊した北支那事変、大東亜戦争などの経験者の手記などには出てこない話である。聯隊の全将校は毎年「動員教育」を受けていた。戦時命課(補職)の確認、下令されたら誰はいつ何をすればいいかを徹底した。演習もする。
いったん動員の事態になったら質問は一切許されないことになるからみんな真剣だった。新年度までにはそれらが全部終わって、動員計画書は1年間保管される。

 検閲するのは参謀本部第3課の動員班長である。経験者の話から。
『一兵一馬の毎日毎時間の行動を書き込んだ日課予定表があるでしょう。日課予定表さえ見ていれば動員間、迷うことはない、というぐらいきちんとしたものなんですよ。
それを点検するんだが、まあ必ず間違いがあるものなんだ。
馬は来たけど蹄鉄工手はまだいないとか、人は集まったけど、汽車がないとか、あるいは到着日時とか。
各人ごとに本人の家から指定された部隊まで行くのに何日かかるか計算したものがあるんですが、何日に入隊せよとなっている人が入隊できないじゃないか、というようなことが到着日時表を見ればわかるんです』

 毎年くり返させられた動員計画の作成、検閲、修正をくり返してきた蓄積が、いざ本番に実力を発揮させた。
人を集めるだけならけっこう簡単である。
問題は動員というものは、集めた人員と装備で役に立つように団結と訓練のできた部隊を次々と造っていくことである。

 次回は聯隊区司令部の動きについて、召集令状の届けられ方を実際の史料にそって説明したい。


(以下次号)


(あらき・はじめ)



著者の最新刊

あなたの習った歴史はもう古い
http://okigunnji.com/url/zu33cgsm/



いただく声が、次回の連載を書くエネルギーになっています。
あなたのご意見・ご感想を、ぜひ聞きたいです。
このURLからお届けください。



http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html




●著者略歴

荒木肇(あらき・はじめ)

1951年、東京生まれ。横…

[続きはコチラから]
https://mypage.mobile.mag2.com/WebLeading.do?id=xc3UVQeX7R&position=4500#position
◎軍事情報 のバックナンバー・配信停止はこちら
⇒ http://bn.mobile.mag2.com/bodyView.do?magId=0000049253