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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2014年7月18日 第1481号 )
☆☆甦れ美しい日本☆☆
☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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◎佐藤守の新刊 『お国のために 特攻隊の英霊に深謝す 』
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◎
西村真悟 門脇朝秀翁の訪台と稲川和男さんの映像
先に、百歳の門脇朝秀翁が、台北から時計回りに山脈が連なる台湾の東海岸を南下して高雄から台北に戻る旅に出ておられることをお知らせした。
その門脇朝秀翁は、七月六日夜、
無事に元気で羽田空港に戻られた。
現在もお元気である!
台湾の山岳地帯に住んでいた数千年の歴史をもつ各部族は、日本語という共通の言語と同じ日本人という共同体の意識によって始めて一体となった。
この台湾に元もと住んでいた人々は、高砂族と総称される。
彼らは、純粋無垢の日本人であった。
そして、大東亜戦争において、実に多くの高砂族の若者が、志願し、数十倍の競争率を突破して日本軍兵士となり勇猛果敢な高砂義勇軍として戦った。
その高砂族の、首から靴をぶら下げて写っている兵士達の写真がある。
彼らは、官品として各人に支給された靴を、天皇陛下からいただいた物であるから、足の下に踏みつけるのは失礼にあたるとして履かずに首からぶら下げているのである。
その説明を聞いてから、戦場に赴く素朴な若者の姿を眺めたとき、涙ぐまずにはおれなかった。
大東亜戦争末期、大本営は、アメリカ軍は沖縄ではなくまず台湾に侵攻してくると予想して、沖縄の防備に当たっていた精鋭部隊を沖縄から台湾に移動させた。
しかし、アメリカ軍は台湾を回避して真っ直ぐに沖縄に侵攻してきた。
この理由は何か。
私には、アメリカ軍が、ニューギニアのジャングルで闘った勇猛な恐るべき高砂族が、台湾の山岳地帯にわんさといることに恐れをなしたこともその一要因だと思える。
この度、百歳の門脇朝秀翁は、
その純粋無垢の日本人であった高砂族の人々と会いに行かれた。
そして、変わらざる絆を確認し合った。
我が国では、敗戦によって、歴史意識は「戦前」と「戦後」に断絶されているが、
高砂族にはその断絶がなく、戦前と戦後は連続している。
つまり、高砂族の人々は、全員がフィリピンのルバング島で三十年間闘っていた小野田寛郎さんと同じ心情をもって、戦後も生きてきたのだ。
こう思えば、門脇翁が、百歳になっても、この人々に会いに行かれる動機も心情も大いに分かる。
従って、門脇翁の訪台それ自体が、
我が国の近現代史の中における貴重な「証言」なのだ。
翁の訪台は、
日本の歴史とは何か。
本来の日本とは何か。
戦前と戦後の連続性を回復して、これを指し示すものである。
即ち、日本を取り戻す為に、貴重なのだ。
そこで、この貴重な証言を「映像」にとどめる為に、二年前に続いて、この度も、
「映像教育研究会」を主宰する稲川和男さんに、
門脇翁に同行して台湾に行っていただき、
実に貴重な映像を撮影していただいた。
稲川和男さんは、
平成九年五月、私と一緒に小舟に乗り、尖閣諸島魚釣島に上陸した。そして、深夜の出港から早朝の魚釣島上陸までの情況を撮影してくれた。現在も、時々、TVで流れる尖閣諸島の空撮ではない陸上の映像は、稲川さんが撮影したものである。
また、稲川さんは、私の尖閣上陸と同時期に始まった北朝鮮に拉致された日本人救出の国民運動をはじめから撮影している唯一の人物である。
稲川さんの映像は、救出運動初期の左翼からの妨害、与党の冷淡さを余すことなく伝えている。めぐみさんのご両親が、ビラを配っていると、それを叩き落とす人がいた映像もある。
先年、アメリカ人監督が、拉致被害者救出運動の記録映画を作ったが、この名作のなかにも稲川さんの映像が使われている。
この稲川和男さんの撮影した、
門脇朝秀翁の台湾訪問記録を是非映像でご覧頂きたい。
稲川さんに聞くと、DVDは、八月に入れば完成しているという。以下に、映像教育研究所の電話番号を記しておく。ここに申し込めば、稲川さんが、完成したDVDを送ってくれる。当然ながら、代金がいる。
TEL 03-3553-9181
FAX 03-3553-9182
なお、二年前に私も門脇翁に同行してお会いした四名の方々が、既に亡くなっていて、この旅の訪台でお会いすることかなわなかった。
ここに、心からご冥福をお祈りする。
高砂義勇隊の宮本武治さん、そして、私に山ナイフと棒だけで猪を狩る術を教えてくれた沈萬年さん、ありがとうございます。
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目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 466」
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◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 466」
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このように、日本外交の“物足りなさ”は、高位高官を極めた人物たちもが認めているのである。
ところで、当時の米国務長官ヘイが、ドイツの植民地開発に対して送りつけた「門戸開放通牒」について、渡辺氏の論に戻ろう。
≪ヘイ国務長官が列強に嫌がらせのように送りつけた門戸開放通牒の真の対象国は、ロシアとドイツでした。ロシアの満州占領の野望は、英米の協力の下、日本の軍事力を利用した日露戦争で抑え込むことができました。ロシアの南進を義和団事件以前の勢力圏まで押し戻すことに成功したのです。
しかしドイツに対しては有効な手立てを打つことができなかったのです。膠州湾租借地の発展はすさまじいものがありました。ドイツは租借地域の中心となる青島をインフラストラクチャーの土台から徹底的に洋風化し、「小ベルリン」建設に邁進しました。鄙びた漁村に過ぎなかった青島の中心部から支那人住民を排除し(移住させ)、不潔な民間住宅は伝染病予防のためにことごとく焼き払い、ドイツ風の建築物で町を覆い尽くしたのです。
勾配のきつい青島の道路は拡張工事とともにその勾配を緩和させ、上下水道も整備していきます。
ドイツ支配の象徴的建物である総督府は地下室のある地上三階建てで、百五十を超える部屋数を誇ります。周囲の丘には兵営を次々に建設していきました。
ドイツ租借以前には地肌を無残に晒していた山々でしたが、総督府は植林を実施(一八九九年)し、一九二一年までには千二百四十ヘクタールの山肌を緑の木々で覆ったのです。教育に関しても自国民の教育機関だけでなく支那人子弟のための学校まで作っています。
インフラストラクチャー整備のなかで最も力を入れたのは港湾施設でした。商業的にも軍事的にも重要施設となる港は、キール軍港を築港した経験を持つ技師ゲオルグ・フランチウスが設計しています。一八九九年には工事を開始し一九〇七年に完成しています。湾内には二つの防波堤を築いています。北防波堤は四・六キロメートル、南防波堤はI・一キロメートルという長大なものでした。
建設された三つの埠頭のうち第一と第二埠頭を合わせると、六千トン級の船舶を最大十二隻まで繋留することができました。第三埠頭には貯炭所や海軍工廠を付設しています。それぞれの埠頭には鉄道の引き込み線が敷設され内陸輸送との連結がなされていました≫
近代化が遅れていた当時の清国を、ドイツはそれこそ一から開拓するかのように切り開いていく。勿論その工事に携わるのは、低賃金で雇われた労働者(苦力)達であったろう。
植林や学校建設など、一見すると“人道的”に見えないこともないが、開発の主眼は港湾建設にあった。丁度今、経済大国?となった中華人民共和国が、資源獲得のためにアラビアからインド洋にかけて“真珠の首飾り”と称する寄港地建設を進めていることと符合する。この時のドイツのやり方に学んだに違いない。
≪こうした総督府直轄事業とは別に、民間資本で運営される山東鉄道(一八九九年設立)や山東鉱山会社(同年設立)も設立され、山東省全体をカバーする事業が官民で展開されていったのです。
金融分野でもドイツ系銀行の活動は活発でした。ドイツ系銀行は列強の銀行との競争で他の支那市場では劣勢が続いていました。しかし義和団の乱が鎮圧され山東省方面の治安が落ち着きをみせると、ドイツ系企業の発展に足並みを揃えるように業務を拡大しています。徳華銀行(the Deutsch-Asiatische Bankドイツ・アジア銀行)は青島、天津、北京、さらには漢口、香港、広東にまで支店網を広げています。
銀行業にとって支那は魅力のある市場でした。ドイツ系銀行はベルギー系(二社)、英国系(三社)、フランス系(二社)、オランダ系、ポルトガル系、ロシア系(二社)、米系(三社)などと、各地の開港都市で激しく競争していました。銀行業にとって最も魅力的な業務は銀行券の発行でした。ドイツ系銀行と競合するこうした銀行のいくつかは、すでに発券業務を行っていました。
銀を貨幣の中心としていた支那マーケットでは、銀との兌換を保証する兌換紙幣の発行になります。
しかし、銀行はその発行する銀行券の総額に相当する貴金属(銀)を全額持っているわけではありません。必ずそれを超える額の銀行券を発行するのです。それが市中で信用力を持てば兌換されることなく流通を始めていきます。
兌換できる貴金属保有量を超えて発行される銀行券のもたらす巨額な貨幣発行益こそが、銀行にとって最も魅力があるものでした。治安が安定すれば兌換を求める取り付け騒ぎ(銀行が最も嫌うシナリオ)の可能性もなくなります。発行する銀行券の信用力が高まれば、兌換に備える銀の量をより減らすことが可能になるのです。つまり低い準備率でより大量の銀行券の発行ができるようになるのです。手持ちの資金以上に銀行券を発券し融資する行為は、言ってみれば持ってもいない資金を貸し付けてそこから利子を得ることです≫
さすがに資本主義の先端を行く国らしく、ドイツ系企業とその発展を支える銀行の抜かりない進出ぶりには脱帽せざるを得ない。植民地を獲得するということの意味は、そこにあるのだということがよく理解できる。
2008年の北京五輪で一躍列強の仲間入りをしたと錯覚した中国政府が取った方式もこれに酷似している。資本主義の基礎を学んでもいなかった共産専制主義国に「株式」を導入して銀行券を乱発した結果がすぐ前に迫っているのも、“後進国”シナらしいといえばいえるであろう。(元空将)
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