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歴史教科書読み比べ(16) : 平安時代を支えた藤原氏の英智
平安時代は、藤原氏の専横と国司の人民収奪で乱れた時代だったのか?
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■1.うんざりする平安時代の記
中学時代に、平安時代の歴史を学んでいて、うんざりした記憶がある。中央の藤原氏も地方の国司も自分の利益をむさぼるばかりで、そんな俗物ばかりがはびこった時代として描かれていたからだ。多感な中学生が、世の中の悪ばかり見せつけられて、元気が出るわけがない。現在の東京書籍版の歴史教科書の記述も、同様である。
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摂関政治と国司
平安時代になると、藤原氏は、たくみに他の貴族を退けながら、娘を天皇のきさきにし、その子を次の天皇に立てて、勢力をのばしました。そして、9世紀後半には、天皇が幼いときは摂政、成長すると関白という職について、政治の実権をにぎるようになりました。
このような政治のしくみを摂関政治といい、11世紀前半の藤原道長(ふじわらのみちなが)と、その子頼通(よりみち)のころが、最もさかんでした。
藤原氏は、朝廷の高い地位をほとんど独占し、国司からは、たくさんのおくり物をおくられ、多くの荘園をもつようになりました。
いっぽう、地方の政治は、ほとんど国司に任されていたので、自分の収入を増やすことにはげんだり、任地には代理を送って、収入だけを得たりする国司が多くなり、地方の政治は乱れていきました。[1,p41]
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コラム欄では、「道長の栄華」として「この世をば わが世と思う 望月(もちづき)の欠けたることも 無しと思えば」という歌を紹介し、さらに「藤原氏の系図」として、一族の娘たちが次々と10代もの天皇の后になった様が図解されている。
■2.律令国家の立て直し
自由社版も、「摂関政治」については同様の記述をしているが、その前に「律令国家の立て直し」という一節を設けている。
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律令国家の立て直し
桓武天皇は、農民にとって大きな負担となっていた兵役の義務を(九州と東北を例外として)廃止し、郡司の子弟による新しい軍隊を作った。これを健児(こんでい)制という。
また、地方政治の乱れを監視するため、勘解由使(かげゆし)を置き、国司や郡司の不正を取りしまった。さらに、6年の1回だった口分田の支給を、実情に合わせて12年に1回とした。[2,p66]
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この結果として、次の「摂関政治」の冒頭で、こう記す。
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摂関政治
律令国家が建て直され、天皇の権威が確立し、皇位の継承が安定してくると、天皇が直接、政治の場で意見を示す必要がなくなった。一方、藤原氏は・・・[2,p67]
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として、東書版と同様の記述が続く。「摂関政治」は、桓武天皇の立て直し努力の結果、安定した国家ができあがったので、その上に生じた現象なのである。
東書版は、こういう桓武天皇の立て直し努力に一切、触れていない。かろうじて、その前の節で、貴族や僧の間で勢力争いが激しくなったので、桓武天皇が新しい都で政治を立て直そうとして、京都に都を移した、という点に触れているのみである。
混乱した政治を立て直そうとする努力を一切、無視して、金と権力を追求した面のみを教えられたのでは、これから自分の人生を歩もうとする中学生の志気を挫くのみである。
■3.人口増による社会の成長
平安時代とは794年の平安京遷都から、1192年の鎌倉幕府創設までの約4百年間を指す。この間は、末期の源平の戦いを除けば、大半の期間で大規模な革命も内乱も起こらなかった事を考えれば、朝廷の統治は安定していた、と言えるだろう。
その中で、公地公民制が徐々に崩れて、土地の私有化、武士の成長が緩やかに進行して、次の鎌倉幕府に実権が移る。公地公民制が崩れた原因は、人口の増加によって、農民に配分すべき口分田が足りなくなり、新田開発を促進するために、それらの地の私有を認めるようになったからだ。
人口が増加したのは、それまでの朝廷の統治の成果である。したがって、公地公民制の成功が社会を成長させ、その成長の結果、古い制度が綻んで、新しい制度が必要になった。そこを無視して、公地公民制が崩れた、という問題のみを指摘するのは、バランスを欠いている。
歴史学者がその変化の部分に着目して、「摂関政治」や「荘園制」などという概念で説明するのは歴史研究としては良いとしても、歴史教育としては、その大前提である大和朝廷による政治の安定と、その結果としての人口の増加、という面をきちんと教えなければならない。
■4.うち続く天変地異との戦い
もう一つ、最近の歴史研究で明らかになってきた事は、平安時代には天変地異が頻発したことである。平安時代の最初の100年だけでも次のように大規模な天災が続いた。
・弘仁9(818)年7月、坂東諸国を大地震が襲った。相模などの諸国では、山崩れが起きて谷が埋まり、圧死した者の数は数え切れないほどだった。[3,p105]
・弘仁10(819)年、旱魃(かんばつ)が発生し、人は飢えて危機的状況となり、正倉も空で救民もできないため、朝廷は使者を派遣して強制的に富豪の蓄えを記録させ、困窮者に貸し出させた。[3,p116]
・貞観6(864)年、富士山が北西斜面から噴火し、60mほどの火柱が上がった。溶岩流は長さ18キロメートル、幅2~3キロを埋め尽くした。人々の家も呑み込まれ、一家が死に絶えた家も数知れなかった。[3,p128]
・貞観16(874)年3月、鹿児島の開聞岳が爆発し、その煙は天を覆い、火山灰が約3~15センチほど積もった。農作物はすべて枯れ、川の水も黒く濁り、魚も死んだ。その魚を食べた者は、死んだり病気になった。[3.p103]
・同年8月、暴風雨で京は2m以上冠水し、橋は流され、溺死した人・馬・牛は数え切れなかった。[1,p111]
・仁和3(887)年7月、大地震が発生し、京では役所や民家が倒壊して下敷きになって亡くなる者が多かった。近畿地方でも津波が押し寄せて数え切れないほどの死者が出た。[1,p108]
・仁和4(888)年5月、信濃地域を未曾有の大洪水が襲った。山崩れが起きて川をせき止めたため、水が諸郡を貫流し、役所や民家が流された。朝廷は使者を派遣して現地を視察させ、救済策を講じた。[3,p112]
うち続く天変地異の中で、なんとか人民を救おうとした朝廷の努力が垣間見える。
そして、大事なことは、これだけ天災が続いたにも関わらず、大規模な内乱も起こらず、国全体としては人口が増加したという事実である。それは朝廷の政治が基本的には成功したから、と言うほかはない。
こういう大きな流れを無視して、藤原氏の摂関政治や国司の地方搾取など、政治の乱れのみを描くということはマルクス主義的な偏向教育である。
■5.藤原緒嗣の直言
実際に、藤原氏の中にも、乱れ行く世をなんとか正そうとした人々がいた。たとえば、延暦24(805)年、30歳前の若き参議・藤原緒継(おつぐ)は70歳近い桓武天皇の面前で、次のような直言をした。
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いま天下の苦しむところは、軍事(蝦夷征討、[a])と造作(ぞうさ、平安京の都づくり)です。この二つを停止すれば、百姓の生活は安らかになります。[4,p58]
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この直言について、[4]の著者・目崎徳衛・聖心女子大学教授は次のように解説している。
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これは、桓武朝の生命ともいうべき二大事業に対する、まっこう
からの否定である。緒継は捨て身の勇気をふるったのだ。この勇気をささえたものは、おそらく貴族層の多数意見であった。さらにその背後には、長年の重い負担にうちひしがれた農民の姿があったにちがいない。
長老の真道(菅野真道、同じく参議)は、緒継の主張に強硬に反論した。しかし、年老いた天皇は緒嗣の批判をすなおに受け入れた。ただちに造宮職(ぞうぐうしき、都の造営にあたる役所)を廃止したのである。[3,p58]
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70歳近い老天皇の生涯の功績を真っ向から否定するような建言をした緒嗣は、天皇の怒りを買って、自分の地位、ことによったら生命までも奪われる恐れがあっただろう。それを顧みずに、真っ向からこのような直言をしたのは、それだけ民を思う気持ちが強かったからに違いない。
それにもまして心を打たれるのは、自分の生涯の業績を否定しかねない緒嗣の直言を容れた老天皇の御心である。緒嗣と同様に、自身のことより、民の幸せを願う大御心が窺われる。
藤原家の摂関政治も歴史の一面ではあるが、藤原氏の中にも緒嗣のような人物もいたことを教えてこそ、中学生の多感な心に訴える歴史の授業となるはずだ。
■6.藤原園人の気骨
上述の参議・藤原緒嗣と並んで、平安時代初期に財政緊縮、民生安定を図ったのが、右大臣・藤原園人(そのひと)である。
たとえば、桓武朝の頃から天皇の鷹狩りや、宮殿の完成などの祝い事に、貴族や国司などが争って「献物(けんもつ)」を行う風習がさかんになっていた。園人は嵯峨天皇の弘仁5(814)年、「国司・郡司は献物を口実にして百姓から余計に税を取り立てる。こういうことはきびしく禁止しなければならない」との意見書を出した。
さらに、この年に園人は驚くべき行動をとった。藤原氏の古くからの特別な勲功に対して与えられ、永久に子孫に相続しても良いとされていた功封(こうふ、私有領地)を朝廷に返還しようとしたのである。
園人に続いて、その同じく藤原北家で甥にあたる冬嗣、上述の式家・緒嗣も同様な申請を行い、結局、藤原氏の所有していた封戸(ふこ)合計1万7千戸すべてが国家に返還された。推定によれば、これは全国の戸数の約12分の1にもあたる。[3]の著者・目崎徳衛教授は、こう述べる。
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このころの藤原氏主流が、鎌足以来の特権を放棄してまでも律令体制維持をつらぬこうとする意識を強く持っていたことは…
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