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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成27年(2015)8月10日(月曜日)
通算第4620号
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(本号はニュース解説がありません)
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■編集前記
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(編集前記)というわけで、今度は旧ユーゴスラビア七ヶ国のうち、スロベニアを除く六カ国(セルビア、モンテネグロ、マケドニア、クロアチア、ボスニア&ヘルツェゴビナ、コソボ)とアルバニアの合計七ヶ国を超特急で回り昨晩帰国しました。
いずれの独立戦争、内乱、内戦を経て、依然として仲の悪い隣国関係を展開しているとはいえ町の復興はみごとなもので、空爆のあとは殆ど残っていません。近代的なビルが建ち並び、消費も旺盛でした。
小生の関心はいずれ中華帝国が崩壊し、分裂していくと仮定されるプロセスで、たとえば独立志向の強いチベット、ウィグルなどはバルト三国のように直ちに独立するでしょうが、民族が入り乱れるカフカスのような国々の独立はモスクワの顔色を見ていたように、中国東北地方は、そのパターンでしょう。
であるとすれば、あくまで仮定の話ですが、旧ユーロスラビアの七分裂は、中国の場合、どこの地域がどのように当てはめるべきか、比較したいというのが、これらの国々をまわった動機でした。詳しくはいずれ稿を改めます。
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
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77年ぶりに蘇った大ベストセラー
GHQの禁書処分で長らく忘れられていた名著の復刻
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長輿善郎『少年満洲読本』(徳間書店)
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昭和13年のベストセラーが77年ぶりに復刻された。長輿善郎といえば、当時「白樺派」の作家として武者小路、有島らに並んだ流行作家だった。
長輿は満州のあちらこちらをこまめに観察して歩いた。興安嶺奥地やツンドラ未開地にまで足を延ばし、見てきたこと、体験したことを父親がかみ砕いてやさしく子供に聴かせるような物語りとして、分かりやすく書いた。
近年、このスタイルを真似た「満鉄旅行記」なる本も随分と人口に膾炙されたが、政治的な主張を横に置いて、ともかく満州とはどんなところだったのか、人々の暮らし、済んでいる人の性格、気象件や特産品や、地形などを活写している。
「もうこんな小さな島に閉じこもって、そこばかりを生きる天下と思っていたようなケチくさい島国根性を以て引っ込んでいてはならないのだ」という惹句は多くの日本人を大陸雄飛に旅出させた。
父親の質問に少年が答える。
「日本はイギリスの本国のように狭くて、その上に国が貧乏だったのです。それなのに人口ばかりどんどん増えて行ったから、外へハミ出さずには生きて行けなくなったのでしょう」
「しかし誰も他人の国がはみ出ることを喜ぶものはない。シナは日本がまだ小国だったのを馬鹿にして、自分の方から朝鮮にはみ出し、日本の独立までも脅かしてきた」
当時の歴史解釈の常識がこのあたりからぱんぱんと飛び出してくる。いまの日本で流布している自虐史観の信奉者が聴いたら真っ青になるが、これが真実だ。
満州国は満州族がシナを攻め取った天下のあと、日本が支援した王朝だった。
「満州国がシナから独立し」というのが一つの解釈でもあるが、
「シナが満州を放したというより、満州の方でシナをシナに還しただけのことだ」。
さて満州鉄道は日本が開拓し、付属地として多くの都市を造った。日本の開発した都市はいずれも素晴らしいものだったが、ロシアは侵略と搾取しか頭になく、大連と旅順に軍港を建設すること以外、じつに方々に殺風景な風景をこしらえていった。日本が丹誠込めて建設した新京(いまの長春)は、曠野にとつじょ拓けた大都会だった。
こうして少年等をはこぶ満鉄の旅は大連からハルビンへ到り、チチハルから黒河へと。その旅の途中で歴史的な背景が簡潔にして明瞭に、しかし雄渾に語られて行くのである。
あの時代の日本の浪漫、日本人の若者が何を夢見て大陸へ渡ったのか、そしてGHQによって、こうした正しい歴史は封印され、本書は戦後七十年も封印されていた。
ところで、この復刻文庫本の欠点がひとつある。解説を満州建国が日本の侵略だとする戦後史観に洗脳されたヒョウロンカが書いていることである。
読者はこの解説部分をとばして読まれるほうが良いかも知れない。
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
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白人が文明先進国だという錯誤イメージによって
アジアの歴史は「白人優越意識」にまだ汚染されている残酷な現実
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山口洋一『植民地残酷物語』(カナリア・コミュニケーションズ)
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副題は「白人優越意識を解き明かす」となっている。
本書はかなり厚い。内容がぎっしり詰まっていて一行もおろそかに出来ない。ならば難しい本かと言えば、逆である。
また文体に勢いがあるのでついつい読みふけってしまう。というわけで、早朝五時に読み出し、十時半に読み終わる。五時間半、文字通り寝食を忘れ(?)、しっかりと朝食をとったあとも、他の仕事は後回しにして、ともかく読み終えようと思ったのだ。つまり、読み物としても、それほど面白いのだ。
英国の植民地支配がいかに暴力的で白人以外の人間を家畜、禽獣と同様にあつかい、また植民地では少数民族間の対立を巧みに利用して植民地政策を円滑化させ、分割統治という悪智恵もちいて、インドでパキスタンでミャンマーで、どれほど悪辣なことをやったか、引き替えて同じ帝国でもローマ、トルコ帝国は相手国民をおもいやり、同化する政策をとったことと対比させている。
ローマの敗物同化策は、国の危機に際してローマの属領すらハンニバルの猛攻をまえに裏切ることがなかった。像部隊でアルプス越えをやってローマを奉仕した名将ハンニバルは十六年に亘る包囲を続けたが、結局ローマに進撃することが出来なかった。もし、ローマが従えて国々の民を奴隷としてこき使っていたなら、日頃の恨みがつのってカルタゴの側についたかもしれなかった。
第三次にわたるポエニ戦役は、やがてカルタゴが殲滅されて終わった。
山口氏はトルコ、ミャンマー大使を歴任されておられるため、現地の事情に立脚して論をすすめる強みがある。
そして白人の優位意識という鼻持ちならない特権意識が、日本という新種の登場によってアジアの植民地が戦後軒並み独立を果たしていく過程で、かっての大英帝国は見るも無惨に潰え、ついで米国が落日を迎える。
ここで山口氏は秀吉の朝鮮征伐にまだ遡り、スペインが明を植民地化して、連合して日本に攻め込むという情報をえて、迅速に切支丹追放などの措置を講じ、ついで予防戦争のためまず朝鮮に向かったという歴史を演繹される。
戦後、この真実はかき消され、秀吉の暇つぶし、とか戦国武将に恩賞が少ないので、別の戦争が必要だったとか、無茶苦茶な自虐史観がまかり通り、秀吉は侵略者の烙印を押されるに到った。あの二度にわたった朝鮮への渡海は徹頭徹尾自衛の戦争、小国を挙げてのコンセンサスがあったのだ。
そして現代世界では露骨な「アジア覇権」をとなえはじめた中国が、かつての英国の植民地政策のパターンを踏襲している危険性を鋭く指摘されている。
蛇足だが、文中で一ケ所、気になったのは張作霖爆殺事件の犯人を河本大作としていることで、いまでは慰撫順刑務所で洗脳された河本の記憶は矛盾が多く、しかも高原に文春に掲載された手記はすこぶる信憑性が乏しいこと。そして加藤康男氏らの研究と新発見により、ロシア諜報機関の謀略であったという説が有力になっているからである。
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1275回】
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛――」(岡16)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
清仏戦争の帰趨を待って北京を訪れる予定で、岡は上海で待機した。8月21日からの1ヶ月ほどである。時に中国や日本の友人たちと「會飲し、醉えば則ち歐米軍艦の峩然(あおぐ)こと城の如き者を睨(にら)み五洲(せかい)の大勢を議論し、劍を抜き起ちて舞い、自ら狂と爲るを忘れる」と綴る。鯨飲乱舞・放歌高吟・談論風発・臨機応変・甲論乙駁・自説貫徹・・・豪気なものだ。
さて、その8月21日のこと。友人の張経甫を訪ねると、庭には武器が置かれていた。「法虜(ふらんすやろう)は何をしでかすか判ったものではない。国家危急の秋であり、一日たりとも防衛態勢を怠ってはならない。だから同志諸君と共に部隊を編成し、軍規を定め、市街を巡邏し、匪類(ふていなやから)が混乱に乗じて悪事を働くことを防ぐためだ」と、友人から説明を受けた。すると、別の友人たちも合流し、忽ち悲憤慷慨口調でフランスについて論ずることとなる。岡が「勝算、在る所を問う」。
すぐさま張経甫が、「およそ兵というものは、百戦して初めて錬成されるものだ。いま、朝議は断固として主戦に転じた。フランスが台湾を攻撃するも、両国は互いに相手を降すことは出来ていない。かくて義憤は鬱積するばかりだ。劉永福のような戦上手が陸続として立ち上がり、全土の18省を挙って『必死の地』となして後日の勝利を期すなら、必ずや道は開けるはずだ」と応じた。岡が「余、其の論に?柄(こんきょ)の有るを嘉(よみ)す」と返すや、彼らは「大いに悦んだ」。やがて酒となる。その席で、張経甫が姚子梁の著した琉球志』を手にして、日本の琉球領有には「名(どうり)」がないと痛罵した。
酒の席とはいえ売られた喧嘩は買わねばならない。相手が嫌がることをいわないなどと下手に出て相手に迎合するような愚に甘んじているわけはない。言うべき道理は堂々と口にすべきだ。そこで岡は自らの考えを諄々と説いた。些か長文だが、日中関係(正確には日清 関係というべきか)に対する当時の日本人の考えを知る上でも参考になると思うので、煩を厭わずに紹介しておきたい。
――往時、英仏両国は海峡を挟んで戦争を繰り返し、雌雄を決しようとした。百年に亘った戦争だったことから、これを百年戦争と名づける。両国がヨーロッパに覇を唱えているのは、この戦争がキッカケなのだ。我が東洋の各国は鎖国し海を隔てながら隣国と戦火を交えたものの、「蒙古、我が邦を寇(おか)し、我が邦、朝鮮の伐つの二役のみ」である。//

