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 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成27年(2015)4月17日(金曜日) 
          通巻第877号  
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大東亜戦争で使い分けたタイ王国の「親日」と「反日」
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                      山本徳造(ジャーナリスト)
 
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 日清戦争が日本の勝利に終わって下関条約が終結されたのは、一二〇年前の一八九五年のことである。この条約で台湾が清国から日本に割譲された。日本統治下で台湾はめざましい発展を遂げる。
割譲から四〇年後の一九三五年十月十日から翌月二十八日にかけて、台北で 「始政四十周年紀年台湾博覧会」が盛大に開催された。

 この博覧会には、「満州館」も出展しており、満洲国皇帝溥儀の名代として、新竹出身の台湾人、謝介石が博覧会に駆けつけている。
その三年前に満洲国が建国されたとき、謝は初代の外交部総長(外務大臣)に就任したが、日本に満州国大使館ができたのを機に初代駐日大使として東京に赴任していた。謝にしてみれば、まさに「故郷に錦を飾る」という思いだったことだろう。

 ▼タイをぬきに満州は語れない

 そうそう、満洲といえば、東南アジアのタイを抜きにしては語れない。一九三三年二月に行われた国際連盟総会で、満洲事変に関するリットン調査団の報告書を承認するかどうかの決議が四二対一の圧倒的多数で承認された。

もちろん、「反対」した一国とは日本だが、唯一棄権票を投じたのがタイである。ちなみに、当時、アジアで国際連盟に加盟していた独立国はというと、日本、中国、タイのたった三カ国だった。

 日本にとって、タイは無視できない国となっていたのである。
「始政四十周年紀年台湾博覧会」が開催された年、タイで新しい国王が即位した。若干十歳のアーナンタマヒドンこと、ラーマ八世である。ドイツのハイデルベルグで生まれたアーナンタマヒドンは当時、スイスのローザンヌで修学しており、即位式の後もスイスに戻って学業を続けた。そして第二次大戦の終結でタイに戻る。

 ところが、翌一九四六年六月九日、誰もが予期しなかった出来事が……。ラーマ八世がボーロマピマーン宮殿の寝室で死体となって発見されたのである。
額から後頭部にかけて銃弾が貫通していた。即死だった。傍らには自動拳銃が落ちていた。
当初、銃の暴発と思われたが、ときのプリーディー・パノムヨン内閣が設置した「ラーマ八世崩御事件調査委員会」は他殺と断定、プリーディー内閣は責任を取って総辞職した。

 ▼殺人事件の謎は深まった

 警察は翌年、第一発見者のチット侍従ら当時宮殿内にいた三人の侍従を含む五人を殺人容疑で逮捕するが、のちに侍従以外の二人は釈放される。そして、一九五四年十月、最高裁で三人の死刑が確定、四カ月後に刑が執行された。三人は容疑を否認したまま刑場の露と消えたのである。

 この謎に満ちた事件の顛末を三島由紀夫と親交のあった毎日新聞のバンコク特派員だった徳岡孝夫が『タイ国王暗殺事件』という本にまとめている。
事件当時の首相だったプリーディー・パノムヨンも事件への関与が疑われたが、事件の翌年に発生したクーデターで亡命した。このプリーディーこそ、大東亜戦争中、日本軍の障害となった人物である。
 
ラーマ八世の死から四九年後の一九九五年十一月十二日、バンコクに来た観光客なら必ず訪れるというワット・ベンチャマボピット(大理石寺院)で、ある大物の通夜がおごそかに行われた。
なぜか、私もその通夜に参列した。その大物とは、タイの十三代首相、ククリット・プラモートである。
 
ククリットが亡くなってから、すでに一カ月は経っていた。タイの葬式は自宅で行うのが普通だが、大物の場合、参列者が多いので、有名寺院で行ことが少なくない。面白いことに、大物だと、葬式が一回で終わらない。親しかった人が、われもわれもと葬儀の主催者に名乗りを上げるのだ。そんなわけで、何人もが持ち回りで葬儀を行うことになる。亡くなってから二カ月も経って葬儀を行ったのは、そういう理由だからだ。

 では、なぜ私が元首相の通夜に参列したのか。
この日、通夜を取り仕切ったのは、二人の人物である。チャチャイ元首相と、バンコク市内を中心にコンドミアムやアパートをなどを幅広く経営するC氏だ。彼は、私の長年の友人P女史の知人だった。たまたま取材でバンコクを訪れていた私を、P女史が、
「ねえ、せっかくだから一緒に参列しない?」
 と誘ったというわけである。
 
そういえば、バンコクに半年ばかり暮らしていた頃、テレビの取材でククリット邸を訪れたことがあった。ククリット本人は不在だったが、チーク材をふんだんに用いたアユタヤ様式の伝統的家屋と庭に無造作に置かれたいくつもの水瓶が印象に残っている。

 夕闇の中で行われた通夜には、政財界はもとより、ククリットが主宰していた『サヤーム・ラット』紙の編集長、高価なスーツを着こなしてツンとすました主要銀行の頭取たちも詰めかけた。
当然、ひそひそ話があちこちで行われる。有力者たちの情報交換と言えば聞こえがいいが、なにせ一筋縄ではいかないタイのエリートたちだ。通夜というより、おそらく大小様々な陰謀を企む場と化していたにちがいない。

 ▼ククリット・プラモートという人物

 さて、ククリット・プラモートその人について語ろう。
 プラモート家といえば、ラマ五世の血筋を引く名門である。その第六子として、ククリットは一九一一年に生まれた。頭脳明晰だったのだろう、イギリスのオックスフォード大学に留学し、経済を学ぶ。タイに帰国して就職したのは、大蔵省だった。
何となく、三島由紀夫を彷彿させるではないか。その数年後、大蔵省を退官し、商業銀行の副頭取に就任する。が、一九四一年にタイ国立銀行が設立されると、総裁秘書室長に就任した。

 第二次大戦後の一九四五年にククリットは進歩党を結成し、政界に足を踏み入れる。二年後、今度は社会行動党を結成して党首となった。政界入りして三年後には、ピブン・ソンクラーム率いる内閣で商務副大臣を務める。何という出世の早さだろうか。
しかし、驚くのはまだ早い。

 政治家以外でも、ククリットは非凡さを発揮する。
一九五〇年、タイ語の日刊紙『サヤーム・ラット』を創刊し、ジャーナリズムの世界にも足を踏み入れたのだ。

優秀な経営者であり、機知に富む編集者でもあった。また論説主幹としても健筆を振るう。凡人なら、多忙で充実した毎日だろうが、それで満足するククリットではなかった。
『サヤーム・ラット』創刊の翌年、史実に基づいた歴史小説『王朝四代記(シー・ペンディン)』を著したのを手始めに、『多くの生涯(ラーイ・チーヴィット)』(一九五三年)、『赤い竹(パイ・デーン)』(一九五四年)と相次いで長編三部作を発表したのである。ことに『王朝四代記』はテレビドラマ化されるほどの人気を集めた。

 日本の敗戦から一〇年後の一九五五年(昭和三十)六月、一人の日本人がバンコクのドンムアン空港に降り立つ。
大東亜戦争中、駐タイ日本軍司令官だった中村明人元陸軍中将である。招いたのは、タイの警視総監ら政府要人たちだ。至れり尽くせりの「国賓」待遇だった。それも当然かもしれない。中村ほどタイ人に感銘を与えた帝国軍人はいなかったからである。一体どんな人物だったのか。その経歴をざっと振り返ってみたい。

 明治四十三年(一九一〇)に陸軍士官学校を卒業(二十二期)した中村は、歩兵第六連隊付となり、大正十一(一九二二)年に陸軍大学校を卒業(三十四期)する。歩兵第六連隊長から、ドイツ駐在武官(三年間)、教育総監部、第三軍参謀長、軍務局長、兵務局長などを歴任し、昭和十二年(一九三七)に南支那方面軍第五師団長となるが、北部仏印進駐に際して越境問題を起こす。

 開戦直前の昭和十六年(一九四一)七月、憲兵司令官となり、二年後の昭和十八年(一九四三)一月にタイ国駐屯軍司令官としてバンコクに赴任した。司令部は、チャオピア川の畔に立つオリエンタル・ホテルに置かれていた。そう、サマセット・モームが好んで滞在したことでも有名な老舗である。

 当時のタイ首相は、一九三七年から政権を運営していたピブン・ソンクラームだった。ナショナリズムを鼓舞するため、ピブンは「ルーク・チン(華僑)」の経済活動を厳しく規制する。

その一方で、日本には好意的だった。ABCD包囲網であらゆる物資が極度に不足していた日本に、タイで生産される生ゴムと綿のすべてを供給したのである。

 一九四〇年から一九四一年にかけ、仏印の領土をめぐって、タイとフランスが揉めていた。両国の間に入ったのが日本である。日本の調停により、一九四一年五月にカンボジアとラオスの一部がタイに返還された。

 そして十二月八日の開戦時、マレイ・シンガポールを攻略するため、日本はタイ領の通過を求め、南タイのシンゴラ(現在にソンクラ)に上陸する。
三日後の十一日に「日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定」同月二十一には「日タイ攻守同盟条約」がそれぞれ締結された。タイが米英に正式な宣戦布告をしたのは、翌年一月二十五日のことである。
が、三人の摂政のうちの一人が布告文書に署名していなかった。その摂生とは、プリーディー・パノムヨンである。

 ▼タイの綱渡り外交

 さらにタイの駐米大使セーニー・プラーモートもアメリカへの宣戦布告伝達を拒否し、連合国支持の「セーリー・タイ(自由タイ)」を組織した。
この動きをピブン・ソンクラーム首相がは、あえて黙認したという説も有力だ。どちらが勝利しても、タイの不利益にならないように振る舞ったというわけである。

それを裏付けるかのように、日本の敗色が濃くなった一九四四年頃からピブンは、「自由タイ」のメンバーといわれた人物を外務大臣に任命している。

 案の定、戦争終結後、タイは敗戦国とはみなされなかった。
「摂生の一人であるプリーディーが宣戦布告に署名していなかったので、正式な宣戦布告ではない」「自由タイの連中が連合国に協力したではないか」と言い逃れをし、それが認められたというわけだ。その辺をみると、タイ人の外交の巧みさがわかるだろう。見事としか言いようがない。

 連合国側に立ったセーニー・プラモート駐米大使は大戦直後、タイの首相に就任した。ピブンは戦後、再び首相に返り咲いたものの、クーデターでアメリカに逃れてから、中村中将を頼って日本に亡命し、神奈川県相模原市で生涯を終えている。プリーディーはパリで客死した。

 話を中村中将に戻そう。
「仏(ほとけ)の中村」と言われた司令官は、部下はもとより、タイ人にも人望があった。ちなみに女流作家のトムヤンティは一九六〇年代に『クーカム』(日本では『メナムの残照』という題名で知られている)という小説を書いた。父親から聞かされた理想的な中村中将をイメージして、コボリという名のイケメン青年をタイ駐留の帝国海軍大尉として登場させたのである。

 第二次大戦前から物語は始まる。タイ政府高官の美しい娘アンスマーリンには婚約者がいたのだが、かねてから念願のイギリス留学に旅立つ。しばらくして戦争が勃発し、日本軍がタイに駐留する。

父親は日本軍と親密になりたいがために、帰国したアンスマーリンと婚約者の仲を裂き、コボリ大尉と無理やり結婚させる。最初はコボリを拒絶していたアンスマーリンだが、徐々に人間味溢れるコボリ大尉の魅力に惹かれていく。簡単に説明すれば、そんな筋書きである。//