「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
   平成25(2013)年7月16日(火曜日)
   通巻第3983号   <前日発行>
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 早送りコマ漫画のように見出しだけを羅列してみると歴然となる
 日本経済新聞を時系列に眺めても、中国経済の深刻な危機が判別できる
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 日本経済新聞の過去わずか三週間の中国報道の見出しだけをざっと並べてみる。
日経は、某新聞のように洗脳目的の見出しや、主観的用語を極力排除し、つとめて客観的報道をすることで知られる。
たとえば「深厚な経営危機」と記者が書くと、編集局長が「『経営危機』は『深刻』に決まっているのだから『深刻な』は不要である」という教育をする(拙著『ザ日経』、参照)。
 その日経が中国経済の苦境を端的に、しかし淡々と次のように報じたことは将来の経済史家にとって大いに参考となるだろう。

「中国、資源爆食のツケ、国有企業泥沼」(6月18日)
「中国、影の銀行蔓延、連鎖破綻の懸念」(6月19日)
「製造業景況が悪化」(6月20日)
「金利急上昇を容認、影の銀行対策」(6月21日)
「中国金融市場動揺続く 信用保証料率高水準」(6月22日)
「震える中国市場、銀行の資金繰りに懸念」(6月25日)
「中国リスク、世界が警戒。株安、アジアに波及」(6月26日)
「投資偏重を修正、景気減速受け入れ」(6月27日)
「景気刺激に消極的――利下げなし半数超」(6月29日)
「影の銀行、残高130兆円」(6月30日)
「中国当局、規制強化急ぐ」(同)
「中国の輸出拠点苦境 水増し監査で不信表面化」(7月4日)
「金融リスク防止に重点」(7月6日)
「中国景気、軟着陸へ関門、輸出落ち込み鮮明」(7月11日)
「影の銀行改革、米が要求」(同)
「不動産販売減少、銀行融資絞り込み」(7月12日)
「中国の海外M&A急減、金融混乱が影響」(同)
「中国資金供給、伸び鈍化鮮明」(7月13日)
「人民元、一段と柔軟に。米中手探りの協調」(同)
「住民デモで異例の撤回、環境汚染に不満噴出」(7月14日)

 こうして並べてみると、だんだんと中国経済の深刻な景況が鮮明に浮かぶのではないか。 拙著『中国経済の崩壊が始まった』(海竜社)は25日発売です。
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■BOOKREVIEW ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー☆
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 幕末明治に水戸光圀も東郷平八郎も礼賛した楠木正成
 700年の時空を経て日本にふたたび蘇る可能性はあるか

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家村和幸『兵法の天才 楠木正成を読む』(並木書房)
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 後醍醐天皇が笠置山に義挙の烽火を挙げた。「鎌倉幕府打倒」を掲げての挙兵に応じたのは日野資朝と日野俊基のふたり。山伏に姿をかえて近畿一帯を歩き、地方の豪族を説き伏せた。
 義に参じたのは楠木正成だった。
強大な鎌倉幕府の専横と横暴に誰もが不満を抱きながらも、正面から軍事的挑戦をなそうとする蛮勇の侍は不在だった。その境遇をあえて無名の豪族が名乗りを上げ千早城に挙兵し、大胆で意表を突く兵法を繰り出し鎌倉幕府を弱体化させた。
 その英雄の名は言うまでもない。楠木正成である。
 楠木正成は元弘元年(1331)九月に、下赤坂に挙兵し「湊川の戦いにおいて四十三歳で戦死する延元元年(1336)五月二十五日までの五年間にわたる『大楠公の戦歴』こそが南北朝動乱の歴史の本体をなしている」
と著者、家村和幸は言う。
 楠木正成は「難攻不落の千早城を築きあげた。敵兵を引きつけてから巨石や丸太を転げ落とす、熱湯や糞尿を浴びせる、敵がよじ登った塀ごと谷底に崩れ落ちるなど、数々の奇抜な戦法を駆使して、五十倍の鎌倉幕府群による攻城を七十四余も食い止めた(中略)。天下の形勢は一変した」
 この楠木正成の兵法は大江家の第四十一代大江時親が教えた。『孫子』と『戦闘経』の二つを楠木正成に伝授されたが、とりわけ孫子は「必ずしも日本の歴史、文化や風土に根ざした民族性に合致したものではなく、自然と一体感、正直、勤勉、誠実、勇気、協調と和、自己犠牲の精神などのような古来日本人が尊重してきた精神文化を損なう懼れすらある」として楠木正成は『戦闘経』を好んだという。
その華々しき戦闘方法は以上の経緯を経て、日本的独創的戦闘方法が実現された。
『太平記』に書かれた「櫻井の別れ」の名場面は、創作説が根強いといえ、古くからの伝承であり、概要は次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、いちどは都落ちした足利尊氏、九州で武装を立て直し、こんどは怒濤の進撃で山陽道を駆け上がってきた。その足利尊氏の軍勢、じつに十数万。こなた楠木正成の軍勢は僅かに七百。
 新田義貞が総大将の朝廷方は兵庫に陣を敷いたが、この程度では足利に叶わないため、尊氏と和睦するか、または都を捨てて一度、比叡山に籠もり、京に足利軍を誘い込んで撃つべきと後醍醐帝に提言するも、聞き入れられず、正成は最後を覚悟して湊川へ旅立つ。また主力の新田軍をすみやかに後醍醐帝のもとへ帰還させる戦術でもあった。
 途中、桜井において楠木正成は嫡子・正行を呼び寄せて言った。
 「お前は河内へ帰れ。父と共に戦死するより、我が戦死のあと、帝のために身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残っていつの日か必ず朝敵を滅せ」として『七生報国」の重要性を諭した。
 形見に後醍醐邸から下賜された菊水紋の短刀を授けた。
 それが「櫻井の別れ」の名場面、戦前は国民教科書に必ず書かれ、小学唱歌として歌われた。楠木正行は後年、四条畷に足利軍を迎え華々しく散った。
 「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」♪ いつもこの歌を評者(宮崎)が歌いだすと、新宿のスナックで最後まで続けるのは、かの西部遇氏である。
 ともかく楠木正成はまさに兵法の天才だったと解説するのが本書である。
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■BOOKREVIEW ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー☆
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 山本八重はなぜ女だてらに鉄砲うちとなったか
 会津城籠城戦争の悲惨な歴史は日本の女たちの意識を変えた

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中村彰彦『武士たちの作法』(光文社)
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 上杉謙信はなぜ天下人になれなかったか。それは天下を取るという戦略が不在で、春日山城に閉じこもった自閉症的武将で、しょせんはローカルなことにしか関心がなかったからだと本書の中で中村彰彦氏はあっさりと斬って捨てる。
 山内容堂が、なぜあれほど武井瑞山を憎んで切腹に追い込んだか、それは長宗我部以来の土佐藩独特の身分制度の弊害が幕末維新にまで残っていたからに他ならない。
 坂本龍馬のルーツは山城国で、その家禄は山内家臣団の上役より良かったのは何故か。
 高杉晋作の奇兵隊は、高杉が早死にしたからこそ歴史に輝くが、その実態を知れば尻餅をつくほどの驚き、奇兵隊に代表される諸隊は五稜郭までせめいった後、報償をめぐって藩政庁に反旗を翻し、戊辰戦争で費消した量を上回るほどの砲弾弾薬を投じて藩政庁を攻めた。まさに奇兵隊というより愚連隊である。
 このように本書は従来の通説を越えて、歴史の闇に埋もれた真実を次々と掘り起こしてゆくが、圧巻は会津戦争を戦い抜いた山本八重の描写である。
 山本八重はなぜ男装してまで闘ったのか、彼女は巴御前の伝統を引く女武者になろうとしたのか。
しかし八重は弟の死、中野竹子の死、父親も戦死という境遇の中で立ち上がるという心理的過程が描かれる。