ひめゆり平和祈念資料館
2月 末、沖縄に行ってきました。沖縄戦の終焉地である南部戦跡巡りは観光コースになっていて、観光客がたくさん来ていました。旧正月(旧暦の正月。今年は2月 初め)には中国や韓国の観光客も来ていたそうです。戦跡巡りはバスで行くのが便利なので「沖縄バス」のコースに入ってみました。しかし、すぐに後悔しました。ガイドさんの説明がひどくて、聞いていて苦痛になるほどなのです。
誤解のないように申し上げておきますが、ガイドさんに罪はありません。仕事熱心で勉強家のガイドさんでした。しかし、観光ガイドにはマニュアルがあります。全国から来ているいろいろな層のお客を飽きさせず、適度に知識のあるところを見せながら分かりやすい説明をしなくてはなりません。彼女は戦跡巡りをするお客に「戦争は悲惨だ」「二度と戦争をしてはいけない」「日本軍は沖縄の人々を守らなかった」というメッセージを伝えようと一所懸命に話すのです。時には絶叫するように日本軍を悪し様に言うので聞いていて腹も立つし、本当に辛かったです。皆さん、沖縄を旅する時にはガイドさんの説明にご用心ですよ~ (笑)
「ひめゆり平和祈念資料館」は慰霊碑の左奥にあります。門は古いのですが建物は新しく、立派な設備です。しかし展示は非常にイデオロギー色の強いものでした。照明は全体的に暗く、陰鬱な音楽が館内に流れています。展示室は第一から第六まであるのですが、第三展示室は名前からして「解散命令と死の彷徨」です。この展示室の説明には「米軍が間近にせまった1945年6月18日 夜、解散命令が出され、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されます。解散命令後の数日間で、100名 余りのひめゆり学徒が死亡しました」とあります。つまり日本軍は勝手に召集しておきながら戦況が悪化すると、生徒たちを放り出してしまったので生徒たちは死んでしまった、と言いたいわけです。しかし生徒たちは本当に放り出されたのでしょうか?
『鳴 呼(ああ)沖縄戦の学徒隊』によれば、事実は違います。軍人は玉砕覚悟で戦っていますが、民間人は何とか生き延びさせたいと思って軍が「解散命令」を出したのです。「解散命令」を出さなければ少女たちは負傷兵のそばを離れようとしなかったでしょう。「一緒に死なせて下さい」と頼む少女たちを隊長が「君たちは生き延びなさい」とさとす場面が『鳴呼(ああ)沖縄戦の学徒隊』の中に何度も出てきます。「解散命令」が出て、壕を脱出できても結局、米軍の艦砲射撃に倒れたり、銃撃されたり疲れ切って自決したりしたのです。責められるべきは米軍なのに、なぜか日本軍が悪いことになってしまっています。
また「米軍が投降勧告をしたのに、彼女たちが出て行かなかったのは戦前の教育が悪かったからだ」という説明文もありました。「降参すれば 助かったのに、降参することを許さなかった教育が彼女たちを殺したのだ」という論理です。死者が反論できないのを良いことに、ずいぶん都合の良い論理を組み立てるものです。確かに「生きて虜囚の辱めを得ず」という教えはありました。日清戦争で清(しん)の捕虜になった日本の兵士が顔の皮を剥がされたり陰茎を切断されたり、残虐きわまりない拷問を受けたあげくに殺されたので、山縣有朋が「捕虜になるぐらいならいっそ自決しなさい」と教えることにしたのです。しかし、彼女たちが投降しなかったのは教育のせいではないと思います。日本人としての誇りがあったからだと思います。それを理解できなくなったのは戦後の日本人が誇りを失ってしまったからです。
日本人は生きるときはともに生き、滅びるときはともに滅びたい、と考える民族です。ましてや当時の女性の中でもっとも優秀な、いわばエリートである彼女たちが「国が滅びても自分だけは助かりたい」などと考えるでしょうか?
沖縄にも「沖教組」という日教組のような組織があります。「日の丸否定」「君が代否定」「反戦平和」「人権教育」を推進する組織です。「ひめゆり平和祈念資料館」の展示内容には沖教組を初めとする左翼勢力が関わっているものと思われます。彼らが戦前の教育を糾弾するのは、いかに戦後の教育が素晴らしいか、を強調し、日本人が大和魂を取り戻さないようにするためです。
「ひめゆり学徒隊」の少女たちは本来、顕彰されるべき「大和撫子の鑑(かがみ)」であるのに、いつの間にか「可愛そうな被害者」「軍国主義の犠牲者」にされてしまっています。彼 女たちは天上で「えっ、私たちって可愛そうな犠牲者だったの?」ときっと驚いているでしょう。これでは彼女たちも浮かばれないなあ、と憂鬱な気分で「ひめゆり平和祈念資料館」を後にしました。
