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◆梯久美子『散るぞ悲しき:硫黄島総指揮官・栗林忠道』を読み解く


※要旨


・訣別電報の最後には、栗林忠道の辞世が添えられている。

「国の為重きつとめを果し得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき」



・その電報のことに話が及ぶと、それまで饒舌だった彼がしばし沈黙した。
そして、つと姿勢を正し目を閉じて、85歳とは思えぬ張りのある声で誦したのである。


「戦局、最後の関頭に直面せり
敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり・・・・」


・「この電文は私にとって、お経のようなものなんです。
うちの閣下が、最後に遺した言葉です。
今もこうして、口をついて出てきます。
一言一句、忘れることができんのです」


彼、貞岡信喜が「うちの閣下」と呼ぶのは、太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官として2万余の兵を率い、かつてない出血持久戦を展開した陸軍中将(のち大将)、栗林忠道である。


・周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「5日で落ちる」と言われた硫黄島を、36日間にわたって持ちこたえた。
貞岡が誦したのは、その栗林中将が玉砕を目前にした昭和20年3月16日、大本営に宛てて発した訣別電報の冒頭である。


・米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして、
「史上最悪の戦闘」「地獄の中の地獄」
と震え上がらせた凄惨な戦場。
東京から南へ1250キロ、故郷から遠く離れた絶海の孤島で死んでいった男たちの戦いぶりを伝えんと、みずからも死を目前とした指揮官は、生涯最後の言葉を連ねたのだった。


・硫黄島は、はじめから絶望的な戦場であった。
陸上戦力においても、日本軍約2万に対し、上陸してきた米軍は約6万。しかも後方には10万ともいわれる支援部隊がいた。
日本軍の玉砕は自明のことであり、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、たったひとつの使命だった。


・階級社会の最たるものである軍隊にあって、目下の者に気さくに接する栗林は異色の将官だった。
南支那派遣軍時代、入院した兵がいれば、自ら車を運転し、果物などをもって軍病院に見舞った。
マラリアにかかった兵には氷を届けた。


・硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。
最終的には敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた。


・米軍側の死傷者数は2万8686名に対して、日本軍側は2万1152名。
戦死者だけを見れば、米軍6821名、日本軍2万129名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである。


・日本軍が各地で敗退を続ける中、乏しい装備と寄せ集めともいえる兵隊たちを率い、これだけの戦いができたのは、栗林の断固たる統率があったからである。


・敵将からの評価も高く、硫黄島上陸作戦を指揮した米軍海兵隊の指揮官ホーランド・M・スミス中将は、その著書の中で次のように述べている。

「栗林の地上配置は著者が第一次世界大戦中にフランスで見たいずれの配備よりも遥かに優れていた。
また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ軍の配備を凌いでいた」


・硫黄島というちっぽけな島に飛行場が3つあった。
つまりここは、洋上に浮かぶ不沈空母たりえる島だったのである。
航空戦が勝敗を決する太平洋の戦いにあって、それは日米双方にとってももっとも必要なものだった。


・栗林の師団司令部は、補給にすぐれた父島に置く案もあった。
しかし栗林は、敵はかならず飛行場のある硫黄島を奪りにくると確信していた。
そして「指揮官はつねに最前線に立つべし」という信念に基づき、断固として司令部を硫黄島に置いたのである。
そして着任から玉砕まで9ヶ月を兵士たちとともに過ごし、一歩も島を出ることはなかった。


・着任後の栗林がまず行ったのは、島の隅々まで見て周り、地形と自然条件を頭に叩き込むことだった。
どこにどんな陣地を作り、どう米軍に立ち向かうか。
それを決めるには、島を知り尽くさなければならない。
副官の藤田中尉とともに、栗林はとにかく歩いた。


・栗林が硫黄島に着任してちょうど1ヵ月後、昭和19年7月7日にサイパンが陥落した。
この日は栗林の53歳の誕生日だった。
このころ彼はすでに、米軍の来攻にどう備え、いざ上陸してきたときにどう戦うかについて考えを固めていた。


・熟慮の末に採用したのは、日本陸軍の伝統にまったく反する方法であった。
当初は誰もが無謀だと謗り非常識だと反発した栗林の決断によって、硫黄島はその名を日米の歴史に深く刻み込むことになったのである。


・彼は、硫黄島が「勇敢に戦って潔く散る」などという贅沢の許されない戦場だということを肝に銘じていた。
「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。
なるべく長い間「負けないこと」。
そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。
それが硫黄島の戦いのすべてだった。


・1日でも長く島を維持するために栗林が立案した作戦の内容は、以下の2点に集約される。

1.水際作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に下げたこと。

2.その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせたこと。


→しかしこれは、日本軍の伝統的な作戦を否定するものだった。
そのため、実行するには断固たる決意と実行力を必要とした。


・米軍側の資料に、捕虜となった日本兵の多くが、栗林の顔を直接見たことがあると主張したことに驚いたという記述がある。
2万を超える兵士のほとんどが最高指揮官に会ったことのある戦場など考えられないというのだ。


・硫黄島のような生活条件が劣悪な地では特に、上官との接触が少ないと兵士の士気は衰える。
たとえ直接顔を見ることはなくても、雲の上の存在である最高指揮官が毎日陣地を見回っているという話は、すぐに伝わり、兵士たちを元気づけたに違いない。


・ジェイムズ・ブラッドリーは、
「酒も娯楽もなく一人の女性もいない島で、兵士たちが8ヶ月もストレスに耐え得たのは奇跡である」
と語った。


・硫黄島上陸作戦の指揮官であるアメリカ海兵隊のホーランド・M・スミス中将は、栗林が作り上げた硫黄島の陣地を「ウジ虫」に例えた。
それは、40年間ひたすら第一線の戦場に立ち続けてきた闘将が、人生の中で口にしたうちでも最大級の褒め言葉であった。


・62歳という高齢で叩き上げの軍人であり、口の悪さで知られ、回想録の中でミニッツ大将を「日和見主義者」と呼んでいるスミス中将だか、栗林については賞賛を惜しんでいない。

「太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。島嶼の指導者の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もあった。栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた」


・将軍に対する評価は、敵将によるものがもっとも信用がおける。
顔を合わせることはなくとも、極限の戦場において相手がどう戦うかを見れば、その力量だけでなく、性格や人間性までが知れるのである。
スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。
それは名誉に逃げず、美学に生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって、戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。


・地下陣地は、戦闘が始まる前からその価値を大いに発揮した。
上陸の前哨戦として島に加えられた圧倒的な砲爆撃から将兵たちを守ったのである。


・擂鉢山の頂上に最初の星条旗が立てられた直後、数人の男たちがモーターボートで硫黄島に上陸した。
グレーのセーターをはおった男が、横に立つ男にこう話しかけた。

「ホーランド、これで海兵隊は今後500年間安泰だな」

ホーランドとは、スミス海兵隊中将のファースト・ネームである。
これが最後の戦闘指揮となる老いた将軍は、「マイ・マリーンズ」が成し遂げた快挙と、そこに至るまでの犠牲を思って目を潤ませた。
セーター姿の男はジェームズ・V・フォレスタル。
米国海軍長官である。
彼は海兵隊の硫黄島上陸作戦を自分の目で見ようと、はるばる太平洋までやってきていた。


・フォレスタル長官がスミス中将に、「これで500年間安泰」と言ったのには理由がある。
海兵隊は海軍の付け足しのように扱われ、創設以来、不要論が持ち上がることもしばしばだったのである。


・フォレスタル長官も、星条旗掲揚の写真に熱狂したアメリカ国民も知る由もなかったが、硫黄島を完全に占領するまでに、海兵隊はさらに30日を要することになる。
それはまさに血みどろの30日間となった。


・栗林は全将兵に対して、死を急ぐことを許さなかった。
潔い死を死ぬのではなく、もっとも苦しい生を生きよ。
そう兵士たちに命じることが、極限の戦場の総指揮官たる栗林の役割であった。


・平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇陛下はこう詠われた。

「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」



・見捨てられた島で、それでも何とかして任務を全うしようと、懸命に戦った栗林以下2万余の将兵たち。
彼らは、その一人一人がまさに「精根を込め戦ひし人」であった。
この御製は、訣別電報に添えられた栗林の辞世と同じ「悲しき」という語で結ばれている。


※コメント
壮絶だった硫黄島。
それを指揮した栗林大将の人間性を描いた筆致に引き込まれる。
歴史というものは、書く人によって本当に違いが出る。
そのことを改めて実感した。


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