■■ Japan On the Globe(878) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
Common Sense: 目隠しされた日本 ~ 戦前も戦後も情報無しの手探り状態
日本は情報無しの目隠し状態で、戦前はアメリカと戦い、戦後は中ソと対峙してきた。
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■1.ずっと自衛隊の写真を撮っていた中国の震災救援部隊
東日本大震災では中国軍が救援に来たが、その際に彼らは何をしたのか、こんな証言がある。
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(中国の救援部隊が)ずっと写真を撮っていたという話を聞きました。自衛隊の活動の写真を望遠レンズで撮っている。結局、これは日本人の行動様式と自衛隊の装備を撮っていたんでしょう。[1]
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被災地救援の名目でやってきて、実は自衛隊の装備などを調べる。お人好しの日本人から見れば「まさか」としか思えないが、「渡る世間は鬼ばかり」の国際社会では不思議ではない。ほかにも、こんな事実がある。
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(震災時には)中国のヘリコプターが南西方面で護衛艦に急接近したり、火事場泥棒のような出来事の連続でした。あのとき、自衛隊の戦力の40%が災害派遣に投入され、日本がいかなる防衛体制を敷いているのか調査しに来たのですが、挑発行為は凄まじいものがありました。[1]
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■2.尖閣諸島でどうでるかという戦略的判断に必要な諜報活動
中国が自衛隊の戦力を調べているのは訳がある。国内の経済的行き詰まりや党幹部の汚職、少数民族の反乱などで不満が溜まっている時に、尖閣諸島などをきっかけに対外戦闘を起こすのは、恰好のガス抜きになるからだ。
先の大戦で大敗を喫して、もう戦争はこりごりという日本人とは違って、中国の政府も人民も戦争にそれほどの拒否感はない。1950年にのべ500万人を投入して約90万人の死傷者を出した朝鮮戦争以降も、1962年のインドとの中印戦争、1969年にウスリー河の中州でソ連国境警備隊と衝突した珍宝島事件、1974年に南ベトナム軍を駆逐した西沙諸島占領作戦。
80年代にも南シナ海でベトナム海軍の輸送船を撃沈し、90年代にはフィリピンが支配していた南沙諸島を占領している。[a] 数十人、数百人の死傷者が出ようと、この程度の事件は中国にとっては戦争というより、局地的な小競り合いとでも言うべきもので、外交の延長でしかない。
尖閣諸島においても、小競り合い程度で奪えるなら、中国は容赦しないだろう。逆に自衛隊が強くて、中国軍の面目が潰れるようなことになったら、逆効果なので手出しは控える。そうした戦略的判断をするためにも、自衛隊がどの程度の戦力を持っているのか、について中国は諜報活動をしている訳である。
■3.三百万の英霊たちの叫び声
こうした中国の動きに対して、いまだに「平和憲法さえ守っていれば平和は守れる」という声があるのは驚くべきことだ。この態度からは、中国軍の戦力、意図などに関して、諜報活動をしようなどという発想が出てくるはずがない。
諜報活動に関する日本人の鈍感さが敗戦の一大要因だったと、米軍は指摘している。昭和21(1946)年4月、米軍がまとめた『日本陸海軍の情報部について』という調査書には、次の一節がある。
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日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し表明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備を蔑(ないがし)ろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。[2,p328]
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この一文を次のように変えてみたら、現代日本も同様であることが分かるだろう。
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護憲平和主義が情報活動を阻害する作用をした。護憲論者たちは、いずれも神がかり的な「平和憲法さえ守っていればどこの国も攻めてこない」という護憲平和論を繰り返し表明し、防衛を効果的に行うために最も必要な諸準備を蔑(ないがし)ろにして、ただ護憲あるのみを過大に強調した。その結果彼らは中国軍に関する情報に盲目になってしまった。
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大東亜戦争中に大本営の情報参謀として従事した堀栄三氏は、戦争中に我が国が諜報活動を軽視したために、いかに困難な戦いを余儀なくされたか、を著書『大本営参謀の情報戦記』に描いている。そのあとがきにはこうある。
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また本書に掲げた多数の戦場での教訓の数々は、ひたすら祖国のためにと思いながら歯をくいしばって、正確な情報に基づかない、誤れる戦略に殉じて散華していった三百万の英霊たちの叫び声に他ならない。[2,p342]
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12月8日の大東亜戦争開戦の日を機に、この英霊たちの叫び声に耳を傾けて見たい。同じ過ちを現代にも繰り返さないために。
■4.正確な地図もなく
日本陸軍は伝統的に対ソ連、中国を重視していて、情報収集や戦法研究などを対米重点に切り替えたのは、開戦後2年も経った昭和18(1943)年後半からだという。すでにガダルカナルの戦いで、米軍の本格的な反転攻勢が始まっていた時期である。
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それゆえに、ニューギニヤ、ソロモン諸島方面では、正確な地図がなくてガリ版刷りの素図をもとに戦争をしたといったら、読者はびっくりするであろう。そんな戦場へ赤紙一枚でやられたとあっては、収まるものも収まらないはずだ。[2,p90]
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ニューギニア島北岸は、東西1300キロにわたる長い海岸線と、2~3千メートルを越す脊梁山脈の間は、一面のジャングルに覆われた前人未踏の地である。米軍はここを統治するオーストラリアから地誌資料を得て、「これを支配するのは歩兵ではない。航空以外にない」と判断していた。
しかるに日本の大本営は、ニューギニアの地図から普通の陸地と誤認して、東部ニューギニアのブナにいた南東支隊に、脊梁山脈を越えて、南岸の都市ポートモレスビーの占領を命じた。
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この場合の南東支隊の敵は、米軍でもなければ濠洲(オーストラリア)軍でもなかった。道なきジャングルとスタンレー山脈と雨期で増水した名もわからない川の氾濫であった。そして、とうとう皆無の補給による饑餓と疲労と寒気と疫病のために、ぼろぼろになって後退を余儀なくさせられてしまった。(中略)
作戦が中止となり、十分の一の兵員となってやっとブナに帰りついた南東支隊に、米濠軍は海の方から廻って上陸し、攻撃を加えて、玉砕に追いやっている。[2,p114]
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弊誌795号[b]では、この戦いで生き残った西村幸吉氏が、戦後25年もかけて戦友たちの遺骨収集に従事した逸話を紹介したが、多くの英霊を生んだ陰には「正確な情報に基づかない、誤れる戦略」があったのである。
■5.米軍の用意周到ぶり
堀氏は、大正末期から昭和初期にかけて米国研究の第一人者・寺本熊市中将から、親しく教えられた内容を、次のように記述している。
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米国は大正10年以来日本との戦争を準備していた。われわれは米国研究時代、補佐官時代からすでにそのことを指摘していた。米国の考える戦場は、日本に対しては当然太平洋だ。(中略)
ここで勝つには制空権以外にない。彼らは日本の南洋委任統治領を研究していた。小さな島の群島だ。船以外に連絡の方法がない。船を制するにも制空だ。この間資源もない日本は、満洲の方を見つめて眠っていた。[1,p80]
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大正10(1921)年はワシントン軍縮会議が開かれ、日本の海軍戦力が、米国5に対して3と抑えられた年である。米国は日本の海軍力を軍縮条約で抑えつつ、同時に対日戦の研究を進めていたのである。
たとえば、大正10年頃は米軍はまだ馬を使っていたが、島への上陸作戦では馬を泳がせるのも一つの方法だが、その距離は5百メートルを越えてはならない、などと規定していた。
日本軍は正確な地図もないまま、2~3千メートルの脊梁山脈を越えての攻撃を命じたが、米軍はその20年以上も前に、上陸作戦で馬を泳がせても良い距離まで調べていたのである。
■6.堀氏の考案した対抗戦術
参謀本部で米軍に対する諜報活動の任についた堀氏は、サイパン島などの玉砕の状況を研究して、太平洋での島嶼防衛の戦術を立案した。
サイパン島では昭和19(1944)年6月12日、13日と、米軍機数百機が港湾や飛行場、陣地を空爆した。その間に戦艦8、巡洋艦2、駆逐艦22隻が島を完全に包囲して、艦砲射撃を3日続けた。陣地はほとんど叩きつぶされ、日本軍は15日、16日の水際での戦闘で、ほとんど壊滅的打撃を受けた。
玉砕の前日、日本軍の発した訣別の電報は堀氏にも廻ってきたが、涙なくしては読むことができなかったと言う。
堀氏は米軍が空爆と艦砲射撃で徹底的に日本軍陣地を叩いてから、上陸してくる作戦を分析し、それに対抗しうる防御戦術を考え出して、これから太平洋に転用される関東軍の精鋭部隊に説いた。
水際での早すぎる突撃は自滅する公算が多いので避けること。大砲や機関銃などは最低2メートル以上のコンクリートで覆って艦砲射撃から守ること、島内に2重、3重に地下陣地、洞窟陣地などを準備してゲリラ戦を挑むこと、等々。
ペリリュー島守備に向かう中川州男(くにを)大佐は、堀氏の説明を熱心にメモして、質問もしてきた。その後、ペリリュー島の守備隊は4ヶ月で米軍の艦砲射撃と爆撃に耐える強固な陣地を構築し、米軍の猛攻を73日間も持ちこたえ、逆に死傷者1万人を超える損害を与えた。
この戦法は硫黄島や沖縄でも活用され、米軍はその損害の大きさから、日本に対する無条件降伏の要求を取り下げて、終戦に至った事は876号[c]で述べた。
このような諜報活動と作戦研究がもっと以前から行われていたら、開戦当初は航空母艦数などでは太平洋に配備された米海軍を上回っていただけに、その抑止力をもってして、米国からの挑発をはねつけ、開戦に至らずに済んだ可能性すらあった。[…
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