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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります。
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▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 今回は「武士道精神の実践」の第八話といたしまして、ある空自パイロットたちの殉職について紹介いたします。

 それでは、本題に入ります


【第22回】武士道精神の実践:空の武士道


 平成11年11月22日、13時2分。

 航空自衛隊パイロット、二等空佐・中川尋史と三等空佐・門屋義廣は、飛行訓練のため、T33練習機に搭乗し、航空自衛隊入間基地を飛び立ちました。二人とも、航空学生出身で飛行時間5000時間を超えるベテランのパイロットでした。

 この訓練は、「年間飛行」 といって現場を離れたパイロットの技量維持が目的でした。そのため、内勤になった中川二佐が、前部のコックピットに乗って機長として操縦桿を握り、現役パイロットの門屋三佐が教官として後部席に乗りました。約40分の飛行予定は、危険な訓練とは程遠いものだったのです。

 13時38分、入間基地の管制塔に、二人の搭乗した練習機から無線連絡がはいりました。

 「マイナートラブル発生」

 そのとき、T33は入間基地まで北東39キロ、高度760メートルの位置を時速450キロで飛行中でした。「マイナートラブル」。つまり、このとき、中川機長は軽いトラブルと認識していました。機体に異常な振動があり、オイルの臭いがしたといいます。

 13時39分、さらに無線が入ります。

 「コクピット・スモーク」

 操縦室に煙が充満したので、直線距離(最短コース)でもどるとの連絡です。このとき、基地から約18キロの地点でした。

 「大丈夫だろう。降りられる」

 中川機長は、落ち着いて基地への帰路を確認しました。

 ところが、13時40分。

 「エマージェンシー!(緊急事態)」

 T33が「緊急事態」を告げます。管制塔は、瞬時に緊張に包まれました。
 エンジントラブルは思ったよりもひどく、機体はどんどん降下していきます。当日、複数の地域住民が目撃したところによれば、

 「プスンプスンと変な音を立てながら、急降下していった。エンジン音はしなかった」(現場から数百メートル北に住む男性)

 「飛んでいるときのエンジン音はしなかった」(近くに住む主婦)

 と、エンジンはすでに止まっていたと考えられます。二人はエンジン停止という状況下で、あらゆる手を尽くしますが、急激に高度が低下し、もはや基地への帰還は困難と判断したようです。

 13時42分14秒。

 「ベールアウト! (緊急脱出)」

 中川機長から、緊急脱出が宣言されます。高度は360メートル、基地まであと4キロの距離でした。

 パラシュートで脱出するには、ある程度の高さが必要で、この機の場合、300メートルなければ落下傘がじゅうぶんに開かないのです。しかし、その13秒後の13時42分27秒。

「ベールアウト!」。

 ふたたび同じ言葉を受信。中川機長たちは、まだ脱出していなかったのです。高度は300メートル、安全に脱出できるギリギリの高さでした。しかし、この受信を最後に、中川機長からの無線連絡は途絶えます。

 そして9秒後の13時42分36秒。

 二人の乗ったT33は、地上約60メートルの高圧送電線に接触、入間川の河川敷に墜落しました。これにより、東京・埼玉で80万世帯に停電が起こったのです。

 T33が送電線と接触する直前、近所の目撃者が乗員一人の脱出を見ていました。高度約70メートル。後席の門屋三佐でした。門屋三佐のパラシュートは完全に開かないまま墜落し、地面に叩きつけられ、亡くなりました。中川機長の脱出は、高圧線と接触したその瞬間だったようです。垂れ下がった送電線のほとんど真下に中川機長は放り出され亡くなっていました。

 事故の概要を見てみると、ひとつの疑問が浮かびあがってきます。練習機に乗っていた二人の自衛官が、「ベールアウト」 すなわち、緊急脱出したのは、高圧線に接触した直前と、接触した瞬間です。しかし、二人は墜落する22秒前の13時42分14秒、さらに9秒前の42分27秒と、2度にわたり「緊急脱出」を宣言しています。にもかかわらず、どうしてすぐ脱出しなかったのでしょうか。そのときに脱出していれば、パラシュートの開く十分な高度があり、二人が亡くなることはありませんでした。この22秒間に、はたして何があったのでしょうか。

 翌年の四月、空自の事故調査委員会が発表した調査結果があります。これによると、パイロットが一回目の「ベールアウト」を通報した13秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいたことについて、「いったん脱出しようとしたが、さらにもう少し頑張ろうとしたため」ということが分かりました。

 いったい、彼らは何を「頑張ろう」としたのでしょうか。

 実は最初に「ベールアウト」を宣言したとき、二人の眼下には、狭山ニュータウンの住宅街が広がっていたのです。彼らは危険を承知しながらも、地域住民に被害が及ばぬよう、何とか機体をコントロールして、人のいない入間川の河川敷まで機体を運び、そこで墜落したということなのです。
 結局、二人は高度70mという墜落ぎりぎりのところまで踏ん張りました。高圧電線を切断して大規模な停電を発生させたとはいえ、民間の生命・財産に重大な被害を与えずに済んだのです。
 もし宣言通りに高度300メートルで脱出していれば、彼らは助かったかもしれませんが、T33は住宅街に落ち、停電どころの騒ぎではなかったでしょう。
 二人は己自身にせまりくる死の恐怖よりも、『国民の生命財産を守る、その使命のためには自らの命を懸けても職務を遂行する』という自衛官の宣誓を、身を以て実行したのです。
 亡くなった二人の自衛官、中川尋史さん(享年47歳)と、門屋義廣さん(享年48歳)。何故、このような決断と行動ができたのでしょうか。二人はどのような人だったのでしょう。
 中川さんと航空学生入学時からの同期生で、門屋さんのこともよく知る現役航空自衛隊員のKさんに話を聞きました。
 中川尋史さんは、長崎県佐世保の出身で、地元の高校を卒業後、昭和47年に航空学生(第28期)となりました。自衛隊のパイロットに憧れる若者は多く、航空学生になるのは、大変な難関でした。およそ70名(当時)の募集枠に対して、毎年約3000名以上の志願者があり、学生の内、3分の1くらいは浪人経験者でした。その多くの学生同様に、中川さんも戦闘機のパイロットに憧れる少年の一人だったのです。
 自衛官となった中川さんは、その後、指揮幕僚課程(CS)に合格。これは、航空自衛隊の将来を担っていく優秀な人材(幹部)を育成する部署で、ごく少数の隊員が厳しい試験で選ばれました。
 もちろんパイロットとしても非常に優秀で、優れた技量が要求される飛行教導隊のアグレッサ(戦闘機のパイロットを訓練するための仮想敵機役)の任務についたほどでした。
 門屋義廣さんは、愛媛県出身で、やはり航空学生 (第25期)から叩き上げのパイロットでした。操縦者としての腕は抜群で、早くからF15戦闘機に搭乗し活躍していました。一般に戦闘機の場合、飛行2000時間を越えると、ベテランのパイロットとされていますが、門屋さんはそれを大幅に超える6492時間。
 生涯現役の操縦士の道を歩んだ門屋さんは、筋金入りのパイロットだったのです。親々とした性格で、いつも笑顔を絶やさない人で、門屋さんの怒ったところを誰も見たことがないほど優しい人だったといいます。