奇跡の産業遺産、富岡製糸場
群馬県の富岡にある「富岡製糸場」とその周辺の関連施設4カ所が世界遺産に登録される日も近い、ということをご存じでしょうか? 結果は6月、カタールのドーハで開かれる「ユネスコ世界遺産委員会」で決定されますが、それを前にして『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベスト新書・933円)を読みました。カラー写真で富岡製糸場の内部の構造もよく分かるように紹介されています。
著者は富岡製糸場総合研究センター所長の今井幹夫さんです。
1859年に鎖国時代が終わり、わが国は外国と初めて貿易をすることになったわけですが、そこで何を輸出していたのでしょうか? それは蚕種(蚕の卵)と生糸です。わが国の輸出全体に占める蚕種と生糸の割合は1861年 には68.3%、62年 は86%、63年 は83.6%、64年は74.2%、65年 は88.5% です。輸出に占める割合が単一品目でこれほど高くなったことは近代貿易史上ありません。いかに当時、日本の蚕種と生糸が外国から求められていたか、が分かります。
当時、ヨーロッパでは蚕の病気が蔓延していました。さらに中国(清)の国内情勢が悪化して、生糸の生産能力が急激に落ちました。生糸の需要が大きいヨーロッパの国々が頭を痛めていたところに日本が開国したわけです。「日本に行けばいい生糸が買える!」という評判を聞きつけてヨーロッパの商人たちが争うように日本にやって来ました。
増える需要に応えようと明治政府は外国の機械を導入し、外国人を指導者に招いて官営の製糸場を設立することを決意しました。フランス人のポール・ブリュナとヨーロッパの女性教師が招かれて日本女性に作業の手順を教えました。
明治5年(1872年)、富岡製糸場は完成しました。以来なんと115年間! 昭和62年(1987年)まで現役の生糸生産一筋の稼働を続けました。それを可能にしたのは「木骨煉瓦造」という、独特な工法や建物の合理的な配置、指導者の熱意、優秀な女工たちの努力でした。明治後期から昭和初期まで日本の生糸は輸出の絶頂期で、大正時代にはなんと! 世界の生糸の生産高の約6割を占めていました。生糸を売って獲得した外貨で軍需品や重工業製品を輸入していたので「生糸が軍艦をつくる」とまで言われていたそうです。日本の「富国強兵」は生糸によって支えられていたわけです。
世界遺産というと建築として美しい建物や歴史的建造物などが多いと思いますが、富岡製糸場は産業遺産です。絹織物という産業を興し、国の富を産み出した場所です。私も着物が好きなので、美しい着物を産み出した富岡製糸場へ一度、ぜひ行ってみたいと思います。
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