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□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2014年5月9日 NO1468号 )
☆☆甦れ美しい日本☆☆
☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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◎片山虎之介
法人税改革と外形標準課税について
法人税実効税率引き下げについて、安倍首相は歴訪したヨーロッパで意欲的な発言を繰り返し、甘利経済再生相も「5年程度で20%台を実現」とまで踏込みました。首相から検討させると言われた自民党税調の野田会長は、慎重に対応としつつも代替財源について「外形標準課税は大事なテーマの一つ」と述べました。
私は、これまで予算委と総務委で何度も地方法人税改革を質問、もって1.法人税の実効税率を国際標準並みに引下げることにより、国際競争力を強化しつつ日本への投資を誘導すること、2.地方税制の応益性を高めながら、地方税源の偏在を是正し、景気による地方税収の変動を軽減することを主張して来ました。
具体的には、法人事業税の全面的な外形標準課税化と法人住民税・法人税割りの地方消費税へ振替えです。現在は、法人事業税については資本金1億円以上の企業に1/4の外形標準課税が課せられるとともに、とりあえずの措置として、地方法人特別税・譲与税化が、また法人住民税・法人税割りについては地方法人税・交付税原資化がそれぞれ制度化されて、まことに複雑です。
外形標準課税についてはシャウプ勧告を受け、昭和25年付加価値税が制度化され昭和27年1月から実施されることになったものの、結局流れて昭和29年に現在の法人事業税が創設されました。そして、私が総務大臣のとき法人事業税に外形標準課税の一部導入が決まり、平成16年から実施されました。
これから税制を考えるとき、私は外形標準課税の推進は不可欠だと思います。しかし「赤字企業も課税される」、「賃金への課税が雇用に悪影響を与える」、「中小企業に大きな負担となる」等々の批判があり、これをどう説得するかが勝負でしょう。
平成26年5月9日
◎西村真悟
五月三日と降伏文書および東京裁判起訴状
昨日に引き続き、ゴールデンウィークの「休日」として過ぎ去った五月三日の「憲法記念日」に関して、指摘しなければならないことを書く。
これは、昨日の夕刻、憲政記念館で行われた西村塾総会における塾長講話で述べたことである。
昭和二十二年五月三日に施行された日本国憲法と題する文書の本質を理解するには、次のことを総合して検討しなければならない。
1、書いた者は誰か・・・その作者をAとする
2、Aは、他に如何なる文書を書き、何をしたのか
3、Aの目的は何か
その答えは、
1、我が国を軍事占領していた連合国最高司令官が、日本国憲法を昭和二十一年二月の一週間ほどの間に、部下のケーディス大佐をリーダーとする十数名の要員に命じて書かせた。
即ち、Aは、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーである。
2、Aは、日本国憲法と題する文書の他、次の二通の文書を書いた。
―昭和二十年九月二日に日本および関係各国によって署名された日本国の「降伏文書」
―昭和二十一年四月二十九日に日本の戦争犯罪を裁く東京裁判に提起された東条英機ら戦犯の「起訴状」
そして、Aは、日本の自由な言論を禁止するために三十項目にわたる検閲を実施した。
その検閲項目の最重要な冒頭の三つは次の通り。
―連合国最高司令官に対する批判
―東京裁判批判
―連合国最高司令官が日本国憲法を起草したことに対する批判
3、Aの目的は、日本の完全な武装解除である。
即ち、日本を武力のない完全な無力な国家として未来永劫固定することがAの目的である。
その為に、Aは、まず降伏文書によって日本を完全に武装解除させ、軍隊を解体した。
次に、Aは、日本を悪を為した国として断罪する為に東京裁判の起訴状を書いた。
そして、復讐のために東条英機ら七名の我が国の指導者を皇太子殿下の誕生日である昭和二十三年十二月二十三日に絞首して殺害した。
さらに、Aは、この日本の武装解除と断罪を日本の国内体制においても固定させるために、日本国憲法を書いた。
以上の通り、昭和二十年九月から昭和二十一年四月二十九日までに書かれた降伏文書、東京裁判起訴状そして日本国憲法の三つの文書は、ともに日本の弱体化とその固定化を図るために、
連合国最高司令官によって書かれたものである。
このことを、日本人として如何に受け止めるべきか。
これが、五月三日に自覚され検討すべきことである。
従って、五月三日に半旗を掲げるか掲げないかは、
各人の判断による。
五月三日は、ありがたい天皇を戴く我が国の國體を自覚し、その國體に基づいて真の自主的な日本国憲法を制定する決意を新たにする日と受け止める者は、祝意を表す国旗を掲げる。
無念さを表そうとする者は、半旗を掲げるべし。
では、我が国の戦後という時代の表層を覆っているAの書いた我が国の武装解除と断罪を目的とする三つの文書とは別に、
戦後において、我が国の普遍の岩盤を表す文書は存在するのか。
存在する。
それは、「人間宣言」という軽薄なレッテルによって本質を隠されているが、天皇の国民に対する文書、宸翰である。
即ち、敗戦後の初めての正月元旦に天皇によって発せられた、俗に「新日本建設に関する詔書」、正式には
「年頭、国運振興の詔書」といわれるものである。
昭和天皇は、この詔書によって、まず、敗戦後のこれからも、
明治天皇の下された五箇条のご誓文の精神に基づいて誓いを新たにして国運を開いていくことを国民に訴えておられる。
即ち、明治維新からの連続性を強調されているのである。
この時、天皇は降伏文書に基づき、「連合国最高司令官の制限の下に置かるるもの」とされていた。
しかし、この「制限の下」にあっても、天皇はAの意図した日本断罪の自虐意識など毛頭無く、
堂々と、明治天皇の下に始まった
明治維新の志の継承を国民に訴えられている。
従って、五月三日が、
国民の屈辱の日ではなく祝日ならば、
我々日本国民は、五月三日に、
Aの書いた「日本国憲法と題する屈辱の文書」ではなく、
昭和天皇がその志の継承を訴えられ
我が国の根本規範にして自主憲法が生み出される
志の根源としての、
明治元年三月十四日に、明治天皇によって同時に発せられた
「五箇条のご誓文」と「国威宣布の宸翰」
をお祝いし拳々服膺すべきである。
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目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 456」
◎奥山篤信 フランス映画『デル、ブルーは熱い色La vie d'Ad!)le ? Chapitres 1 et 2』2013――――――――――――
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 456」
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義和団の乱は激しさを増して北京に到達し、1900年6月9日には天津と北京を結ぶ鉄道が破壊されて山東省方面との交通が遮断される。そして10日には義和団の一団が、北京市内に進入して各国の大使館が集まっている東交民巷近くに迫り、日本公使館の杉山彬書記官を殺害するに至る。ところが杉山書記官を襲撃したのは、清国の正規軍である董福祥の部隊であったから、清国そのものが反西洋人との戦いを始めたことは明らかだった。
そして義和団の少年メンバーが殺された報復として、ドイツ公使ケットレルも殺害される。渡辺氏はこう書く。
≪「六月二十日朝八時ドイツ公使フォン・ケットレル男爵は、コルデス書記官を連れ清国政府との交渉にため総理衙門に向かった。オーストリア公使館前に設置された清国警備所まで来ると、兵士がエスコートすると申し出たので、男爵は護衛を返し書記官と二人で出かけることにした。総理衙門の建物に近づくと、兵士たちは男爵に背後から銃弾を浴びせた。彼は前のめりに倒れ息絶えた」「(前を行く男爵の殺害を見た)コルデスも重傷を負ったが、這いずって東交民巷まで帰ることが出来、一命を取り留めている。この卑劣な行為が各国外交関係者に知れ渡ると、北京市内の外国人は保護を求めて英国大使館に集まってきた。この日の午後四時に東交民巷は包囲された。八月十四日に開放されるまでのおよそ二か月間にわたる籠城の始まりであった」
公使を殺害されたことを知ったヴィルヘルム二世の憤りには凄まじいものがありました。包囲された東交民巷解放のために八か国(英国、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア、日本、イタリア)が連合軍を派遣することになるのですが、ドイツ公使殺害が発端となっている以上、連合軍の指揮はドイツに任されるべきだと主張し、それを強引に認めさせました。ヴィルヘルム二世は北京に向かう遠征部隊に訓示を述べています。
「異教の文化は、どんなに立派で優れていようと、すべて滅びるのだ。(中略)軍紀と規律の模範、克己心と自制心の模範を見せてくれたまえ。装備のいい軍隊が相手だが、諸君は復讐するのだ。ただ一人の大使の死に対して、ではなく、数多くのドイツ人とヨーロッパ人の死に対して。諸君が進軍すれば、敵は敗走するしかない。情け容赦は無用である。皆殺しにしてくれたまえ。敵の捕虜をどうしようと諸君の勝手だから」(七月二十七日)
「敵は暴力とずるさ、放火と殺害によって、ヨーロッパの貿易とヨーロッパの精神の進出を妨げ、キリスト教の倫理と信仰の大成果を阻止しようとしている。しかし、神の呼びかけがもう一度聞こえてくる」≫
支那人兵士の行為は断じて許されない卑怯なふるまいだから、ドイツ皇帝が怒り狂うのは仕方がないにしても、訓示の内容は、平素から如何に西欧、この場合はドイツ皇帝がアジア民族=異教徒を軽蔑していたかがわかる一文である。その後に起きた満州の利権争い、引き続いて勃発する第2次世界大戦における日本に対する見方も、これと同じ線上にあったといってよかろう。そうであったにもかかわらず、日本はドイツと手を結び、欧米を敵に回したのだから、国家戦略上の大きな誤判断をしたといっても過言ではない。このような列強の「性癖」を理解していたならば、もっと違った戦略が取れたであろうに、と悔やまれる。
≪司令官に任命されたアルフレッド・ヴァルターゼ元帥はドイツ本国から派遣されていますから、元帥の北京到着は遅れています。彼が北京防衛の東の拠点である大沽に現れるのは九月二十一日になっていました。連合軍の北京解放(八月十四日)からすでに一月以上が経過していたのです。
北京の治安悪化は杉山書記官やケットレル公使殺害以前から始まっていました。
市内に居住する同胞の安全を憂慮した各国が、取り急ぎ四百五十の兵士を派遣したのは五月三十一日のことです。//


