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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成26年(2014)9月24日(水曜日)
通巻第4346号
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F22ラプター、シリアのISIS拠点攻撃に初登場
シリア政府を攻撃してきた米国が、シリア政府に通告しつつ。
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シリア領内にあるISIL(イスラム国)の拠点に9月22日、米国主導の空爆が行われ、「テロリストの本部、軍事訓練場、武器庫、食糧倉庫、財務本部、宿舎などを空爆とミサイルで破壊した」(米中央軍発表)。
オバマ大統領の決断は9月10日だった。空爆の実現までに随分と時間が必要だったのは周辺国の同意、賛意、あるいはこの空爆への協力である。
米国の発表に従えば、空爆にはサウジアラビア、ヨルダン、カタール、バーレン、UAE(アラブ首長国連邦)が加わった(どのような形で加わったかは不明)。そしてシリアのアサド政権には事前に通告したと一部メディアがつたえた。
「中東の異端児」といわれるカタールが加わったのは意外だが、一方でイランからの敵対的な声明もなく、シリア政府は沈黙を続けたままである。カタールはアルジャジーラの拠点でもあり、産油国で唯一リベラルは政策を掲げるため周辺国と対立してきたのである。
トルコは首相が記者会見したものの、米国とアラブ諸国との協調にはノーコメント、まだトルコ政府そのものがいかなる態度かも言明しなかった。トルコは百万に及ぼうとするシリアからの難民と、国境にはイラクとの境界線も曖昧なゲリラ地区を抱えており、次の対策の方向性が見えていない。
ともかく空爆は「はじまり」でしかなく、これからISILとの戦闘は長期化する畏れがあり、地上部隊をいつ導入するかという議論になる可能性が高い。オバマは国連で支持を広げ、国際社会の理解を得たい姿勢だが、ロシアも中国も現在沈黙を守っている。
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
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なぜ諸外国より日本のほうが住みよいのか
外国に暮らし、あちこちを歩けば日本の良さが理解できるのだ
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川口マーン惠美『住んでみたヨーロッパ、9勝1敗で日本の勝ち』(講談社α新書)
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作家でもある川口さんは日常生活の目線で他国の表情を微細に観察する。ドイツに住むといっても、つねに近隣諸国を旅行し、またご主人の赴任先であるイラクでも暮らした経験がある。
近年もノルウェイ、ウィーン、アルバニアなどを歩かれた。日本にいても北九州へ行かれたり、広島から四国など。きっと旅行が猛烈に好きなのだろう。
前作の『住んでみたドイツ、8勝2敗で日本の勝ち』は突如、十数万部のベストセラー入りしたが、本書はその続編。日本の勝率は欧州全体ではまた上がった。こうなると第三弾のタイトルは日本の全勝?
冗談はさておき、本書には何気なく挿入されている重要な文章がある。抜き書きしてみよう。
「歴史を書き換える、美化する、あるいは都合の悪いことを削除するのが上手なのは、何もアジアの国だけではない。どこの国もやっていることなのだ。程度の差こそあれ、日本もやっているだろう。そして、欧米の国々は、おそらく一番上手にやったのである。ドイツ語で『歴史』という言葉は物語、つまり作り話である。最初、ドイツに渡った頃、ドイツ語はなんて曖昧なのかと怪訝に思ったが、いまではドイツは非常に正しいとおもっている。ドイツ人は歴史はつくりばなしであるということをきちんと認識している」
日本の美の復権についても観察がある
「十九世紀、日本は、ヨーロッパの芸術家たちにとってエキサイティングな存在だった。ゴッホは浮世絵を集めていただけでなく、懸命に模写し、そこに書かれている日本語の文字まで熱心に真似た。浮世絵や日本美術から影響を受けた画家は、ほかにロートレック、ドガ、ルノワール、ゴーギャン」がいる。
ハンブルグでは北斎展が開催された(秋に上野でも開催されるが)。
ところが「その浮世絵を、当時の日本人は価値のないものと思ったらしく、その結果、多くの作品が二束三文で海外に流失した」
そうです。北斎展はなんと米国「ボストン美術館」から借りてくるのです!
ようやく日本も正気回復、保守化の流れが顕著となり、絵画で云えば、いま若仲も狩野派の屏風画も出光や国立博物館に常設されている。
直木賞作家の安部龍太郎は長谷川等伯を書いた。
評者も、そういえば岡倉天心の記念館を五浦海岸まで見に行き、「屈原」の絵も見たし、菱田春草展は初日に見学した。等伯に至っては滋賀県の山奥の設楽美術館まで、仏教音楽の声明は、どこへでも聞きに行くのである。だからわれわれから見れば、やっぱり日本の勝ち、だ。
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
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平常の権力中枢の闇の奧で戦われている血みどろの権力闘争に
あの中国が辟易しており、習近平は金正恩を「ガキの悪遊び」と
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近藤大介『金正恩の正体』(平凡社新書)
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驚くべき新事実がこれでもか、これでもか、と網羅されている。衝撃の事実ばかりで、目がテンになることも屡々である。
いくら朝鮮半島の北半分が謎に包まれているとはいえ、「これ、本当の話か」と訝しむ箇所もある。けれど、近藤さんはなにしろ北京大学留学、となりの部屋が連紡夫妻だった。その後も北京赴任が三年に及び、また小泉首相訪朝に随行すること二回。このひと、朝鮮語もぺらぺらなので、裏町へ這入り込んでの突撃取材はお手の物である。
中国と北朝鮮との「血盟関係」はみごとに破綻した。
習近平は金正恩を「ガキの悪遊び」と酷評し、中国が望んでいるのは『地域の安定』であり、「金独裁王朝の安定ではない」とケリー国務長官との会談で述べているという。これは2013年四月のことで、弐ヶ月後に習近平は訪米を控えていた。習は訪米した時にもオバマ大統領に同じ内容の北朝鮮観を述べた。
これらはいずれも日本には知らされていない事実である。
張成沢粛正までの権力中枢の暗闘を、軍との対立を軸におきながらも中国との経済開発協力、工業特区にまつわる利権、そして金一族の中国工商銀行の隠し口座の切り崩しを巡るやりとりから発覚した事実とは、張成沢が中国に隠れ住む金正男へ送金していた事実だった。
「預金をすぐに下ろして持ってこい」と金正恩が命じたが、張は驚き「すぐにはおろせません。利息の良い『理財商品』に投資しているので、すこし時間がかかるのです」と答えた。
すると金正恩は「利息は要らない。マイナスになっても構わないからすぐにもってこい」と怒鳴り、張成沢の周りを調べると、北京の高級住宅街で、暗殺の刺客を恐れる金正男はロシア大使館へすぐに逃げ込める距離の豪邸に暮らしていることまでが発覚したそうな。
まさに平常の権力中枢の闇、そこに渦巻いているのは陰謀、背徳、策謀、反乱、暗殺計画、密告など、平穏な日本の永田町の風景からは想像ができない血の臭いのする深奥なのだった。
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1130回】
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野15)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
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宇野の子息である宇野精一が「父は旅行好きだったから、北京滞在中にも、半年ぐらいして山東半島へ旅行をし、一年半余の後、帰国の途次に長安(今の西安)から南の都市に旅行したようである」(「学術文庫版刊行に当たって」『清国文明記』講談社学術文庫 2006年)と綴っているところからして、長安を目指した旅は、北京留学の卒業旅行だったのだろうか。
ちなみに宇野は、帰国直後の明治41(1908)年5月には前後2年余のドイツ留学に旅立っている。中国から即ドイツ留学へ。宇野の視界は、格段に広がったことだろう。
宇野が「畏友桑原學士」、つまり後に中国における人肉食いの歴史に注目した桑原隲蔵京都帝国大学文科大学助教授(当時)と共に長安に向けて北京西駅を旅立った明治40(1907)年9月前後の出来事を簡単に綴っておくと、4月には日本の満州経営の柱である満鉄が開業した。中国国内では清朝打倒の運動は加熱の一途。7月には日本留学生の秋瑾女史がテロに失敗。「秋風秋雨、人を愁殺す」の一言を残し刑場の露と消えた。9月1日、革命派は5回目の武装蜂起を決行したものの失敗している。
「畏友桑原學士」は宇野との旅を「長安の旅」として記録したが、現在は『考史遊記』(岩波文庫 2001年)に収められている。そこで、必要に応じて桑原の感想を加えながら、宇野の旅を追ってみることとする。
宇野は旅行準備の様子を、『考史遊記』の「序」に「余の山東旅行の経験により、寝具は二枚つづきの毛布二枚をズックの細長き袋に入れ、食器・茶器・炊事用具・?燭・蚤取粉・大和煮・福神漬等缶詰類、茶、米数升等を楕円形の竹籠(いわゆる考籠?)に入れ、旅費は馬蹄銀及び穴錢入れの頭陀袋を用意することとした。因みにこの馬蹄銀は、行く先々で、適当に切りてその土地用の穴錢に替えて、支払いに当てたのである」と記した。
中国は銀本位制であり、かつ地方によって貨幣制度が複雑微妙に異なる。そこで旅人は必要に応じて馬蹄形の銀貨を切り分け、各々の地方で通用の小銭に両替したわけだ。全土で通貨が統一されていない。もちろん、ことばも千差万別。これでは、とてもじゃないが近代的な意味での統一国家とは呼べない。つまり当時、彼の地は明かに国家の態をなしてはいなかったのだ。
清朝という統治主体の配下の、膨大なる老百姓(じんみん)が住む境域を自らの支配が及ぶ版図と見做す清国は、政府・国民・国土を柱とする近代的な国家システムによって動いていたわけではなかった。だが日本は、明治維新を経て近代国家への脱皮を急いだ。かくて日本は近代国家ではない彼の国を清国と呼び、国家として扱ってしまった。そこに、あるいは後々の対中関係(戦争、外交、通商、文化など)におけるボタンの掛け違いが生まれ、やがて満州事変以降の“矛盾”へと繋がり、結果として上海事変から支那事変へとまっしぐらに進んでしまったのではなかろうか。//


