image0007.jpg

--------
↓全文読めない等の場合はバックナンバーでご覧下さい↓
http://melma.com/backnumber_45206/
--------


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成26年(2014)12月2日(火曜日)
      通巻第4410号 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 軍高官8名の将軍らも失脚、取り調べ中にふたりが自殺
  徐才厚、郭伯雄の失脚に連座。軍高層部は習近平人脈で固める?
****************************************

 北京にある海軍総部副政治委員の馬発祥(中将)が同建物15階から飛び降り自殺したことが判明したのは11月13日だったらしい。
中央軍事委員会規律委員会から取り調べの通知を受けた直後だった。この中将は干永波の配下だった。

 干永波は89年天安門事件のとき、学生の弾圧を命じたトウ小平にしたがい、軍の采配をふるい、このため新主席となった江沢民の覚えめでたく、その後はトントン拍子に出世した。
この干永波と徐才厚が繋がるのはふたりとも遼寧省瓦房店出身であることだ。中国社会は血縁・地縁重視で成立しており、よそ者には猜疑心、同郷人には連帯感の絆で結ばれる。だから徐の失脚直後に中国語メディアは「これで瓦房店人脈は瓦解した」と伝えた。

 ほかにも軍高官の腐敗が目に余り、またポストを金で買う習慣があるため、やり玉に挙がったのは北京軍区戦文工作団長の劉武(少将)、総政治部保衛部長の干善軍(少将)らも取り調べを受けていると『看中国』(14年11月26日)が伝えた。
 また瀋陽軍区では吉林省軍区副政治委員の宋玉文(退役少将)が「自殺」していた。捜査されていた期間に縊死したと11月19日に「博訊網」がつたえた。

 現在、軍のなかで200名の高官軍人が取り調べを受けているとされるが、合計8名の将官クラスが含まれ、自殺者二名だ。
いずれも前軍事委員会副主任だった徐才厚と郭伯雄の配下になってから、その後ろ盾の江沢民のお眼鏡に叶い出世した軍人たちである。

 こうなると、習近平の究極的な狙いは軍内の不配分し一斉を表看板として、じつは江沢民派を根こそぎ軍高層部から追い出し、軍部内での自派を強固な基盤とするためだろうと推測されている。
          ◇□ ▽□
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1162回
  ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノ?・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉9)
名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

  △
 物見高いはなんとやらだが、それでなくても好奇心旺盛な「唐人」である。街を歩けば「吾輩形粧ノ異ナルヲ以テ」ジロジロ、ガヤガヤ。行く先々で好奇の目に囲まれ纏わりつかれ堪らない。

 「滬城(上海)ノ人吾輩ヲ見テ琉球人ト目スルモノ多シ」。それというのも、「琉球使臣支那ヘ来騁ノ時」や琉球の「商舶ノ上海へ来ル時」などに、「吾邦人モ竊ニ同行?此ニ至リ同シク琉球人ナリト偽」ていたからだろうと考えた。ということは、武士か商人かは判らないが、鎖国にもかかわらず、密かに上海を訪れた者がいたことになる。ならば上海以外の天津辺りに潜行した者がいたとしても強ち不思議ではないだろう。

 ところで日本からの武士集団の上海登場は余ほど奇異な目で見られていたらしく、「今般東洋人来リシハ吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」との噂が流れた。上海統治の責任者たる道台の呉氏が「長毛賊(太平天国軍)ヲ討伐ノ為メ」に依頼したというのだ。当然のように噂が噂を呼ぶ。かくて「日本ヨリ援兵ト?大軍海面ヲ掩テ来ル?不日ニアルベシ」となった次第。なかには「余レニ向テ援兵何レノ日ニカ来ルナド問フモノアリ」で、まさに「笑フベシ」と。

 程なく日本からの艨艟が洋上を覆い尽くす。数多の強兵が日本から救援に駆けつけてくれる。こんな「浮説」を耳にしたら、名倉でなくとも「笑フベシ」。だが、「吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」とは、さほどまでに清国朝野は太平天国軍に悩まされていた。だから「日本ヨリ援兵ト?大軍海面ヲ掩テ来ル?」を望むのも判らないわけではない。

 千歳丸は「日本ヨリ援兵」を乗せたわけではなく、江戸幕府が上海での貿易の可能性を探ろうと送ったもの。積み込んだ「本朝ノ物産中支那人之ヲ得テ喜」んだものは、「刀槍 陶器 人参 赤銅 紙類 カンテン 椎茸 葛粉 熊膽 晴雨傘 漆器 銭 鶏 雜薬」など。一方、「唐国物産中本邦へ齎シ来タルベキモノ」は、「薬種 唐紙 紫檀 陶器 書籍 筆墨 折糖」だった。

 最も喜ばれたのが「刀槍」であったのかどうかは判らないが、筆頭に挙げられているということは、それほどまでに喜ばれたということだろう。刀槍については、「唐人吾佩刀ヲ看ント要スルモノ甚タ多シ」とあるから、余ほど興味を持たれたわけだ。そこで名倉は自らの佩刀を2,3の友人にソッと見せた。キラリと怜悧に光る刀身。「吾佩フル處固ヨリ鈍中ノ極」だが、彼らは「嘆賞シテ不已」だった。そこで名倉は「支那ニ利刀ノ有?ナキ推テ知ヘシ」と。中国に利刀なんぞ有りはしない、と。

 「唐人ノ佩刀」については、長くても「二尺ニ過ズ皆片手?ノ物」で「刀身甚タ鈍シ」。だから彼らが「利刀」を称するものでも「本朝ノ鈍刀」をどこからか高値で買ったものである。「槍モ亦利カラス」で、「槍刃ノ鈍キハ固ヨリ支那ノ短ナル所ニ?余カ贅言ヲ待タザルナリ」という。武士の魂である佩刀の鈍さは、魂そのもの鈍さに通ずる。存外、こんなところから軽侮の心が芽生えたのかもしれない。「支那ニ利刀ノ有?ナキ推テ知ヘシ」の一節が、そのことを物語っているようだ。ナマクラな刀の持ち主は、どだいロクな者ではないわい。マトモな武人であろうはずもない、ではなかったか。

 書籍について、こんな記述が見える。知り合いから「君帰国ノ後願クハ貞観政要一部ヲ代弁?余ニ送レト云」われた。そこで名倉は『貞観政要』は唐代の書籍であり、「遠ク之レヲ東洋萬里外ニ求ル」こともなかろうと応えると、「此書吾国今在?ナク只書目ヲ知?ノミ」ということだった。名倉は上海で、「唐人ノ著ス所ニ?唐ニナク?和ニ伝ハルモノ少ナカラサル由ヲ」知るわけだが、おそらく日本こそが中国文化の精髄たる古典の宝庫であったと痛感したことだろう。ならば名倉が「本朝」に更に誇りを持ったとしても当然のこと。
《QED》
 


【知道中国 1163回】        
   ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノ?・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉10)
名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

   △
 刀も槍もナマクラばかり。これでは戦うに戦えない。加えて古典の散逸は甚だしく、まともな書籍は「唐国」になく海を渡った「本朝」に伝えられ残されている。先に立つ者としての振る舞いも民族の心柱である古典に対する心掛けも全くなってはいない。尊敬し憧憬して止まなかったはずの孔孟や王陽明の国の惨状に、名倉のみならず千歳丸の一行は激しいカルチャーショックを覚えたはずだ。憧れは一気に消し飛び、やがて知らず覚らずのうちに侮りの心が芽生えるようになった。こんなはずではなかった、と。

 侮蔑の心に火を注いだのが烟毒、つまりアヘン吸引という悪習だろう。

 「吾友王互甫ノ話ニ支那ニテハ近頃復タ鴉片烟ヲ吃スルモノ多クナリタリ」と。アヘン戦争は千歳丸航海の20年ほど昔だ。あれほどまでに国家財政を苦しめ、英仏両国を筆頭とする西欧諸国の蚕食を受けることになったアヘン。人々の財産を奪い、健康と精神を損ねること甚だしいアヘンの吸引が、なぜまた復活・流行しているのか。名倉ならずとも不思議に思うだろう。王が「此烟毒ヲ除クノ良藥有ヤト」問うてきた。そこで名倉は「余レ戯レテ曰ク此ノ烟毒ヲ除クノ良法アリ然レトモ今其藥ヲ求メントスルニ甚タ難シ其良藥名ヲ則除丸化成湯ト云ト答へシカバ互甫一?ヲ発セリ」と。

清朝皇帝から全権を授かって欽差大臣として広州に乗りこみ、アヘン取引撲滅に辣腕を揮った林則除の名前を持ち出し「則除丸」とは洒落た、いや悪ふざけが過ぎるが、「一?」というから、あるいは名倉の当意即妙な反応に「吾友王互甫」は返す言葉もなく呵呵大笑するしかなかったようだ。イヤー、参った、まいった、ということだ。

やはり「此烟毒ヲ除クノ良藥」はない。清国朝野の深刻な自覚しかないわけだが、その自覚が一向に見えてこない。国家・国民の存亡にかかわる大難題に直面しながら危機感を持たない。烟毒は国家の屋台骨を腐らせ、国民の心身を蝕んでいるにも関わらず、である。軽蔑が同情に勝ったとしても、なんら非難されるものではないだろう。眼前に逼りくる累卵の危機から国家・国民を救い出せるのは自助・奮闘の覚悟。押し寄せる欧米列強勢力を前にして尊皇か佐幕か。攘夷か開国か。名倉は、揺れ動く祖国に思いを馳せたはずだ。

名倉は「吾友王互甫」に「咸豊中天津役ノ轉末ヲ尋」ねた。

「咸豊中天津役」とは、咸豊九(1859)年に起こった戦争で、天津沖に北上した英仏軍を清朝軍が砲撃したことからはじまった。じつは英仏軍は咸豊六(1856)年に清国に対し戦争を仕掛けた。これを第2次アヘン戦争とも、アロー号事件とも、アロー戦争とも呼ぶが、咸豊中天津役とは、その一環で、天津から上陸した英仏軍は咸豊十(1860)年に北京を占領し、清朝皇帝が愛でた円明園などを焼き払い、ついに北京条約を結ぶことで戦争は終結する。清朝は莫大な賠償金を求められると同時に、英国に対し南京条約での香港島に続き、その対岸の九龍を割譲させられる羽目になったのである。

名倉が王から聞かされた戦争の顛末とは、英仏などの「諸虜」に対し自由な貿易を許さず、また北京での教会建設の要求を拒否したから戦争に発展し、結果として北京の一部が灰燼に帰してしまった。それはそれで判るのだが、これからの王の話が興味深い。じつは北京条約締結に際し、彼我双方に不正があったというのだ。王は「(アロー戦争の)和議ニ及ヒシハ彼我共々賄賂流入シテ事成リタル由ヲ語レリ」と。

国家存亡の瀬戸際に立っているにもかかわらず、「彼我共々賄賂流入」し、結果として賄賂が和議を成立させたとは、なんとも不可解で底なしの恥知らず。

鈍い刀槍、散逸に任せる古典、押し止めようなき烟毒、和議交渉の場で行き交う賄賂??これでもまだ尊敬すべきだなど、無理というものだろうに。
のう、ご同輩。
《QED》
        ◎◎◎◎◎
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~//