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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2014年5月23日 NO471号 )
☆☆甦れ美しい日本☆☆
☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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◎西田昌司 【Showyou通信 VOL.409】-2014.5.21-
★伝えよう、美しい精神と自然。
-日本の背骨を取り戻そう-
【ネット中継】
5月26日(月)10:05~10:35頃(約30分間)
参議院決算委員会で質問いたします。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
※会議名からの検索より「決算委員会」を選択下さい。
【showyou動画】
街頭活動『集団的自衛権について議論の本質』を追加しました。
ホームページのshowyou動画にてご覧頂けます。
http://www.showyou.jp/movie/
【昌友塾および懇親会のお知らせ】
今回は特別企画としまして、昌友塾終了後、懇親会を開催させていただきます。
日頃よりご支援いただいております皆様方と親しく懇親させていただきたく存じますので是非ともご参加下さいますようご案内申し上げます。
日 時:6月7日(土) 昌友塾19:00~20:30
懇親会20:30~22:30
会 場:キャンパスプラザ京都2F ホール
(JR京都駅北側・京都中央郵便局西側)
会 費:3,000円
(お車でお越しの方は懇親会でのアルコールはご遠慮下さい)
参加定員:60名(定員になり次第〆切らせていだだきます。)
※お早目にお申込下さい。
参加申込:お食事のご用意がありますので、ご参加者名を6月3日(火)までに西田事務所〔担当:柿本〕office@showyou.jp
または075-661-6100までご連絡下さい。
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目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 458」
◎西村真悟 支那・チャイナの馬鹿ウソとアメリカの自由と神を語るウソ
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◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 458」
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次に展開された天津城南門攻略戦は、その後の南京城攻略作戦に酷似しているので、大変参考になる。しばし渡邊氏の著作を引用する。
≪天津城南門攻撃に向かう部隊が集合を始めたのは、まだ夜も明けぬ七月十三日午前三時のことでした。天津城に近づくためにはその外周を囲う土塀を乗り越えなければなりません。かって太平天国の乱に備えた防壁でした。午前六時頃には日本軍とイギリス歩兵部隊がこれを突破しています。その後にアメリカ海兵隊、イギリス海軍部隊、アメリカ第九連隊が続いています。土塀を越えると城の南門に通じる道は狭い土手道が一本あるだけでした。周囲は低地で堀が巡らされているなかを走っている道でした。前進する日英の部隊に激しい銃撃が城内から浴びせられます。
義和団の兵士は城外西方にも展開し、北に向かって進む連合軍の左手からも銃撃してきたのです。反撃するために縦列を組んでいた部隊のうちイギリス歩兵部隊、アメリカ海兵隊は左翼に回り、日本軍はそのまま中央に残りました。左翼には道は通じていません。田んぼや沼沢の中を弾除けになる低地や遮蔽物を探しながらの前進でした。土塀から天津城まではおよそ一マイル(一・六キロメートル)です。しかし城壁まで八百ヤード(およそ七百二十メートル)のところでまったく動けなくなります。
「うだるような暑さだった。土塀と天津城の間には水田、塩田あるいは墓地がごちゃまぜになっていた。そこに支那兵は、近くの水路から下水を流し込んでいた」
天津城の壁は高さ九メートル、幅は五メートルもあり、清国軍はそこに最新型のクルップ社製四・七インチ砲を備えていました。彼らは西洋式の訓練を受けた部隊でした。そこからの砲弾に加え、城外に出ている義和団兵からの攻撃が激しさを増すと、左翼を進む部隊は一歩も進めなくなったのです。
縦列部隊の後方に控えていたアメリカ第九連隊はたちまち前線に出なくてはなりませんでした。南門攻撃の司令官となっていたドーワード准将からは明確な指令がないままに、当初は左翼の支援に回り、次に次第に劣勢になった右翼の攻撃に向かうことになりました。この第九連隊も前進も後退も出来ない状況に陥ってしまいました。この模様は次のように報告されています。
「第二大隊指揮官のジェームズ・レーガン少佐は負渇していた。(中略)九時前には第一大隊を指揮するリー少佐に、連隊長のリスカム大佐が瀕死の重傷を負ったことが報告された。リーが隊の指揮をとることになったが、彼にできることはほとんどなかった。前進も後退も同じように危険で地面に這いつくばるしかなかった。なかには銃弾を避けるために脇の下まで水に浸かったままで立ち往生している者もいた」
すべての軍隊が硬直状態に陥ったこの日の午後、指揮官会議が聞かれています。そこで採用されたのは福島少将の意見でした。両翼に布陣する英軍と米軍は、日が暮れしだい、闇に隠れて後退し、中央を攻める日本軍とフランス軍の援護に回る。翌日あらためて中央突破を図るというものでした。
日本軍工作部隊はその夜も繰り返し南門の破壊工作を試みています。しかし爆薬を仕掛けるたびに支那兵が飛び出してきて導火線を切ってしまい、爆破工作は困難をきわめました。危険を顧みず日本の工作隊員が短い導火線の爆薬を使い、門の破壊を成功させたのは翌十四日早朝三時のことでした。死を賭した破壊工作の成功の後に連合軍が城内に入ると、そこはもぬけの殻でした。清国兵も義和団兵士も南門の爆破を受けてみな城を捨てて逃げ出していたのです。福島少将が作戦の成功を確信したのは午前九時を過ぎた頃でした。
天津城攻撃での連合軍の犠牲者は七百五十に及んでいます。中央突破を担当した日本軍が最も多い四百名近い犠牲者を出し、他の部隊もそれぞれ百名前後の死者を出したのです。
多大な犠牲を払った天津城攻防戦ですが、それは北京に寵城する連合国の外交官や同胞を救出するための過程に過ぎませんでした。すぐにでも救出に向かうことが必要であることは連合国軍の指揮官にはわかっていました。しかしセイモア部隊の過ちを繰り返さないためには入念な準備と連携のとれた作戦立案が不可欠でした。北京攻略には兵力が不足していましたから増援部隊の到着を待つ必要もあったのです。アメリカ陸軍は北京攻略に向けて大物を米本土から送り込んでいます。五十八歳のアドナーシャフィー少将です。南北戦争、対インディアン戦争、米西戦争を経験し、キューバ軍政長官レオナード・ウッドの参謀長を務めたばかりでした。増援部隊とともにサンフランシスコを出港した将軍が、三週間の船旅を経て長崎に到着したのは七月二十四日のことでした。将軍の乗る防護巡洋艦「ニューアーク」に駐日公使と長崎県知事が乗船し、最新の情報を伝えています。
天津にシヤフィーが到着したのは七月三十日の昼でした。この頃にはすでに各国の増援部隊が到着し、兵姑の準備もほぼ完了していました。八月三日の宵に開催された各国指揮官会議で部隊の陣容が確認され翌日の出発が決定されています。総指揮官には外交交渉の結果、ドイツのヴァルダーゼー元帥が決定していましたが、彼はまだ天津には到着していません。暫定的な総司令官に互選されたのは英国陸軍のアルフレッドーゲイズリー少将でした。ゲイズリー少将の選任は各国の思惑が入り乱れた結果でした≫
これが“多国籍軍”の実態なのだが、支那兵の戦い方と、それに対する“近代列強国軍”の士気と指揮ぶりがよくわかる。更に「アジア人蔑視」姿勢が浮き彫りになっている半面、日本軍、日本人の誠実さと高い能力がよくわかる記録でもある。
その3年後に日英同盟が締結され、さらに2年後に日露戦争が勃発、そして8年後にシナには辛亥革命が起きやがて1929年の世界恐慌に突入していくのだが、この間に我が国が“列強”の裏の顔を見抜けなかったのが残念である。(元空将)
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◎西村真悟 支那・チャイナの馬鹿ウソとアメリカの自由と神を語るウソ
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本ホームページの画面が、二日前にチャイナからの工作でめちゃめちゃにされていた。これで、二度目である。
自国人民の動向を巨額の国費を使って監視し続けなければ維持できない国が、他国のネットに入り込み、妨害している。
天安門事件の日である六月十四日を一ヶ月後にひかえて、中国共産党は、その事件の実相を知り、それを記憶している自国人民を拘束し始めている。
近い将来、中国共産党独裁政権が行っているこの蛮行や工作は次の通り評価される。
曰く、「政権の末期症状」
同時に独裁政権は、南シナ海の西沙諸島海域に於いて、ベトナムの領有を排除するために実力行使にでている。
数年前、我が国の尖閣諸島周辺領海において我が国巡視船に対し、支那は漁船と称する船を衝突させた。
それと、そっくり同じことを南シナ海でやっている。あの時の尖閣事件と同じ映像が流れているのかと思えるほど同じだ。
違うのは、我が国に対しては、「漁船らしき船」を衝突させたのに対して、ベトナムに対しては、「正真正銘の公船」を衝突せしめていることだ。
また、中国政府の言い分もそっくり同じ。
何が同じか。ウソが同じなのだ。
この度、独裁政府スポークスマンとウーマンは、三十五隻のベトナム船が百七十一回も中国船に衝突してきたと言っている。
よくも、まあ、大真面目な顔をして世界に対して恥をさらしている支那人よ。
こんな国は、文明国でもなんでもない。
天命は、既に中国共産党独裁政権を見限っている。
易姓革命の伝統に従って、現王朝が打倒され、新しい人民の為の政権が各所に誕生することになる。
ところで、現在、中国共産党が宿痾の如く繰り返す「ウソ」を見たり聞いたりしていて、連想することがある。
突拍子もないと思われるかも知れないが、それは、
今の支那のウソは、アメリカが原住民インディアンの土地を奪うときのウソと同じだ、ということ。
アメリカ開拓史は、インディアンの土地を奪う歴史である。
その略奪を、白人は、「神から与えられた使命」であると大ウソをついた。そして、そこから、無数の小ウソが繰り返され、被害者のインディアンが野蛮で暴虐で貪欲だとされた。
しかし、「西部劇」で有名になったバッファロー・ビルは、次のように言っている。
「インディアンが約束を破ったことは一度もなかった。
そして、白人が約束を守ったことも一度もなかった。」
野蛮で暴虐で貪欲だったのは白人だった。
では、如何にして、開拓は成功したのか、つまり、白人は如何にしてインディアンを打倒したのか。
アメリカ騎兵隊は、戦場に現れたインディアンの戦士と対峙せずに迂回して(何故なら、彼らのほうが強かったから)、
彼ら勇敢な戦士の無防備な集落(家庭)を襲い、
戦士の妻、両親そして子供を虐殺することによって、インディアンを屈服させ打倒したのである。
ウソと敵側の無防備な者への容赦のない攻撃が、アメリカ軍の遺伝子である。//


